夜の浜辺に男が一人佇んでいた。
吹きすさぶ海風を一身に浴びながら微動だにせず、その眼差しを頭上に広がる星々に注ぐこともなく。
男の名は――弁慶、と言う。
弁慶は海を見ていた。
明かり一つない海を。
ただじっと、その一面に広がる黒色を眺めていた。
別に何がしたかったわけでもない。
一人になりたかった。
それで宴を抜け出してここへ来た、それだけのことだった。
九郎のような一軍を率いる将ならいざ知らず、その軍師に過ぎない自分が多少抜け出したところでそれほど騒がれることもないだろう。
そんな弁慶の考えを証明するかのように、波音に紛れてかすかに聞こえてくる喧騒は、先ほどとなんら変わりないようだった。
この分だと福原での戦勝を祝う宴は、明け方まで延々と続きそうだ。
弁慶はそれに安堵とも嘆息ともつかない様子で息を吐いた。
確かに源氏は勝利を収めはした。
しかし、と弁慶は思う。
九郎の心中を慮り言うのは憚ったものの、この勝利は諸手を挙げて喜び騒げるほどのものではない。
安徳帝を逃し三種の神器も取り戻せず…還内府を始め、主だった大将首も挙げてはいない。
平家を福原から退け辛うじて頼朝公への体裁は保ったものの、奇襲を仕掛けてこれでは採算は合わない。
そして何より、平家には未だ清盛がいるのだ。
怨霊となり生前にも増して力を得た清盛が。
その存在が弁慶の心に晴れない空のように圧し掛かっていた。
清盛をどうにかして封じないことには、院宣に従い三種の神器を取り戻したところで、真の勝利とは言えない。
清盛が在り続ける限り、平家は怨霊の使役を止めはしないだろう。
それでは五行の乱れが正されることも――世に平穏が訪れることもない。
血は流れ続ける。
弁慶の願いが叶うことはないのだ。
今はとても酔えそうな気分ではなかった。
それに笑い騒ぐ宴の席よりもよほど、この場所が己には似つかわしいものだと言えた。
「あんたも大概、物好きだよな。」
不意にかかった声にわずかに首を動かし、視線を向ける。
わざわざ振り返りはしなかった。
声で誰かはとうに知れていたから。
「ヒノエ…」
名前を呼ばれた青年は、面白くなさそうな顔をして立っていた。
「楽しいのか?そんなものを眺めていて。」
「何も見えないからこそ他に気が散らなくて、考え事をするには良いのですよ。」
「ふぅん…『何も見えない』、ね…。ま、確かにこんな真っ暗じゃ何も見えないけどさ…。」
ヒノエは少し離れて弁慶の真横に立ちながら、ひどく含みのある言を返した。
言わんとすることに察しはつきながら、弁慶は答えずただ黙って正面の海を見据えた。
その様子をしばらく横目で窺っていたヒノエも、眼前に広がる暗い海へと目を移す。
そうして二人は言葉を交わすこともなく、ただ海を見続けていた。
絶えず届く、異質な音に耳を傾けるようにして。
――ギ…ギギ……ギ…ギィ……
かつて船だった木片は互いにこすれ合い、軋み、嫌な音を上げていた。
――ギ…ギギ……ギ…ギィ……
波が打ち寄せるたび、繰り返し繰り返し。
その音は言葉よりも雄弁に、ある事実を告げていた。
即ち――目の前の海には、未だおびただしい船の残骸と平家勢の骸が漂っていることを。
こうして海に近づかずとも、焦げくさい臭いはこの辺り一面に満ちていて、それだけで昼に起きた惨状をありありと感じさせた。
己の手で生み出したものに相対し、弁慶は思う。
この黒色の中には僕の罪がある、と。
どれだけ黒で塗りつぶしても、消えることも隠れることもない。
音となり臭いとなりその存在を示し続ける。
忘れることを許さない。
ちょうど、今のようにして。
だがそれでいい。それでこそいい。
僕には許しなど似つかわしくない。ふさわしくなどないのだから。
僕は――
「悲しんでいないなんて思ってないぜ。」
挟まれた言葉に一瞬、弁慶の息が詰まった。
滑り込んだのは余りにも真剣な声。
ヒノエは誰が、誰を、とも言わなかった。
言わなかったけれど…言わなくてもそれは分かった。
逃げる船団に容赦なく火を放ったことを、弁慶は何も後悔はしていなかった。
それが戦を一日でも早く終わらせるのに、必要なことだったと思えるからだ。
それは今も変わりはしない。
けれど後悔しないことは、心が痛まないことと決して同義ではない。
ヒノエの言葉は漁火のようにして、弁慶の心の奥底に潜んだ思いを攫い上げていた。
それでもなお、内心の動揺が表に出ないよう弁慶は耐えた。
だから別に顔を隠す必要もないはずだった。
なのに。
この時弁慶は心持ち顔を俯けていた。
ヒノエに気づかれぬ程度に。
本当に少し。少しだけ。
頭巾の陰に顔が隠れるように願いながら。
「ったく…酔い覚ましに散歩をしてみれば、よりにもよってあんたに出くわすなんてね。」
そう言って大仰に溜息をつくヒノエの声は、いつもの調子に戻っていた。
そうして、俺は戻るから、じゃあなと言い置き踵を返す。
その足音が遠ざかり聞こえなくなった頃、弁慶はようやく口を開いた。
「僕もまだまだだな…。」
誰が好き好んでこんな惨状が広がる海に近づこうとするのだろう。
宴を抜け出してこちらに来た時点で、ヒノエの目的など明らかだった。
余りにも見え透いた嘘もまた、同じ目的のため。
弁慶を気遣ってのもの。
けれど決してそれをあからさまに口にしないのは、ヒノエの性故なのか弁慶の性をよく知るが故か――おそらくはその両方と言えた。
「本当に…まだまだだ…。」
海からは相変わらず冷たい風が吹き付け、体温を奪って行く。
だからだろうか。
今胸にひろがる感情を、弁慶はとても温かく感じていた。
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あとがき
時間時は五章福原事変で決着が着いた夜です。「漁火」は私が思う弁慶と
ヒノエの理想の関係性というか、二人の間にある絆を表したくって書いたお話です。
弁慶の「非情の軍師」イベ後、夜にヒノエとこんなやりとりがあったら良いなと思いました。
ヒノエならば弁慶がここで何をしたのか察しがついていてもおかしくはないように思えたのです。
二人は互いに決して正面から優しい言葉はかけないのだけれど、どこか通じていて、
言いたいことも抱えている思いも分かっているといいな、と思います。
一を語れば十を知る関係というのでしょうか。
ゲーム内の時間軸に沿ったお話はこれが初めてになります。
不破(07.10.30up)