治幸本岡

じうこともかお

骨抜きにされた日本人

検閲、自虐、そして迎合の戦後史

平成十四年一月二十一日 PHP研究所
ISBN4-569-61938-X C0030 税別千六百円


 現在の日本の混迷は、ただ経済不振だけの問題だろうか? すべての問題の根源は、戦後、アメリカの占領政策が作り出した、「四十五年体制」とその精神構造にあるのではないか? 著者はこの問題関心から、日本人が「精神的武装解除」されていった過程を詳細に追っていく。
 決してさとられぬように極めて巧妙に展開されたGHQによる検閲や言論統制の実態。そして、それに易々と従ったジャーナリズム。「明治憲法改憲すべからず」という敗戦直後の自らの見解を軽々と捨てさった憲法学者。東京裁判を礼讃するがために法律の原則すら投げ打った国際法学者。西欧のありえぬ理想をそのまま日本の現実にあてはめて同胞を嘲笑した「進歩的知識人」。GHQを「解放軍」として利用しつつ、新聞社や出版社を侵食していった共産党細胞。
 戦後、日本人の精神に対して何が行われたかを総覧し、「見えざる檻」の全体像を暴いた、著者渾身の力作である。


 はじめに

 わが国では、新たな年は新たな希望と展望で始まるのを習わしとする。旧年の苦労、不安、不満、そしてもろもろの煩悩を百八の除夜の鐘とともに送り出して、新たな年を、新たな期待と新たな精神とで迎える。
 平成十三年、わが国は新たな世紀、二十一世紀を迎えた。顧みると二十世紀の後半、敗戦の惨禍から不死鳥のように立ち上がり、経済大国となった日本は、一九八〇年代の後半には、アメリカの製造業を衰退させ、一人あたり所得でアメリカをも上回り、世界最大の債権国の地位を奪い取り、「二十一世紀は日本の世紀」という楽観的な予測が、国内だけでなく、国外においても口にされるようになった。
 しかし、それから程なく、経済のバブルははじけ、金融と情報の世界において優位に立ったアメリカが世界経済の主導権を握り、グローバリゼーションという名で、アメリカ型経済の世界標準化が進んだ。冷戦構造の檻の中でひたすら餌を求めて動き回った(経済至上主義の)日本は、過去の成功体験とその間に構築された諸制度がかえってしがらみとなり、政治指導力の衰退によって果断・機敏な改革に踏み切れぬまま、「失った十年」(これは不作為による人災であり「失われた十年」という天災に遭ったかのような受け身の表現は用いない)に低迷することになった。
 二十一世紀の幕はすでに上がったのに、新世紀にふさわしい希望と期待に胸膨らませて、国家百年の体計に取り組もうという気配はほとんど感じられない。世紀末の「失った十年」はそのまま延長戦に入り、新世紀に入ってから、経済的展望はかえって陰鬱なものとなっている。


経済だけではない。かつて日本が誇りとした初中等教育や治安の良さにも諸問題が噴出し、国民心理全般に、暗い影を投げかけている。
 いったい日本はどこに行こうとしているのか。二十世紀において数々の困難に直面しながらも、奮進努力して上昇基調を歩みつづけた「日出づる国」は、新世紀に至ってついに「日の沈む国」への道を転がりはじめるのであろうか。
 いや、そうあってほしくない。このような閉塞状況から脱出したい、という多くの国民の期待を担って、平成十三年、「聖域なき構造改革」の新題目を唱える「変人首相」が誕生した。小泉首相は、万年与党が経済成長期に入り念入りにつくりあげた既得権や利権構造を自ら破壊しようとしている「変人」である。しかし、従来型の「常人」首相では時代の変化に対処できないことが、世紀末の低迷経験から明らかになったいま、「立正安国」を唱える「変人」僧侶の〈南無妙法蓮華経〉に鎌倉人が救いを求めたように、「変人」首相の新題目である〈南無構造改革経〉の御利益に、さしあたり望みを託していくほかはないと多くの国民は考えているように見える。
「構造改革」を断行しなければ、制度疲労に立ち至ったこの国を安心して住める国にすることはできない。「変人」首相のこの考えは基本的には誤っていない。私の見るところ、小泉首相の「聖域なき構造改革」は大きく二つに分けられる。第一は目に見える政治・経済制度の改革であり、第二は必ずしも目には見えないが、より根本的で、長期的観点に立てば決定的に重要な精神・魂の改革である。問題は、小泉内閣の「構造改革」が、第一の、経済的な、目に見える分野に偏っていないかという点である。人間が肉体をもつ生き物であるかぎり、肉体の維持に欠くことのできない経済活動は大切である。


