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時が実らせる果実




この日は何の変哲もない日だった。
いつもの如く九郎は一人、林の中で剣の稽古に励んでいた。
静かで人気もそれほどないこの場所は気が逸らされることがなく、九郎にとって恰好の稽古場となっていた。
邸も十分に稽古が出来るだけの広さはあったが、人の出入りも多く、なかなか一つ事に集中出来ないのだ。
だから出来うる限りここで稽古をし、終われば邸へと帰る。
そんなふうに今日もまた、何の変わりもなく過ぎるはずだった。
けれどこの日は、鍛錬を終え帰り支度をする九郎の目に、一輪の花が止まった。
それは白い小さな花だった。
九郎にこの花の名前は分からない。
けれど他の草々に囲まれ押されながらも、天に向かって一筋に咲くその花を、九郎はとても好ましいと思った。
そんな花の姿にふと妹弟子の顔が浮かんだ。
持って帰ろうか。
何となくそんな思いがよぎる。
考えてみれば、九郎が妹弟子に与えるのはいつも剣の稽古ばかり。
ならば。
たまにはこういうのも良いだろう。
九郎は名も知らない白い花を手にすると、望美たちのいる邸へと帰るのだった。

いつもと同じように過ぎるはずの日は、この時から変化を遂げることとなる。
どうして予想することなど出来たろう。
特別な日に変わるきっかけが、たった一輪の花だったなんて。



戻ったばかりの九郎を弁慶が迎えていた。
「おかえりなさい、九郎。今日の鍛錬は終わったのですか。」
「ああ。」
そこで端と、九郎が何かを手にしていることに気づく。
見ると、それは一輪の白い花だった。
九郎の手にあるには珍しいものを見つけた弁慶は、続く言葉を忘れ、しばしそこに視線を注がずにいられなかった。
「どうしたんですか、九郎。」
その視線で察したのだろう。驚きのままに思わず、といった調子で尋ねた弁慶に、九郎は心持ち花をもつ手を掲げてみせた。

「ああ、これか。帰り際に咲いているのを見つけてな。…綺麗だろう?望美にやったら喜ぶかと思ってな。」
そう話す九郎こそ実に嬉しそうな様子で、弁慶はいよいよ目を丸くし九郎の顔をまじまじと見た。

「…………………………。」
弁慶の顔が心底信じられない、と語らずとも語っていた。
「どうした?何をそんなに驚くことがある?」
訝しげに尋ねてくる九郎の声で、幾分驚きから冷める。
と同時にやはり、という思いも湧いた。

九郎は己の変化にまるで気づいていないのだ。
ただ何となくその花に目が止まり、それを望美に渡す。
それだけのことだと思っている。
その行動の理由を深く考えもしないで。
以前の九郎なら花になど目もくれなかっただろうに。
九郎が見据える先は遥か彼方、鎌倉殿の治める世なのだから。
ただそれだけを目指し九郎は突き進む。
他のものを見ている暇などありはしない。
どこまでもひたむきに、己に出来うることを努めるのみ。
日々の鍛錬もその一つだった。
だから足元に咲く花は視界に入りはしない――はずだったのだが。
「――…ああ、いいんですよ、九郎。何もおかしなことはありません。」
「?そうだろう?」
「ええ、僕の思い過ごしでした。」
そうか、と言い置きそのまま望美のもとへ向かおうとするのを見てとると、思わず声が出た。
「九郎。」
「まだ何かあるのか?」
「いいえ何も。ただ、『頑張ってくださいね』と言いたかったんです。」
「??あ、ああ…。」
微笑む弁慶にまるで分からないという顔をしながら、九郎は曖昧に頷き今度こそ望美のもとへと足を向けるのだった。
その後ろ姿を見送りつつ、我ながら余計なお世話だったなと苦笑する。
けれど何か一言でも良いから声をかけて、九郎を送り出したかった。

たかが花だ、と割り切ることは容易い。
けれどこれは、されど花だ、と思うから。

これまで見なかったものに目を向けることは、九郎に大きな変化をもたらすだろう。それも良い方向に。
これから花を贈られるだろう少女の姿を思い浮かべ、自信を持ってそう言えた。

確かに、ただ一つを見つめ走り続けることができるのは、それ自体一つの強さだと言える。
しかしそれは同時に危うさも併せ持つ。
そのただ一つを失った時、全てを無くしかねないという危うさを。
無論、それで折れるような者ではないと知っている。
そうはならないよう立ち回り、また補うのが自らの役割なのだとも心得てはいるけれど。

軍師として将の成長は望ましい、と心の中で建前をつけて、弁慶は友の幸福を願っていた。



先程の弁慶と同じような表情を浮かべた顔が、九郎の前にあった。
信じられないものを見る面持ちで、望美はじっと花を見つめていた。
その上望美は、
「一体どうしたんですか、九郎さん。」
言うことまで弁慶と似通っていた。
その反応に九郎は渋面を作らずにはいられない。
弁慶といい望美といい、一体何だと言うのだろう。
自分が花を持って寄こすのがそんなにおかしいことなのだろうか。
確かに至極珍しいことではあった。
だがそれでも、それ程までに驚くことだとは思えなかった。
きっと喜ぶだろうと期待していただけに、九郎は望美の反応が余計に気に入らない。
自然、声に多少の苛立ちが滲んだ。
「どうしたも何もない。稽古の帰り際咲いているのを見つけたんだ。」
けれどそれは、望美にとっては何の答えにもなっておらず、一層望美の困惑を深める結果となった。
目の前にある一輪の白い花。
とても綺麗なその花を贈られて、しかし望美には嬉しさよりも戸惑いのほうが勝っていたのだった。
どうして九郎が突然自分に花を贈ろうなどと思ったのか、望美には全く分からなかった。
普段の九郎ならこんなことはまず考えられない。
礼を言うのも忘れたまま、気づけばなんとなく気になったことを尋ねていた。
戸惑いによってその口調を少し硬くさせながら。
「なんて言う名前なんですか。」
「ん?」
「この花。なんていう名前なんですか。」
「わからん。」
「え?」
余りにもきっぱりと答えた九郎に望美は呆然とする。
望美は最初自分の耳を疑った。
けれどこんなにもはっきりと言われた言葉を聞き間違うはずもない。
何より聞かれた九郎の方こそ意外な顔をしているのが、空耳ではないことを実感させた。

