将臣が記憶を失った事故から、一ヶ月が経とうとしていた。
だが当初の“一時的なもの”との医者の見立ては大きく外れ、記憶は相変わらず戻らないままでいる。
せめて断片的にでも何か思い出したなら期待が持てるものの、そんな気配もまるで感じられない。
記憶が戻る兆候すら見えないことに、将臣の周囲の人間は漠然とした不安がじりじりと強まってゆくのを感じていた。
そんな時だ。譲が望美から「将臣君のことで話があるの」と呼び出されたのは。
夕日も沈み辺りがほの暗くなった頃、譲が近所の公園を訪れると、まだ数人の子供が園内に残ってキャッチボールをしていた。
大柄な少年が投げ損ねて、ボールが構えた相手のグローブの遥か上を通り越して行くと、合わせたように笑い声が上がる。
だが元気にはしゃぐ子供たちとは裏腹に、望美は思いつめた顔をしてベンチに座っていた。
その顔を遠目に見つめ、やっぱりそうか、と思った。
兄の現状を考えれば、これからする話が決して楽しいものでないことは予想がついていた。
それも改めて自分を呼び出してまで話したいというのだから、よっぽどのことだろう。
譲は憂鬱になる気持ちを吐き出すように溜め息をつくと、せめて挨拶くらいはいつもと変わらないようにと笑顔を作った。
「こんばんは、先輩」
「こんばんは。急に呼び出したりしてごめんね、譲くん。来てくれてありがとう。」
「そんな、気にしないでください。この場所だって家の近くだし、大したことじゃないですよ。」
こちらを向いた望美の表情がぱっと明るくなったのも束の間、譲が隣に腰を下ろした時にはまた元の沈んだ顔になっていた。
「あの、それで話っていうのは、将臣君の…ことなんだけど…」
躊躇いがちにのぞみが口を開く。それでもまだ決心がつかないのか、言いかけたきり言葉が続かない。
無理に先を促すのも気が引けて、二人の間に流れる沈黙を肯定するように、譲はゆっくりとベンチの背もたれに寄りかかった。
時間はある。なら、あとは話すタイミングが来るのを待てば良いだけだ。お互いに。
しばらくすると望美も同じことを思ったのか、隣から力を抜いた気配が伝わった。
少し緩んだ空気の中、公園内を見るとはなしに眺めていると、ちらりと譲の目の端に赤い色がかすめた。
不思議に思ってよく見ると、誰もいない砂場の中に鮮やかな色の恐竜の人形がある。
ビニール製と思しきそれは薄闇の中でもわずかに光を返して、砂の山の途中に傾きながら立っていた。
昼間ここで遊んだ子の忘れ物かな。
そう考えて、不意に懐かしさがこみ上げた。
「子供の頃、ここでよく遊んだよね。私と譲くんと将臣くんの三人で」
考えを読んだような望美に、譲は微笑んだ。
どうやらお互い同じことを思い出していたらしい。
まだ小さい頃この公園は譲達三人の遊び場の一つだった。
ブランコ、シーソー、…三人で飽きもせず何度も遊んだ思い出深い場所だ。
「…そうですね。兄さんなんて、あのジャングルジムの一番上からよく飛び降りてましたっけ」
「そうそう。私も譲くんも危ないって言ってるのに全然聞いてくれなくて。見てる方が怖くてドキドキした」
「何が楽しかったんでしょう?」
「分かんない」
思い返すと不思議で、くすくすと二人で笑い合う。そうしてひとしきり笑うと、意を決したように望美が大きく息を吸い込んだ。
「譲くん。…私ね、充分だと思うんだ」
「充分、ですか?」
訝しげに問うと、望美がうんと頷く。
「将臣くんの記憶がなくなったのは…淋しい。私や譲くんには、数え切れないくらいたくさんの思い出があるから。でも…、でもね、この先記憶が戻る可能性だってあるし、何よりこれからまたいくらでも思い出はつくっていけるじゃない」
一瞬、自分が何を言われたのか分からなかった。というより、分かりたくなかったから、脳が言われた言葉の意味を理解するまでに時間がかかった。
数十秒だったのか、一分だったのか。
あるいはもっとかかったのかもしれないし、思う以上に短い間だったのかもしれない。
「俺は…俺はそんなふうには考えられません」
咄嗟に口をついて出たのは拒絶だった。
「譲くん…」
「どうして兄さんがこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。どうしてこんなことになったんだって、何度も思います。今だって思ってる。」
驚いたように望美が目を開くのが見えたが、気にする余裕もなかった。
動揺する心そのままに、いつもより早い口調で喋る。思いの外、声が震えていた。
記憶が一向に戻らないこと。兄のぎこちない態度。事故に対するやりきれない怒り。
現状への不満と不安なんて数え切れないほどあって、日に日に膨らんで行く一方だ。
記憶喪失なんて一時的なものですぐにまた元通りの生活がやってくる。
この一ヶ月、自分自身に何度言い聞かせてきただろう。
辛うじて爆発しそうな感情を抑え込んできたというのが、譲の本音だった。
蓋を突然取り払われてしまえば、溢れ出したものを止める術はない。
