A A A A A


 落日  

                                 ―前編―
※注 ひたすら暗く、捏造設定多々有りです。




海がある。
岸は見えない。ただ果てなく広がる海があるばかりである。
その中心に舟が一艘浮いていた。
供はいない。水夫もいない。惟盛だけを乗せて。
舟の舳先に波頭が砕けて、時折白く散っていく。
ゆらめく海面には楫が横たわっている。
楫はたゆたいながら遠ざかり、やがて見えなくなった。
ゆっくりと惟盛は立ち上がると、思わず手を合わせようとして、小さく笑う。
経を唱える必要などないではないか。
願うのは極楽往生ではないのだから。
「私は、力を得る。」
静かに、しかし力強く呟いて、
「父上、これは私の門出です。ここから始まるのです。」
そう決然と言い放った次の瞬間、すでに惟盛の身は海中にあった。
装束が水を吸い重くまとわりついてゆく。
沈み行く中最後に頭上を見れば、揺れる水面に陽光が反射し煌めいていた。
ふと、父が在りし日々の面影が浮かんだ。
輝かしく眩い――
次第に遠ざかる水面に、ぼんやりと一体いつの間にこんなに遠くへ来たのだろうと思い、
やがて惟盛の意識は薄れていった。



全ての始まりは、六波羅の邸に一人の男が現れたこと。
素性も知れない怪しい男を、捕らえるどころか「重盛に似ている」といって、
清盛が客人として迎え入れたことが始まりだった。



重盛のことを古くから知る者達は皆、その男を見て口々に生き写しだと言った。
しかし惟盛からするとあまり「似ている」とは感じなかったのが、実際のところだった。
記憶にある父は壮年であったから。
その面差しに、時に面影を見出すこともあったが、別段感傷はなかった。
少なくとも、彼の者の容貌に関しては。

ただ、その声も――父に似ているのが厄介だった。
声もまた当人の年相応に、記憶にある父の声よりも若々しい響きがあるが、
やはり似ていたのだ。
声というものは厄介で、面影よりもずっと、脳裏に父の輪郭を浮かび上がらせた。

気にしなければ良いと己に言い聞かせはした。
だが我知らずあの声を追っている、それをかえって自覚するだけの結果になった。
苦々しい気持ちで、これは己に染み付いた癖だと惟盛は思う。
父の声を一言たりとも聞き逃さないよう、いつもあの声を、父を追っていた私の――
「惟盛」
あの声であの面差しで、そう呼ばれることは特別だった。
心にはたちまち崇敬に近い愛慕の情が広がり、それから少しの緊張を覚える。
誰より敬愛する人の声。惟盛にとって特別な声。
それだけに、あの声で名を呼ばれると父に呼ばれているような、
そんな錯覚を覚えて悔しく、腹が立った。

父とは全くの別人だと分かっているというのに。
全くもって腹立たしい。己も将臣も。

その苛立ちが抑えきれず出てしまう
―それが将臣と接する際の刺々しい態度の原因となっていた。
しかし将臣の立場から考えると、それは言いがかりにも等しい。
顔の形も声も持って生まれたもので自分ではどうしようもないものなのだから。
惟盛自身まるで子供の八つ当たりのようだと自覚しながらも、その心を持て余すばかりでどうにもならずにいた。
だから思考は自然、将臣の非をあげつらう方向へ向けられていく。
惟盛自身の非を隠すかのようにして。
第一、あの男、有川将臣もいけないのだと。

そもそも、お祖父様に拾われこの平家の客人として扱われるなど、氏素性も知れぬ輩に対して破格の扱いなのだ。
ならば客人らしくもう少し殊勝に振舞えば良いものを、屋敷中フラフラと歩き回る。
あまつさえ身分などお構いなしに、誰にも彼にも非常に馴れ馴れしい態度で接するのだ。

初めて会った日に名を名乗るやいなや「惟盛」と呼び捨てにされた時には、
あまりの事に呆然とした。

今でもその時のことは鮮明に思い出すことが出来る。
向こうは平然として、続けて何かこちらに話しかけていたが、耳には入って来なかった。
絶句して顔を見つめるばかりのこちらを、少し怪訝そうな目で見ていた。
己を呼び捨てに出来るのは、祖父や父母を措いては最も高き御位に座す方々のみであった。
身内で、しかも幼き頃より親しい者達でさえ、互いに敬称を用いるのが常。

呼び捨てとは己よりも絶対的に上位の相手がするものだった。
これは余りに礼を失するのではないか、そう抗議しても当人は「まぁいいじゃねぇか」
と軽く流していたって気にすることもない。
全く分かっていなかった。

