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 残照




忘れられない声があった。
「時子…我は……誰に託せば良いのだ?この先…誰に……。」
血を吐くような痛みに彩られた、とても弱々しい声。
時子はずいぶんと長い時間を共に過ごしてきたが、夫のこんな声はこの時までついぞ聞いたことがなかった。
「時子、重盛が平家に、我が元に戻った今、何も案ずることはない。
 平家は再び隆盛を極めよう…!」
甦って間もなく、夫は時子にそう言った。
確信に満ちた声に震えるほどの喜びを滲ませて。
同じ人物から放たれた、しかし全く対照的な声音のそのどちらもが、耳から離れず残っていた。
どちらを聞いた時も、時子の胸は張り裂けそうになったから。
その時、時子はただ泣き崩れることしかできなかった。
心の中で幾度も、殿、殿…!と声にならない叫びを上げ続けながら。
いや、もしかしたら今も時子は叫び続けているのかもしれなかった。
こうして一人夕日を眺めていても、思い出されるのはその時のことばかりなのだから。
茜色の日を一身に浴びながら、あの時から――と時子は思う。
頼りにしていた嫡男に先立たれた時から、夫の中に平家の行く末を憂える心が巣くった。
もう老齢と呼べるほどの齢だったから、ここにきて跡継ぎを失ったことは激しい焦燥と不安に駆られたに違いなかった。

――そうして、夫は迷った。

不安は迷いとなり、迷いは未練を生んで往生を妨げた。
怨霊として甦り平家を支え続ける道を選ばせてしまった。
今もなお、迷っている。
甦った時、夫が彼の青年をまだ有川将臣と呼んでいた頃の記憶は、すっぽりと抜け落ちていた。
生前は戯れで将臣殿を「重盛」と呼ぶことはあったけれど、あくまで戯れに過ぎなかった
というのに。
あの頃は、確かに将臣殿と重盛殿を別人と認識していらした。
それが、甦ってからは彼をして重盛としか呼ばぬようになっていた。
ただそう呼ぶ、というのではなく、真実彼を重盛殿そのものと信じて疑わぬように。
全てはなんとしても平家を永らえさせたい――重盛さえいればそれは叶う――
という清盛の妄執が、自身の目をくらませたといえる。

そんな清盛を見ているのが時子には苦しく、悲しく、けれど同時に、誰より清盛の気持ちが分かり、愛おしかった。
時子は思う。
殿も私も…子供達に、ただ生きていて欲しいだけなのです、と。
夫が己の生涯の全てを懸けて守り、築き上げてきたもの。
それは平家に他ならない。
夫を陰で支えてきた時子にとってもそれは同じことだった。
「重盛殿は…全て受け入れられたのでしょうね…。」
一門が衰えていくことをも。
時子はぽつりと呟く。
清盛がどれだけ死反の儀を行おうとも、重盛だけは決して応えようとはしなかった。
時子にはその姿勢が全て物語っているように思えた。
彼は生前もそうであったように、死してなお平家を、清盛を諫めているように。
理を覆してまで永らえて何になると。
それは歪みを生み、歪みはさらに新たな諍いと悲しみを生み出していくのだと。
分かっていた。
よく分かってはいた。それは時子にも。
このようなやり方は間違っている。
上手くはいえないけれどそう感じる。
けれど一門が…子供達が生きる未来を願わずにはいられない。
この思いを留める術を時子は知らない。
それに、と一方で時子はこうも思うのだ。
重盛殿が全てを受け入れ、未練を残すことなく世を去られたのは、長く病床にあり、
自身の死が避けられないものだと分かっていたからではなかろうか、と。

自身の命の限りを見極めたその時、世の有り様を、移ろいをも悟ったのではないか。
決して一門の行く末を思わなかったわけではないのだろう。
憂えなかったわけではないのだろう。
それでも…死という避けられぬ理に相対した時、移ろい行くこともまた、理だと知ったのではなかったか。
けれどその重盛殿に比べ、我が身は――
「なんと浅ましいのか…。」
思わず、声が震えた。
強い願いは執着となって身を縛る。
それが分かっていても捨てきれないでいる。
仏門に入ってさえ、なお。
この愛執の思いの果てには、無明の闇しか広がることはないのかもしれない。
沈み行く思考に、ふと、一人の青年の面影が浮かんだ。
若き日の重盛殿とよく似た面差しをした青年。
今は還内府と呼ばれるその存在が、どれほど平家の希望となっていることだろう。
平家に宿った一つの光明。
彼ならば――。
彼ならばこの闇を照らし、新たな道を示してくれるのではないだろうか。
そうであって欲しい。
そう信じている。
彼の情けに甘え、縋るこの思いは殊更罪深くとも。
一門が、子供達が、生き延びて欲しい。
じっと見つめる時子の視線の先には、沈む日の光を受けて輝く雲があった。
残照を受けて燦々と輝くその姿は、燃え尽きる末期の炎のようにも見えた。
雲の背後には藍色の宵がひたと迫ってきている。
やがて全ての雲があの闇に包まれ、輝きは失われるのだろう。
時子はそっと目を伏せる。
それは世の理として避けられぬことだけれど――。
ゆっくりと目を開き、もう一度、未だ煌めく雲に目をやった。
残り日を灯す雲をその目に映し取るかのように。

明日、日を受けて輝く雲を、また目にすることが出来るだろうか。




――夜明けまでは、まだ遠い。






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           あとがき
            尼御前を見ているといつも、胸が苦しくなります。
            自分の大切な人たちの命が失われていくのを見るのは
            どれほどの悲しみと痛みを伴うのだろう、そんなことを考えてしまって。
            尼御前が心穏やかに暮らせることを望んで止みません。

            時間軸としては「落日」後編のラストとぴったり重なります。
            同じ空を見上げ、同じ平家でありながらも思うことは全く違う。
            そんな姿を描きたくなり「落日」を書いてる途中、「残照」が生まれました。
            「残照」はこの後ゲーム本編を経て、平家は南の島に落ち延びて行き、
            その十年後の姿を描いたのが「さんきゅう!」…と繋げて読むこともできます。
            もちろん、三つともそれぞれ独立した話と見ることも。
            皆様の思い思いに合わせてお楽しみ頂けたら、嬉しいです。
                                              
不破(07.9.10up)