希望の轍
※注 安徳帝の名前は史実に基づき言仁(ときひと)としました。
高い場所に居ると人は遠ざかるものだと思っていた。なのに、ここは全く違う。
しっかりと抱き上げられた肩の上、そこから見た景色は言仁にそんな思いを抱かせた。
眩しいほどに白く、立ち上る雲。
どこまでも澄んだ青をした海。
長い長い船旅を終えてようやくたどり着いた南の小さな島は、どこもかしこも見たこともないものが溢れていて、言仁はそれに毎日のように不思議な思いと目が覚めるような感動を覚える。
その中でも今感じているこれは、間違いなく一番の、と言えた。
「将臣殿…」
言仁は呆けたように己を抱え上げている人物に呼びかける。
「不思議だ…。ここは私が知っている高い場所とは全く違う。皆の顔がこんなにもよく見える。」
少し離れたところに立つ祖母が、こちらを見て微笑んでいるのが目に入る。
それだけではない。将臣の肩の上に居る言仁と目が合うと、普段は口うるさい乳母まで、一門の者たちは皆笑顔を見せた。
これまでだったらとても考えられない光景だ。
何故なら、かつて言仁はどれほど幼くても、紛うことなき帝だったのだから。
この世で最も高い御位に就く人物を前に、かつて皆は一様に頭を垂れ、顔を伏せていた。
更にそれは御簾に隔てられ、言仁がこうして彼らの表情を窺い知ることはほとんどなかったと言っていい。
例え言仁の方から近づこうとしても、天子たる者は軽々しい振る舞いをしてはいけないと窘められ、あるいは畏れ多いと相手に隔てを置かれる。
帝という身分は言仁と他の者たちとの間に否応なく距離を作るものでもあったのだ。
けれど今、はっきりと彼らの顔が見える。
こちらを見て柔らかに微笑む彼らがいる。こんなにも近く。
「高い場所に居たら、遠くまで見渡せるのは当たり前だろ?」
湧き上がる嬉しさを後押しするように、それは言仁の真下から聞こえた。
「俺が今ここで“有川将臣”と皆に呼ばれるように、お前も“言仁”なんだ。」
もう帝とかそんなことは関係ねぇだろ。
声にはしない将臣の言葉がはっきりと届いて、そのくすぐったさに言仁は声を上げて笑った。
人の背丈一つ分近くなった空は、いよいよジリジリと灼けるような日差しを言仁に投げてよこしている。
だがこの時ばかりは気にならない。それどころか、こんな心地良い場所があったのかという思いが胸を占めていた。
おそらくこの先、言仁が誰もが跪き、羨むような高い場所に立つことはもうないだろう。
けれど。
高く遠いではなく、高く近い場所。そんな場所に今、言仁はいる。
大好きな人に支えられ、大切な人たちに見守られながら。
2008年5月25日
新たな道を行く平家の行く末が、希望と幸福に満ち溢れたものとなることを願って
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あとがき
顔を上げ、今目の前にあるものを見据えて一歩一歩、歩んで行って欲しいと思います。
2008年5月25日に開催されたアンジェ色葉にて無料配布したお話でした。
会場にてお手にしてくださった方々にお礼申しあげます。ありがとうございました!
不破(08.7.14up)