呼び捨てにするのも、己だけでなく知盛殿、重衡殿、経正殿、敦盛殿
果てはお祖父様までと、本当に誰彼構わず平然とするのだ。
それで分かった。
分かる分からない、知る知らないというより、向こうの中にはそうした意識そのものが存在しないようであることが。

初めこそ皆驚いたようだが、清盛が笑って「そなたの好きに呼ぶが良い」と言ったのが効いたのか、あるいは抗議したところで惟盛のように徒労に終わるのが目に見えたのかいつの間にか許容され咎める者もいなかった。
その性故に、ということが大きかったのだろう。

尊大とも言える態度なのに、将臣には不思議と人に不快感を与えないところがあった。
しかしどうであれ、惟盛にとっては己がこのような無礼な振る舞いを受ける謂われがないことも確かだった。
ましてあの声ではなおさら性質が悪い。
「どうされたのですか、惟盛殿」
不意に声をかけられ見れば、重衡が少しばかり離れた渡殿よりこちらへ歩いてくるところであった。
「どうされた、とは?どうしてそのようなことを仰るのでしょうか。」
「とても惟盛殿とは思えないような、随分と怖い顔をしていらっしゃいました。
そのような顔をされるのは珍しいことです。」

「そう…でしたか?」
その訝しげな口調に重衡は少し苦笑して答える。

「はい。何がそんなに貴方の御心を悩ませているのでしょうか。私でよろしければどうぞお話下さい。」
惟盛は言おうか言うまいか、少し逡巡する。
けれど相手が一門の中でも特に親しく、信頼も厚い重衡であってみれば、話を聞いてみた
いという思いが勝った。
「…重衡殿はどのように思われますか?あの有川将臣という男を…。父に似ていると思いますか?」
「将臣殿…ですか?」
重衡にとっては予想外の問いかけだったのか、少し意外そうな顔をしたものの、すぐに表情を戻すと、澱みなく答える。

「そうですね…。面白い方、でしょうか。この世界の何ものにも囚われないような…そんな不思議なところをお持ちのように思います。重盛兄上に似ているか、と問われれば似ていないとお答えしますが…。あの面差しと声に限って申し上げれば、重盛兄上に似ておられて、どこか慕わしいものを感じます。」
「…!しかし、父とは別人です!」
「ええ、もちろん。重盛兄上と将臣殿は全くの別人です。」
「当然のことです!」
そこで重衡はふと、不思議に思い尋ねた。
「…惟盛殿、何をそんなにむきになられているのですか?」
「私はむきになってなど…!」
「先ほども申し上げたように私は重盛兄上と将臣殿は全くの別人だと思っておりますし、それは父上を始め皆も同じこと。ご自身もそう思っていらっしゃるなら、斯様に意識されることもないかと思いますが…。」
「それは…しかし…!」
惟盛が答えあぐねていると、そこに別の声が滑り込んだ。
「有川は…惟盛殿のことをひすてりいだと言っていたぜ…。」
いきなり会話に入るとは無礼な、と惟盛がむっとしていると、怪訝な顔をして重衡が声の主に尋ねる。
「?ひすてりい??それはどういう意味なのですか?兄上。」
「クッ…」
馬鹿にしたような笑い。
いつもそうなのだ、このそう年の変わらない叔父にはいらいらさせられる。
同じ兄弟でも重衡殿はこうではないというのに。
「知盛殿!」
「さあな…直接有川に聞いては如何か?だが…そういうところがひすてりいだと言われるのだろう…クク…」
そうしてひとしきり笑うと、興味も失せたとばかりに知盛は踵を返した。
惟盛はその後ろ姿を目で追いながら、はっきりと意味は分からないがあの知盛殿のこと、
皮肉を言っているだろうと察しをつける。

するとそこでいつもの如く、重衡が執り成すのだ。
「惟盛殿、どうかお気を悪くなされないで下さい。兄上は誰に対してもいつもああなのですから。」
「ええ確かに、あの態度は今に始まったことではありませんね。」
まだそれほど離れていない知盛の背に向かって、心持ち声を大きく言い放つ。
それを知ってか知らずか―聞こえたところで気にする男ではないが―知盛の歩は淀みなく進み、次第に遠ざかっていった。
重衡はその様子に再び苦笑を浮かべつつも、穏やかに言う。
「それにしても…先ほどの話ですが、そこまで深く考えずにおられるのがよろしいかと思います。」
「…………それが出来れば…。」
「惟盛殿?」
あまりに小さい呟きは重衡の耳には届かなかった。
惟盛はその様子を見て取ると形ばかり頷いて、努めていつもと変わらぬよう微笑む。
「…そうですね。重衡殿の仰る通りです。」
違う、と自覚した。
重衡殿と私では違う。
あるいはおそらく、平家一門の誰とも、と。
重衡の言うことは全くもってその通りであった。
だがそれで納得出来るものならば、とうに惟盛の感情に抑えはついていただろう。
それが出来ないから、こうして惟盛は悩んでいるのだ。
惟盛の中で父の存在は余りに大きすぎた。
全く頭の痛いことだ、と思う。
将臣のことも、己のことも。


