◆◇◆ ロジェ・マルタン・デュ・ガールとは ◆◇◆

 

マルタン・デュ・ガールの肖像l’association des Amis Martin du Gard )

ロジェ・マルタン・デュ・ガール Roger Martin du Gard は、1881年、パリに生まれます。彼の家は代々法律関係の職に就いているカトリックの裕福なブルジョワ家庭でした。

科学が目覚ましい発達を遂げ、あたかも人類が限りなく進歩するかに思われていた科学主義の時代、19世紀末に育ち、10代の頃にカトリックの信仰を捨てます。

両親は彼に法律の道を歩むことを望みましたが、10代の時にトルストイに感銘を受け、小説家になることを決意します。そこでマルタン・デュ・ガールは両親の要求から一時逃れるために、古文書学院に入学にしますが、この時に身に付けた厳密な歴史研究の方法は、マルタン・デュ・ガールの小説執筆のスタイルとして定着します。

古文書学院を出た後、25歳頃から本格的な執筆活動に入ります。何度か大作を試みては失敗した後、ドレフュス事件を巡る知識人の諸相の中に、「一人の男の運命と一つの良心の歴史」を描きだした「ジャン・バロワ」によって、ついに文壇にデビューを果たしました。これはマルタン・デュ・ガールの第二の代表作となります。1913年、32歳の時でした。この時「N・R・F」誌のグループに入ることとなり、生涯の友となるアンドレ・ジッドとの出会ったのです。

しかしデビューの矢先の1914年、第1次世界大戦が勃発し、マルタン・デュ・ガールは4年間にわたり、自動車輸送班で従軍します。

復員後、彼は代表作となる「チボー家の人々」に取りかかりました。1920年の時点で全ての筋書きを考え、1922年から1929年にかけて、予定通りに第一部から第六部までが執筆・出版されました。第七部「一九一四年夏」は7年間のブランクの後、1936年に漸く出版され、ノーベル文学賞を獲得します。最終巻の第八部「エピローグ」が出版されてこの大作が完成したのは、1940年1月、第2次世界大戦下のことでした。

「チボー家の人々」は、まさに第1次世界大戦と第2次世界大戦のはざま──戦間期──に描かれた作品で、この不安定な時代背景は、「チボー家の人々」の作品世界に消しがたい痕跡を残しました。「チボー家の人々」は、第1次世界大戦という未曾有の戦争を経てもなお、再び同じ過ちが繰り返されようとしている時代におかれた、マルタン・デュ・ガールの苦闘そのものと言えるでしょう。

この後、次の大作「モーモール大佐の回想記」に着手し、余生をこの作品に費やしますが、これは完成することなく1958年、77歳でその生涯を閉じます。

 

※下線部は注をつける予定です。しばらくお待ち下さい。

 

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