「ただ綺麗だったからお前にやろうと思っただけで、名前は知らないんだ。知りたかったか?…ああ、さきほど弁慶に会った時にでも尋ねれば良かったな。」
すまない、と九郎は続けようとして、望美が俯きかすかに震えているのに気づく。
「望美?どうし――」
その言葉を言い終えることは出来なかった。
次の瞬間、予想もしなかった笑い声が辺りに響き、九郎は目を見張ることになったのだ。
望美が笑っていた。
とても晴れ晴れとした顔で。
わけが分からず、九郎はただ笑い続ける望美を見つめて、しばし立ち尽くした。

その時望美は、笑いながらこう思っていた。
馬鹿みたい。
本当に馬鹿みたいだ。
九郎さんがいきなり私に花なんて贈るから、一人で戸惑って。
どうしたら良いか分からなくなってしまった。
ただ綺麗だと思ったから。
それで摘んできたって九郎さんは言った。
余りにも単純明快な理由。
どうしてとか、何でとかは考えたりはしない。
考える必要もなくて。
それは九郎さんにとって疑いようのない気持ちだから。
自分の心にどこまでも真っ直ぐに向かって行く。
すごく九郎さんらしい。
そう思ったら段々と笑いが込み上げてきた。
花の名前なんてちっとも気にしない。
贈る相手に尋ねられるまで考えもしない。
いつもとどこか違うのに、やっぱり九郎さんはどこまでも九郎さんで――。
そこまで考えて、とうとう堪えきれなくなって望美は笑ったのだった。
そして同時に、一番大切なことは花を贈られる理由がどうかではないことに気づく。
それは望美にとって確かに気になるところだったけれど、でも、今はそうじゃないはずだと心の中で望美はきっぱりと言えた。
大切なのは九郎がこうして、自分のために花を持ってきてくれたということ。
喜ぶ顔が見たい、喜ばせたい、そんな気持ちを持っていてくれるということ。
それが分かっていれば良い。
今はそれだけで十分だった。
だから、伝えなければ。
ありったけの気持ちを笑顔に乗せて。

「すごく嬉しいです。…ありがとう、九郎さん。」
「あ、ああ…。」
九郎は望美が何故こんなにも笑うのか一向に分からず、少々府に落ちない気持ちで聞いていた。
けれど嬉しそうに笑い続ける望美を見ていたら、次第にそんなことはどうでも良い気持ちになってくる。
こいつがこんなに笑ってるんだ。それで良いだろう。
気づけば笑う望美に応えるように、口元を綻ばせていた。
「喜んでくれたなら何よりだ。」
その微笑みに徐々に滲んで溢れ出すようにして、望美の中でおぼろげだった思いが確かなものになっていく。
――ああ、私、九郎さんのこと好きなんだなぁ。
思いはじわじわ、じわじわと広がって、くすぐったくも温かい気持ちが満ちてくる。
「九郎さん。」
望美は弾む思いのままに一つの願いを口にする。
言葉に出来ないたくさんの思いをそこに潜ませて。
「今度この花が咲いていた場所に連れて行ってもらえませんか。」
「なんだ?稽古がしたいのか?…そうだな、あそこは静かで鍛錬するには良い場所なんだ。今度はお前も連れて行こう。」
それは合っているようで少しずれた答え。
望美が本当に望んだものとは違う、それでいて望美の願いに叶った答えだった。
これから私は九郎さんのこんな言葉にさんざん振り回されるんだろうな。
ふと過ぎる考えに望美は少し溜め息を付きたくなる。
でも、と望美は心の中ですぐにその考えを打ち消した。

そんな九郎さんだけど。
そんな九郎さんだから。
私はすごく好きなんだ。

心揺らす日々もまた、望美にとって楽しいものになるに違いなかった。
苦しくても、切なくても、きっと――。

ただ一つ、この時の望美は知らなかった。
そして九郎もまた、気づいてはいない。
何故九郎がこの花を綺麗だと思い、そこに望美の姿を思い浮かべたのか。
その思いの源はどこから生まれたのか。
ただ綺麗だと思ったから。
それだけのことは全てのことを語っているというのに。
けれど、今はそれで良いのだろう。
時が経てば九郎も自覚せずにはいられないはず。
小さな芽が大きく生い茂り、花を咲かせ、やがては一つの果実を結ぶように。
今すぐではない時。
けれどそう遠くはない時の中で――

思いは“恋”となって九郎の前に現れるのだから。







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            あとがき
            今回はゲーム内の時間軸や展開に関わりのない自由な時空で書きました。
            これまでのお話とはまたちょっと違う趣になったかもしれません。
            九望大好きです。CPで1、2位を争うほどに。特にこの二人は純な恋が見たいなと思います。
            九郎は無自覚な恋をしているといいなあ。
            でも一旦自覚したらきっと、迷わず自分の思いに走っていける人だと思っています。
                                                不破(07.11.21up)