それは平家が京に在った頃のこと。
有川将臣という男が現れて、まだ間もない頃のことだった。



それから程経ずして、平家を取り巻く状況は大きく変化していた。
あれほど栄華を極めた平家も今や都を追われ、西国へと落ちて行く日々の中にあった。
そんな折のことだ、せめて辛い日々の慰めになればと宴が開かれたのは。
遠く都を離れても、風雅を忘れぬ心が平家を都人足らしめていた。
しかし鄙の地での侘び暮らし、このような状況では舞い手も楽士も思うように集まるわけもなく、仮に見つかっても都の風雅に目慣れた一門ではとても満足のゆく技量ではない、といった具合で、仕方なく一門の中より嗜みのある者を中心に、ささやかに行われる運びとなったのだった。
舞い手には惟盛。
西国落ちの最中でのこと、舞装束も満足に調えられなかったが、しかしそれでもと惟盛は桜衣の直衣を艶やかに召し、挿頭には山紅葉という出で立ちで、それは華やかなものであった。
舞殿などあるはずもなく、形ばかり舞台に見立てたおぼつかない場所に立つ。
やがて楽の音が響き、惟盛は舞い始める。
曲は――「青海波」。
それは惟盛にとって特別な曲だった。
あの時も私は「青海波」を舞っていた
かつて後白河院の五十の賀が法住寺において行われた折、御前で舞納めた日が惟盛の胸に去来する。
あれは桜の盛りの頃だった。
院の御賀であれば、清盛、重盛を始めとした平家一門はもとより、主だった公卿が列席する盛大な宴。
その際舞い手を任されたのが惟盛で、恐れ多くも院に舞をご覧に入れたのだった。
その姿は折からの満開の桜に相まって一種寒気を覚えるほどに凄絶な美しさであった。
いたく心動かされた院は御自ら御衣を脱ぎ、惟盛に与えると共に、
「余は常日頃、桜の美しさに梅の匂いやかさを兼ね備えた、そんな花があればと思い描いていた。しかしそれはこの世ならぬ花だ。見ることなど叶うまいと思うていたが違ったな。」
と、満足そうに笑いながら仰られたのだった。

そう賜ったときの清盛、重盛の誇らしげな顔を惟盛は忘れることはないだろう。
一門の誉れよ、そう語って余りあるほど喜色に溢れた表情をしていた。
対する己もきっと同じような顔をしていたに違いない。
惟盛にとって最も輝かしかった時――故に舞を披露する時、それは惟盛が己を最も誇らしく思う時となっていた。
それはどのような場所に立っていても、変わることではなかった。
都に在りし日の宴と比べ、どれほどこの宴が精彩を欠いていようとも。
もの寂しさが漂う辺りに比して一層鮮やかに映える舞姿に、平家一門、目を奪われた。

そうして舞い納めると、どうしたことか、周りからは喝采も起きず、それどころかしん、と静まりかえっていた。
辺りの様子を怪しく思っていると、御簾の内からかすかに女たちのすすり泣く声が聞こえてきた。
いや女たちだけではない。

男たちも何かに耐えるような、鎮痛な面持ちで言葉を発することもなく座っていた。
すると、そこへ幼さを宿す声が響き渡った。
「凄い凄い!惟盛殿は宮中でも随一の舞の上手と聞いていたが、私はこれほど上手に舞われる方を見たことがない!おばあさま!おばあさまもそうお思いになられたでしょう!??おばあさま?何を泣いておられるのです?」
興奮冷めやらぬ、といった少し早い口調で、初めは無邪気な風だったのがしかし次第に思案気に、それとともに声が小さくなっていくのを聞く。
一門で子供は限られる。
しかもその声が聞こえてきたのは最も上座の位置。

未だ幼い帝の声に違いなかった。
そして帝の言葉で、御簾の向こうで二位の尼君も他の女房たち同様、涙を落していることが知れた。
「惟盛殿の舞が余りに見事でしたので心打たれたのですよ、帝。」
二位の尼君は静かに目元を拭うと、いとけない帝の頭を撫でながら答えるのだった。
安徳帝は気づかない。
まだ両の手の指に満たぬ年の帝には、気づく由もなかった。
かつての日々が…失われた日々が思い返されたなどと。
還らぬものを思い、胸が痛んだなどと。