しかし、たとえば、経済の再建が成れば、教育はおのずからよくなると期待できるであろうか?
 健全なる魂は、健全なる肉体に支えられることが多い。しかしながら、逆は必ずしも真ならず。肉体(経済)が健全であれば、魂(教育)はおのずから健全になる、とはいえない。もしそうであれば、宗教人はまずラジオ体操にでも励んだほうがよいということになる。弱い肉体をもった知識人は、かつて毛沢東が試みたように、強制労働に下放するのが効果的ということになるだろう。
 私は若いころに、よく一人で山歩きに出かけたことがある。山中で道に迷い、ひたすら活路を求めて前進したが霧に包まれてあわや遭難というところを、幸運にもベテランの山登りに救われた。そのとき彼が教えてくれたことがある。難路で霧に囲まれ道に迷ったときは、時間の無駄のようだが、もと来た道を引き返せ。いったん出発点に立ち戻り、進むべき方向(地図)をしっかり把握してから前進せよ、と。
 この教えは、霧が深く立ちこめて道に迷い、肉体の疲労(経済不振)に加えて精神的な閉塞状況(自信喪失)に陥っているわが国の将来を考えるうえで、適切な示唆を含んでいるように思われる。小泉首相は第二の「精神的構造改革」にも積極的に取り組む大きな器量をもった人物と期待されて登場したが、八月十五日の靖国参拝を中韓の執拗な外圧に屈して日程変更して以降の言動を見ると、歴史認識においても社会党村山首相の「謝罪談話」を一歩も出ていないなど、「精神の改革」に何が必要かという根本認識において、近年大量生産された小粒首相と何の変わりもないように見える。これでは「変人」首相の存在意味がない。


 本書は、二十一世紀の日本のあるべき目標に向かって前進する前に、まず出発点に立ち戻って、「戦後日本」の基本構造を確認するとともに、占領下で活躍した知識人と、その言語空間を規定していた検閲の実際について批判的に検討したものである。私の既刊著作のなかでは、『凸型西洋文明の死角──世紀末はなぜ危機なのか』(柏樹社、再販いぶき書房)、『脱戦後の条件──凸型文明から凹型文明へ』(日本教文社)などと問題意識を共有している。
「戦後日本」の出発点で頑丈な枠組みをつくったのは、アメリカの占領政策であったが、ここでは日本のメディアに加えられた検閲の実際に、とくに注意を払っている。小泉首相は歴史が好きと聞くが、せめて自国の現代史についてこのような事実のあったことを理解したうえで外交に望んでもらいたい。歴史認識問題は日本の「精神的構造改革」と密接不可分の課題である。
 バブル経済がはじけた前後に、経済だけでなく、政治の構造改革をやらないと駄目だという危機感が高まったことがある。これが結局、自民党一党独裁体制を切り崩し、連立政権時代の幕を開いたのであるが、問題は、構造改革すべき原点、出発点の把握が間違っていたことだ。
 いわゆる「五五年体制」に諸悪の根元を見出し、これに手を加えて万年与党の権力を失わせることによって、日本政治の再生がなるとした点に不徹底さがあった。その後日本政治がいっこうによくならず、世紀末の病理から抜け出せなかったのは、肝心の基本的診断に誤りがあったからである。


「五五年体制」ではなく、そのルーツである「四五年体制」とその精神構造の抱える問題を正確に把握し、克服しないかぎり、たとえ経済の暗い霧は晴れあがったとしても、魂の日本晴れはやってこないし、真の日本の再生はありえないだろう。
 本書はもと「日本国憲法改造原理要綱」という表題のもとに、同人誌『史』に連載していた原稿からなっている。出版に際しては、PHP研究所学芸出版部吉野隆雄氏、櫻井済徳氏にお世話になった。川上達史氏には章の組み替えから表記の問題に至るまで綿密な指摘をいただいた。厚く御礼を申しあげたい。

  二十一世紀元旦霜月 京都洛北にて

岡本 幸治  


 おわりに──二十世紀の日本と二十一世紀の日本

 本書が検討の対象としてきたのは昭和二十年の敗戦とそれに続くアメリカ(形式的には連合国)の占領時代、とくに初期占領政策が展開された敗戦直後の短い期間であるが、この時代に焦点を合わせたのは、過去の歴史に対する個人的興味や、日本国民の理解が十分でない現代史の実相を伝えておきたいという願いだけからではない。私の関心は過去よりもむしろ現在そして将来の日本にある。新たな世紀にこの国を──ただいま深刻な閉塞感にさいなまれているこの国民を──故なき心理的萎縮や自信喪失から解き放つには何が根本的に必要かという問いが、こんな形になったのである。

