思考迷宮
どこもかしこも真っ白な建物の廊下に、かすかに漂う消毒用アルコールの匂い。
譲はいかにもなそれを嗅ぎながら、605号室というプレートが掲げられた部屋の前に立っていた。
プレートには部屋番号に続けて手書きで“有川将臣”と、よく見知った名前が書かれている。
つい昨日も確認した光景だ。
だがやはりまだ見慣れないことにも変わりがなく、わずかな緊張を覚えつつドアを開く。
早くこの見舞いを終わらせたいなと思いながら。
事の発端は交通事故。
譲の前に、一旦停止を無視して左右をろくに確認しないまま車が飛び出してきたのだ。
はねられそうになる譲を将臣はとっさにかばい、おかげで譲は無傷で済んだが、将臣はそうはいかなかった。
出血するような怪我こそなかったものの、ほとんど受身も取れずに倒れこんだ際、頭を強かに打ち付けたようで呼んでも全く反応がなかった。
だから病院に運ばれて将臣が目が覚ました時には、駆けつけてきた家族や望美と共に心底ほっとした――のだが。
将臣からはほとんどの記憶がすっかり抜け落ちていた。自分の名前すら。
余りのことに動揺する譲達家族に、安心させるようとしているのだろう、担当医は努めて穏やかな口調で、
これは一時的なもので記憶はじきに戻るだろうこと、事故に遭った人にこうしたケースが起こるのも決して珍しいことではないことを告げた。
その日から、譲はこの病室に通い続けている。
「これが新しい寝巻きだから。タオル類と下着の替えはこっちのバックの中に入ってる。」
「あ、あぁ…。」
数日分の着替えやタオルといった身の回りに必要なものを差し出すと、将臣は戸惑いつつも大人しく受け取った。
「他にも何か必要なものがあったら言ってくれよ、兄さん。」
身軽になったバックに今度は汚れた衣類を詰めながら話しかける。
けれど将臣は先ほどと同じように曖昧な返事を返すだけで、それ以上何も言わずにいる。
将臣の態度は気になるものの、入院生活には不便は感じてないらしい様子を見てとって、少し安堵する。
「それじゃ、今日はこれを渡しに寄っただけだから、もう帰るよ。」
「譲。」
帰ろうとする背を呼び止められて振り返ると、なんとも言えない表情をした将臣と目が合う。
「………?なんだよ、兄さん。」
何か欲しいものでも思いついたんだろうか。
そう思って待っているのに、次の言葉はなかなか掛かってこない。
しばらく沈黙が続いた後、気まずそうに頭を掻く将臣が口を開いた。
「あー…、その、なんだ…手間かけさせて悪かったな…。」
「…別に、大したことはしてないさ。ここは学校の通り道にあるし。」
「そう、か…。」
そんな態度じゃ丸分かりだ、兄さん。心の中で一人ごちる。
歯切れの悪い将臣の様子からは、こちらとどう接して良いか分からずにいるのがありありと窺えた。
記憶がないのだから、態度がぎこちなくなってしまうのは当然と言えば当然のことだ。
けれどいざ距離を感じる接し方を目の当たりにすると、家族なのにという釈然としない思いがよぎってしまう。
苦笑しつつも、出来るだけ明るくまた来るよと言って、譲は病室を後にした。
ひどく疲れた気分だった。
将臣への見舞いを終えた譲は、そのまま家に帰る気にもなれず、自販機の横に備え付けられたシートに腰を下ろすと深い溜め息をついた。
そこは入院患者への面会やお見舞いに来る人々の待合室も兼ねたスペースのようで、譲の他にもちらほらと影が見える。
つい今しがた将臣としたやり取りを思い返して、暗い気持ちになる。
「気を遣いすぎなんだよ。」
少し前まではむしろ、兄に大雑把すぎるだの、もっと周りに気を配ってくれだの言っていた。
返ってくるのはどうってことねぇだろか悪りぃの一言で、いつも軽く流されて終わり。
その態度こそが大雑把だと言わしめる要因だったことに本人は全く気づいていなかった。
そういう兄に対して時には本気でむっとすることもあったが、かといって今のような他人行儀な態度はもっとごめんだと思うのだから、心なんて勝手だ。
思わず自嘲の笑みがこぼれる。
頭では仕方ないことだと分かっている。
今の兄にとって自分は「弟だと名乗る男」でしかなく、ぎこちない態度になるのが当たり前だと。
もし記憶を失くしたのが自分で、誰かも分からない人間から以前のままのように接しろと言われたら、無茶苦茶な話だと思うだろう。
つまり、譲が将臣に望んでいるのはそんな無茶苦茶な話なのだ。
分かっていながら、それでも焦りを抑えられずにいる。
将臣の記憶が戻るのはいつなのか。
またいつも通りに過ごせるようになるのは。
明日かもしれない。明後日かもしれない。
ひょっとしたら一時間後かもしれないし、何年も先のことになるのかもしれない。
分からない。
医者からじきに記憶が戻ると言われても、結局、将臣の記憶が戻る保証なんてどこにもなくて、不安な気持ちは拭っても拭っても後から湧いてくる。
自分をかばって陥った事態だからなおさらだ。
その不安が焦りを呼び、焦りは苛立ちへと変わってゆく。
苛立てば苛立つほどますます不安になるというのに。
自分の思考の悪循環に嫌気が差して、壁にもたれかかったままずるずると頭を動かすと、待合室に置かれたテレビが最近話題の映画の予告を映し出しているのが見えた。
いわゆる純愛がテーマらしいその映画予告は、最後にヒロインと主人公の死別を暗示するようなシーンを挿入して、次のCMに切り替わる。
「気を遣いすぎなんだよ。」
流れ続けるテレビを見るとはなしに眺めて、理不尽な愚痴をもう一度呟くと、悪りぃという声が脳裏に聞こえた。
思い出に彩られたそれは良く知る軽い調子で、胸は一層苦しくなった。
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あとがき
「王道バトン」の「2.相方をかばった怪我が原因で記憶喪失に。記憶を失ったのは?」の回答から
生まれた将臣記憶喪失設定の有川兄弟話でした。
この設定ですでに2回も小ネタ書いてるのにお前また書いたのか、という己の恥を曝すお話でもあります。
しかもとうとうパラレルとして独立させてる辺り、なお恥ずかしい。
どこまでもグルグルする譲を書きたくて、ひたすらグルグルさせるうちにどんどん暗くなりました。
思考というのはループさせればさせるほど、深みにはまりやすくなる。頑張れ、譲。
不破(10.10.19up)