そうして一同、悲しみは尽きることなく夜の宴は更けていく。



惟盛はただじっと、高欄に寄りかかり一人佇んでいた。
宴は未だ続いている。
しかしここは宴の音も遠く、辺りには虫の音が響くばかり。
非礼を承知で席を外してきたのだ。
惟盛の心に先ほど舞い終わった後の、あの沈痛な雰囲気が重くのしかかっていた。
惟盛は心の中で必死に繰り返していた。
そんなつもりではなかった。私はただ束の間でもいい、皆に忘れさせたかったのだと。
この、不安に怯え心を磨耗させる日々を忘れさせたかった。
皆の心がわずかでも安んじるよう願っていた。
そのための舞だった。
惟盛は己の舞でならばそれが出来ると思っていたのだ。
しかしどうだろう、己の招いた結果は。
かえって今の不遇な身の上を皆に自覚させただけではなかったか。
より深い悲しみの淵へ追い落としたのだ。
他ならぬ私の手で。

居た堪れない気持ちを代弁するかの様に、辺りにさまよわせていた惟盛の視線が、
ふっと、御前の庭、今は闇に閉ざされて見えぬはずのそこで止まった。

いや、正しくはそこから目を離すことが出来なかったといった方が良いのだろう。
どこからともなく馬のいななき喚く声が聞こえてきたのだ。
男達の怒号のような悲鳴もそれに重なり、こだまする。
虫の音は変わらず聞こえていた。
一体どちらの音が虚で、実なのか。
にわかに、惟盛には判断がつかなくなった。
だがそれを判ずるよりも早く、思考はかつての記憶を呼び覚ましていた。

そうだ、あの谷もこんな闇に包まれていたそして皆その闇に吸い込まれるように呑まれてただ、ただ声だけが絶えず響き渡っていた。
甦ったのは倶利伽羅峠の戦で聞いた断末魔。
忘れもしない、忘れたくとも忘れられない忌まわしい声。
あの戦で惟盛は総大将として、戦の全権を任されていた。
そして圧倒的な兵力を持って合戦に臨みながら、木曾勢の策略にはまり大軍はほぼ壊滅、大敗を喫した。
この時、将の一人である経正も討ち死にし、平家軍はまさに惨々たる有様で京に逃げ帰ったのだった。
この戦による被害は甚大で、その兵力の大部分を削がれた平家は京に迫り来る源氏に抗する術なく、都を追われることを余儀なくされた。
失った兵力の補充のため、怨霊を使役する動きが活発になったのもこの頃のことだ。
己があそこで負けなければ、いや、せめて味方の被害をもっと抑えることが出来ていればきっとこのような憂き目を見ることはなかった。
惟盛はそう思っていた。

その負い目が惟盛に幻を見せた。倶利伽羅峠の悪夢を。
都落ちの日々の中で、一門が辛酸を嘗めればなめるほど、惟盛は都落ちの直接的な起因となった倶利伽羅峠の戦いを思い、己を責めた。
それだけに都落ちの嘆きの声は、そのまま己への怨嗟の声のように惟盛には聞こえてならなかった。
例えそれが惟盛に向けられたものではなかったのだとしても。
実質がどうあれ惟盛はそう受け止めていた。
だから、惟盛にとっての真実はそうであったのだ。
己が戦において全くの力不足であることはすでに痛感していた。
そして今また
惟盛の思いは再び、否応なく一つの問いへと囚われてゆくのだった。
即ち、私は平家の力となれているのだろうか、と。
父上亡き今、そして一門が苦境に立たされる今こそ、嫡流として平家を支え率いる力を見せなければいけないのに、何一つ上手くはいかずにいる。
日々を生きていくことが精一杯の状況では、これまで己が習ってきた歌や舞、楽宮中では必要不可欠だった嗜みや教養は、何の役にも立ちはしないことを突きつけられる。
私が持っている力など今この状況ではなんの役にも立たないのではないか。
たとえば――そう、あの男。
あの男のように今日を生き抜き、明日また生きてゆけるような力が――今の平家には必要なのではないか。
そんな思いがよぎるのだ。
惟盛は分からなくなっていた。

私は平家の力となれているのだろうか。
…平家に必要とされているのだろうか。

ぶるりと、惟盛の身体に震えが走った。
夏の暑さもまだ名残はあるものの、さすがに夜は肌寒い季節となっていた。
けれどこの時震えたのは、果たして寒さのためだったのだろうか。
寒さのためばかりではなかったのかもしれない。






<<戻る


           あとがき
            ただでさえ文も拙いのに、「青海波」は二人舞で一人で舞うものではない
            だとか、あんな侘しい宴で舞う舞ではない、といったことをはじめ、
            「落日」には矛盾点や捏造が多々あります。
            にもかかわらずここまで読んで下さいましたこと、お礼申し上げます。
            後日、後編をUPする予定ですので、
            そちらも併せてお読み頂けますと幸いです。
                                           
不破(07.9.11up)