 二十世紀の日本の足跡
 顧みると、過ぎ去った二十世紀の日本は、歴史的に大観すれば、その名の通り「日出づる国」であったといってよかろう。
 二十世紀はじめに、南下政策を追求し露骨な膨張を画策していた軍事大国ロシアに対し勇敢に戦い勝利したこの有色人種の国は、アジアだけでなく世界の非抑圧民族(その中にはアメリカの黒人団体も、イスラム諸民族も、遠くはヨーロッパのフィンランドも含まれている!)から賞賛され、白人列強支配の世界を変えうる唯一の有色人種の国として注目されるようになった。とくにアジアの民族独立運動・解放運動に与えた大きな影響は、二十世紀史を語る者が逸することのできない物語をその後の青史に刻んでいる。当時白人から先天的な劣等人種とみなされていた有色民族も、努力次第で自らの国民国家をつくり、白人列強と対等に渡り合える能力をもちうることを事実をもって示したからである。


 その後複雑な国際政治経済の変動・流動過程のなかで軍事力を支えとして勢力圏を拡大し、軍事力によって英米連合国と真正面から衝突したこの国は、史上未曾有の敗戦そして外国軍による占領という厳しい試練の時代を迎えなければならなかった。ところが冷戦の勃発とともにアメリカの占領政策は大きく変転し、日本敵視はソ連(共産中国)敵視政策に代わった。これが日本経済の回復・発展においてきわめて有利に作用したことは疑いがない。日本は自由経済を標榜する強いドル圏のもとで、安全保障のためのコストを最小限に抑えながら経済発展に専心することができたのである。
 外部から与えられたこのような環境を最大限に活用した日本は、戦禍の荒廃の中から不死鳥のようによみがえり、いつのまにか経済大国になった。一九八〇年代後半には「二十一世紀は日本の世紀」という予測が現実味をもって国の内外で語られるようになった。日本よりも遅れて近代化に取り組みはじめたアジアの途上国にとって、日本が示した経済発展の軌跡は、大きな示唆と鼓舞を与えるものであった。日本に学んだNIES(台湾、韓国、香港、シンガポール)の急速な経済発展は東南アジア諸国を刺激し、ついに共産中国の経済政策を激変させ、「社会主義型」経済発展を追求してきたインド、南アジアにも及んだことはその現れである。
 すなわち二十世紀史においてわが国は、前半はその軍事的能力をもって、後半はその経済的能力をもって有色民族の高い可能性を示し、「アジアの復興」を主導したということができる。


東京裁判は大東亜戦争を侵略戦争だと断定し、多くの指導者を処刑することによって世紀前半の日本の業績を全面否定しようとしたが、二十世紀はじめにせいぜい四十ヶ国しかなかった独立国の数が、世紀末において国連加盟国だけで約百九十になったのはいったいなぜなのか。日本の「侵略戦争」が、数世紀かかって欧米列強の構築した植民地体制を瓦解させ、植民地の独立を招来するうえで決定的な役割を果たしたためである。侵略可能な実力を有するもののみが、欧米支配の構造に衝撃を与え、アジア民族の植民地からの解放(自らの植民地化も含めて)を実現することができたという重い事実(欧米植民地帝国にとっては不快極まる事実)から目を背けるべきではあるまい。
 二十世紀の日本は、軍事・経済の両面で、白人による人種差別・有色人種蔑視の歴史を大きく転換させる足跡を残したことになる。巨視的な観点から世界史あるいは文明史の流れを洞察するとき、先人たちの遺したこの偉大なる業績には感服せざるをえない。

 新世紀の国家・国民目標の提示
 ところが新世紀を迎えてからも、この国には陰鬱な閉塞感が漂っている。戦後の日本人が最も誇りとした経済成長が陰りを見せたこと、政治・社会・教育面でさまざまな制度疲労が進み、「日の沈む」初老期に入ったと思わせるような不祥事が頻発したことなど、いろんな理由が複合的に作用しているが、最も大きな理由は、経済発展至上主義に代わる新たな国家・国民目標が提示されていないことにあると、私は考える。これから進むべき途が明らかでないのだ。人間は将来に夢があれば、現実の苦難や厳しい状況にも耐えることができる。


明治維新以来山あり谷ありの激動期における日本国民の生き方・足跡は、それを事実をもってよく示しているではないか。足下の現実が不景気・首切りその他で暗い話題に事欠かぬものであろうとも、新世紀の日本の進むべき方向が明らかであれば、日本人は現実の苦難に耐え、頭を上げて進むことができる。
「道に迷ったときはもと来た道を戻れ」という先人の知恵(「はじめに」でふれた)をもう一度思い出そう。この点でわれわれに参考になるのは、二十世紀の初頭『東洋の理想』を英文でものして欧米の知的世界でも高く評価された岡倉天心の言葉である。
 彼はいう。「日本民族の特異な天分は、古きを失うことなく新しきものを喜び迎える、あの生ける不二一元論の精神によって、過去の理想のあらゆる局面を余さず維持しようと努める」ことにある、と。アジア民族の特性は「究極的なもの、普遍的なものに対する広やかな愛情」であり、これこそが「世界の偉大な宗教の一切を生み出さしめた」(仏教、ヒンズー教はもちろんキリスト教もイスラム教もアジア産の宗教である)。
 このようなアジア人は「地中海またはバルト海の海洋民族がひたすら個別的なものに執着して、人生の目的ならぬ手段の探求にいそしむのとは、はっきり異なっている」という。世界宗教のすべてを生み出したアジア文明は、人生の手段ではなく、より根本的な目的を探求する深さにおいてその特性をもつというのである。そして「こうした複雑の中の統一ともいうべきアジア的特性をひときわ明瞭に実現する作業こそ、日本の大いなる特権であった」。


