湿度をたっぷりと含んだ空気がねっとりとまとわりつくように感じられ、望美は不快感に眉を顰めた。
「暑い…。」
「…暑ぃな…。」
心底うんざりとした声が二つ、校舎の廊下に響く。
「ベタベタする。」
「あぁ。」
「気持ち悪い。」
「……………なぁ。」
隣を歩く将臣の顔にどこか呆れの色が混じる。
「こんな会話する方が疲れねぇか?言うだけ無駄だろ。やめようぜ。」
そうだね、と頷いたものの、歩くたび汗ばんだ肌に夏服の薄いシャツが張り付いて、不快感はますます募ってゆく。
「〜〜〜っ、やっぱり我慢できない!なんとかして!将臣くん。」
20mも歩かない内に、とうとう堪えきれなくなって望美は声を上げた。
無茶を言っていると分かっていたけれど、それよりもこの茹だるような蒸し暑さへの不快感が勝った。とにかくなんとかして欲しい。
「お前…嫌気がさすのも分かるけどな、なんとかできるわけないだろ。」
アホか、と一蹴され、不満な声をこぼしても将臣がそれ以上相手にすることはなかった。
仕方なく黙って歩きながら、踏み出すたびにかぱかぱと履き潰した踵が揺れるのを楽しむ。
気だるい気分に任せ、望美は上履きの踵を潰して履いていた。
いつもなら不快に思ってしないことが今の気分には妙に合って、不思議と心地良い。
我ながらだらしないことをしているという自覚はあったが、今は放課後で校舎内にそれほど人もいない。
部活動のある者はすでに部活へ行っているし、それ以外はこの暑さだ。
教室でわざわざ話し込むこともなく、授業が終わるやいなや皆そそくさと帰っていった。
誰も見ていない。見ているのは気心知れた幼馴染一人。
そんな気持ちと蒸し暑さがもたらした倦怠感から、望美はいつもよりほんのちょっとだけ羽目を外していた。
やがて階段に差し掛かったところでわざと大きく足を振り上げた瞬間、
「あ」
足の先につっかけただけの上履きは望美の足を離れた。
上履きは綺麗な放物線を描いて何段か先の階段に着地すると、そのまま下の踊り場まで転げ落ちてゆく。
ああ〜〜と思わず声を上げた望美に、
「ばーか。何やってんだよ。」
呆れ半分、笑い混じりの声がかかる。
そのまま将臣は立ち尽くす望美を尻目に階段を降りて行く。
遠ざかる背の向こうから先行くぞーと言う声が聞こえた時、望美はひどく恨めしい気持ちになった。
「将臣くん、取って。」
階段の半ばまで降りた将臣が、はぁ?という声と共に振り返る。
「なんで俺がお前の靴拾って持ってかなきゃいけねぇんだよ。そのまま降りてきて履けばいいだろ。」
自分でもそう思う、と望美は内心、将臣の言葉に頷いた。でも今はそうしたくない。なんとなく将臣にわがままを聞いて欲しい気持ちだった。
子供のようなわがままを言うのも、このうだるような暑さがもたらす気だるさのせいかもしれなかった。
「靴下が汚れるから動きたくないの。」
「わけわかんねぇ…。」
将臣は頭を掻いてそう呟いた後、そこから動きそうもない望美の気配に大きく溜息をつく。
このまま置いていって自分だけ先に帰ろうかという思いがちらりとよぎったが、そうすれば後々うるさくなるのが目に見えていた。
「分かったよ。持ってきゃいいんだろ。面倒くせぇな…。」
そう言って渋々落ちた上履きを拾い、最上段へと上ってくる将臣の姿をぼんやり見つめていると、子供の頃に聞いたおとぎ話が浮かんだ。
「ちょっとシンデレラみたい。」
「なんだそりゃ。」
やっぱり違う。
思いついたまま口に乗せれば、何故そんなことを思ったのか不思議なくらい現実はかけ離れていて、望美は拗ねたように口を尖らせた。
「階段で落とした靴を拾って迎えに来るっていうのが、ちょっとそんな感じかなと思ったんだけど……全然違う。」
「当たり前だろ。これのどこがシンデレラになるんだよ。」
からかうように将臣は望美の上履きをプラプラと持ち上げて見せた。
油性マジックで“春日”と書きこまれた上履き。
それこそ魔法でもかけられないとガラスの靴にはなりっこない。
「ほんとだね。」
自分の言っていることの無茶苦茶さが可笑しくて、望美はくすくすと笑った。
肌はじんわりと汗ばみ、ベタベタとした気持ち悪さは相変わらず。
けれど気だるい気持ちは薄れていた。
「さっさと帰ろうぜ。俺はエアコンの効いた部屋が恋しい。」
「うん。」
いつも通りに上履きを履き直す。
後には階段を降りてゆく軽快な足音が響いた。
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「花の白波」より抜粋。
この場面にはいませんが敦盛はメインの一人。しっかり登場します。
ここが表紙絵に描かれた世界とどう繋がるかは、直にお手に取って
頂いてからのお楽しみです。
不破(08.3.13up)