「俺、考えるんです。こんなこと言ったって何にもならないけど…それでも、あの時俺がいなかったら…。兄さんは怪我なんて――」
「そんなふうに言わないで。言ったらダメだよ譲君。それじゃ譲君が苦しくなるだけ。そんなの将臣くんも誰も喜ばない」
自分自身を責める譲を、強い口調で望美が遮った。
怒っているのだろう、と思った。当然だ。譲自身、言いながら馬鹿みたいに情けない自分を自覚していた。
「今の譲君、見てられないよ…」
けれど続く望美の声ははっきりと震えていて、譲は恐る恐る顔を上げると息を呑んだ。
望美は怒ってなどいなかった。それどころか今にも泣き出しそうな顔をしていた。
その目の中に同じような顔をした自分が映りこんでいて、ますます情けなさが募る。胸には後悔が渦巻いていた。
こんな顔をさせたいわけじゃなかった。こんな顔を見せたいわけでもなかった。
堪らなくなって望美に手を伸ばす。その手を握り締めると一瞬びくりと震えて、けれどぎゅっと握り返してくる。心まで締め付けられる思いがした。
「すみません、先輩…。自分でも情けないって思います。…先輩の言うことが正しいって、分かってるのに」
目の前の現実は、将臣の記憶がこのまま戻らない可能性もあるのだと物語っていた。
譲がどれほど否定したところで、何かが変わるわけでもない。
それでも譲の脳裏には、記憶を失ってからの将臣のぎこちない態度がどうしてもよぎってしまうのだ。
わざわざ口にしなくても、言いたいことが分かったり通じたりするのは兄弟だから当たり前だと思っていた。
けれど記憶がなければ、そんなことは簡単に崩れてしまう。
今まで意識するでもなくできていた二人のやりとりが急に一方通行になることは、記憶と共に兄弟の繋がりまでも失ったような感覚を譲にもたらした。
将臣は将臣なのに、今の将臣は譲の知る将臣とは別人のような遠い存在に映ってならない。
つまらない感傷だと言ってしまえば、そうなのだろう。
でもそれで全て割り切れるほど、物分かりの良いふりが出来るわけでもなかった。
「もう少し、もう少しだけ時間が欲しいんです。全部受け止めるにはまだ……。本当、なんで俺はこんな…みっともないな…。」
「みっともなくなんかない。譲君と将臣君は兄弟なんだから。二人の間であったことを全部覚えてないって言われたら、悲しいと思う。なんだかそれで、今までのことが消えてしまうんじゃないかって怖くもなる。本当はそんなことないって分かってても…怖くなるよ」
私もそう、と望美が小さく呟くのを、譲は切ない気持ちで見た。
今では将臣は自宅に戻り、定期的な検診を受けながらも毎日学校に通っている。
自分達のことを何も覚えていない将臣にクラスメート達は戸惑い、最初は将臣も困惑しているような様子だった。
それでもしばらくするとお互いに慣れてきたのか、普通に会話をしている様子で、最近では自宅で将臣がクラスメートのことを口に上らせることもある。
一見すると前と変わらない風景。だが将臣の記憶は戻っていない。
確実に以前とは違うものを孕みながら、日常に溶け込むようにして新しい時間が流れ始めていることに譲は愕然とした。
誰もが、将臣当人でさえも、記憶が戻らないことを受け入れてゆくように思えたからだ。
違和感を感じる自分だけが取り残されている気がしていた。
でも実際はそんなことはないのだと気づく。
望美をはじめ将臣の周囲の人間は、多かれ少なかれ譲と同じような思いを抱えているはずだ。
でなければ、今握り締めている望美の手がこんなに震えているはずがなかった。
長く、ゆっくりと譲は息を吐く。
いつの間にか電灯の光が煌々と望美を照らしていた。
辺りはすっかり暗くなっていて、まだ遊んでいたはずの少年達の姿もどこにも居なくなっている。
思った以上に時間を過ごしていたことにも気づかないほど、余裕がなかった。
強張っていた体を解すようにわずかに身じろぐと、擦れた靴裏がじゃり、と鳴った。
他に人気のない公園はひどく静かで、そんな音さえやけに大きく聞こえる。
好きな人にこんな姿を曝すなんて。情けない。恥ずかしい。
少し冷静になった心は自分を罵る声をいくらでも吐いた。が、同時に全部いまさらだ、という気持ちもあった。
どこかで吹っ切れたのかもしれない。
「手、しばらくこのままでも良いですか…?」
「え…?」
「このままで、居て欲しいんです…。」
手にはまた握り返される感触。望美は黙ったままだったが、返事はそれで十分だった。
とことん甘えてしまおうと開き直ると、ずっと重たかった胸がようやく少し軽くなったような気がした。
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あとがき
悩む譲は私の主食の一つ。
そんなこんなで性懲りもなく続いた将臣記憶喪失設定の有川兄弟話です。
譲は意識的に甘えるのはものすごく下手なような気がします。
時には甘えたい人に甘えるのも良いんじゃと思って、甘えさせました。
不破(10.12.15up)