 しかしながら天心のこの大いなる理想(日本の大いなる特権)は、二十世紀には実現しなかった。日本も他のアジアも生き抜くために、人生の目的よりも手段の探求に、欧米人以上のエネルギーを注がなければならなかったからである。日本が二十世紀において成し遂げた軍事・経済のめざましい成果は、生きるため、自存自衛のための手段であって目的ではなかった。そして日本人は、手段のひたすらな追求と成功が必ずしも人生の目的を明らかにしてくれないばかりか、かえって魂の空しさと精神的堕落、ついには生き甲斐のまったき喪失すら生み出すことを知った。目的を失った手段の肥大化は、人間から安らぎを剥ぎ取り、国家から品格を奪い去る。二十一世紀初頭の日本人を覆っている閉塞感は、これまで自信のよりどころであった手段(経済成長)まで失うことによって、心のよりどころを喪失した「魂の漂泊者」がもつ不安感の表れではないだろうか。
 この対策が、やれIT産業の振興だのベンチャー企業の創出だので終わったのでは、われわれは歴史から何も学んでいないということになる。いまこそわれわれは個人としても国家としても生きる「目的」を問い直し、その中に「手段」をきちんと位置づける必要があるのではないだろうか。国民の多くが期待している小泉首相の「聖域なき構造改革」も、この点に関する認識が十分でないのが、まことに残念である。人間は心身不二の生き物である。「経済の構造改革」に偏して「魂の構造改革」をおろそかにすれば、「聖域なき構造改革」は精神的基軸を失い、やがて失速する。いまはそのような時代なのである。


 原点からの出発
 この問題に対処するためには、文明史的な考察を必要とする。私は「知」を偏重し自己主張・自己拡大をよしとする近代文明(手段の発達において空前の成功を遂げたが、まさにそのために問題点を露呈しつつある凸型文明)の問題点を踏まえながら、これに代わる新時代の文明として、心(知情意)と身体の不二・調和を重んじ、他(他人、自然、大自然・大生命体としての神仏)に対する謙譲を尊んだアジアの深い英知を吸収し保存してきた日本文明(凸型文明)の可能性を摘出し、その要点を簡潔に〈凸型文明から凹型文明への転換〉という言葉で表現してきた(『脱戦後の条件』第六章)。
 これは百年前の天心の問題提起に対する私なりの回答である。人生の目的をまず明らかにして、「三代目」の「売家」精神症候群を克服するとともに、新世紀の新たな国づくりの目標にしようではないかという提言である。
 本書はこの理想を新たな国家・国民目標として実現する前提として、半世紀以上を閲した「戦後日本」の出発点を探り、今日の根無し草的精神あるいは自信喪失して漂白する魂の由来を尋ねたものである。脚下照顧して基本問題をまず明らかにし、それを克服してのちに、自信をもって歩を前に進めるための準備作業である。
 検討作業の結果ははっきりしている。初期占領政策という「檻」がいまだに目に見えない形で日本人の精神をむしばんでいる。過去の日本を否定するための代表的政策であった東京裁判の後遺症が歴史認識の歪みを生み出し、近隣諸国に対する「謝罪外交」を当たり前のように思わせている。


アメリカの望む「脅威にならない」国に日本を改造するために、GHQ民政局が原案を作成しマッカーサー皇帝が日本国民に下賜した現憲法が、敗戦直後の「檻」を固定させ、日本の安保・外交政策だけでなく、精神構造にまで目に見えない悪影響を及ぼしつづけているのだ。
 憲法を自らの意志でつくり直す作業は、日本をいかなる国にしたいのか、日本国民はどんな生を、どんな理想実現を目指して生きようとするのかといった人生「目的」の問い直しを当然に含むものである。占領軍のお仕着せ憲法をいつまでもありがたがる植民地根性から脱却できないかぎり、日本のほんものの再生(真生)はない。
「戦後」の基本構造は敗戦直後の占領政策によってつくられた。その時代の実相を正しく知り、それが一見無関係とみえる今日の日本にいかなる影響を及ぼしているかをしかと認識し、その問題点を克服することが、二十一世紀を迎えた新たな日本の出発に不可欠であるというのが、本書のいいたかったことである。


還る