お便りのコーナー

皆さんからいただいたメールの中から、脳卒中を患っておられる方やその御家族の方に励みとなるような闘病手記を掲載させていただきたいと思います。掲載御希望の方は、是非メールで御連絡ください。


1) 妻の立場からみた夫との闘病記(東京都:Y.I様)

私達夫婦は植田先生のHPで救われました。
7月20日午後2時 主人の「右手右足がおかしい。真っ直ぐ歩けない」この言葉が始まりでした。
それでも仕事に穴は開けられないと会社へ。最初は、酷暑の続く中の過労と思いました。
父親・兄が脳梗塞で倒れている事もあり 杞憂であればと願うような気持ちで、
多数のHPを開き植田先生のHPに行き当たったのです。

『脳卒中の警告サイン』『どんな病院へ行けばよいのか』を開き、緊急に治療が必要・直ちに病院への
文章が出た時は震えが停まりませんでした。HPの目次『どんな病気』『なにをすべきか』『症状』を印刷。
真っ白になった私は、保険証・着替え・タオル・家中のお金・HPのプリントアウトをバックに詰め会社へ。
救急車を呼ぶ時「初期の一過性虚血性脳血栓の疑いがあります。CTスキャンかMRIのある病院への
搬送をお願いします」と伝えました。救急車には、計器を持った救命士が同乗し、直ちに計測が始まり、
電話して7分後には大学病院に着いたのです。

 いろいろな検査の結果、植田先生のHPの通りの病名でした。HPの目次全てを印刷して勉強しました。
病院の食事療法相談室へ行き夫婦で、講義を受けました。関係書も多数読みました。
私達(夫55才・私51才)の夫婦関係再構築の 二ヶ月でした。先生のメールによる励まし・ご指導が無ければ、
越えられない(敢えて言うならば)「苦悩」でした。主人は一時ナーバスになりましたが、先生のメールで
それも症状の一つとのご指摘で、「夫婦の危機」も救われました。

 ご主人の介護・食事療法・家事と大変な思いをなさっている主婦の方々、先生のHPを通じて「苦しみ」を
分かち合いませんか。夫に涙を見せずに泣く方法とか、減塩を解らないで食べさせる方法、物忘れを笑って
誤魔化す方法etc「女」のみ情報公開です。先生に転送して頂くか、掲示板を用意して頂くかお願いします。
                                

2) 血栓溶解療法にて回復されたお父様の記録(神奈川県H.A様)

 
2000年7月8日(土) 朝:父突然倒れる
 以前から計画してきた長期休暇を利用してのオーストラリア・パースでの語学研修出発まで1週間。
69歳にはとても見えない海外旅行マニアの父からトランクを借りようと、朝食前に実家に電話した。
「母が出て、すでに用意が出来ているから取りに来て」との返事。しかし、それから5分も経たないうちに、
母から電話が入った。「さっきまでTVを見ていたお父さんの様子がおかしい。話しかけても返事をしない!
今、救急車を呼んだから!」それだけで切れてしまった。電話の内容から脳卒中と判断した。

 テーブルの向こうの妻に緊急事態を知らせ「覚悟した方がよいかも」と言い残し、車に飛び乗った。
69歳になったばかりの父は、元気とはいえ元々血圧が高く、血のつながりのある親族に脳卒中発症者が多くいたのだ。
ついに、来るときが来たと思った。
 車で実家に向かいながら、携帯電話で自宅と連絡を取り合う。やがて妻から、K大学病院の「高度救命救急センタ−」
に搬送されたとの連絡が入る。カーナビの目的地をK大学病院(どこにあるかも知らなかった)に変更,誘導されるままに
車を走らせた結果、カーナビと高速道路のおかげで、約30分程でK大学病院の「高度救命救急センタ−」に着く事が出来た。

 待合室に母がいた。母も、いつかこの日が来ると予感していたらしく、取り乱してはいなかった。
聞けば、いつも通り、リビングのソファに座ってTVを見ている父に話しかけたところ、全く応答がないので、
どうしたのだろうと見に行った目前で、父がソファから転げ落ち、僅かに口から泡を吹いていたという。
何度呼びかけても応答しなかったので、すぐに救急車を要請、1台来たが、救急隊員は父の体(太っている)を見るなり、
大型救急車を要請し、4人掛かりで父の体を担架に載せ、走り出した。
かかりつけの0病院に連絡したが、脳卒中の可能性を告げると「ウチは手がないから」と断られたため、
すぐにK大学病院と連絡を取り、向かったとの事だった。倒れてからから20分程度でK大学病院に到着、
父は、手術室に消えていったという。何ともスピーディーな搬送であったようだ。

 母と待つこと1時間、倒れてから1.5時間が経過した頃、H医師(主治医となった)が、
「ご説明しますので、説明室へどうぞ」と走ってきた。
すでにCT映像を手に持っており、待合室角の説明室でこれを見せながら、私と母にてきぱきと説明を始めた。
内容は以下の通りであった。(これは、病状説明用紙にかかれたものの要約です)
1) CTを撮ったが、異常な部位は見つからなかった。症状から見て脳梗塞であろう。
2) 脳血管撮影をして、原因箇所を突き止めたい。その際、塞栓を認めたら、血栓溶解術を施行したいので、同意が欲しい。
3) この方法はリスクも伴うが、施術が早ければ早いほどその効果も大きい。他の病院であれば、点滴のみして、様子見
という所もあるかもしれないが、私はこの方法でお父さんを救いたい。
との事だった。

 リスクという言葉と、父が以前より「動けなくなるくらいだったら死んだ方がマシ」と言っていたことから、母は混乱し
サインに躊躇したが、H医師の説明は分かり易く、合理的で、自信に満ちていた事から、母を諭し、代わりに私(患者の長男)
が同意書にサインした。
 手術前に本人と会わせるというので、手術室に入った。父は僅かに意識があったが、すでに半身マヒが始まっていて
片腕、片足(どちら側だったかは失念)が動かなくなっていた。
 今生の別れと覚悟し、最後に「がんばれ」と声をかけ手術室を出た。母が泣かなかったのには感心した。
 「手術は、2時間超かかりますので、それまでお待ち下さい」と落ち着いた言葉を残し、H医師は手術室に消えた。
母と私は、何か食べないとと考え、同大学の学生食堂であまりおいしくないコロッケ定食を分け合って食べた。
(これからのことを考えると、二人ともとても食べる気はしなかった)

 ここで、母の口から、以下のような愚痴が漏れた。
1) かかりつけの家庭医より、酒量を控えるよう言われているのに、先週末の姪の結婚式披露宴以来守られていない。
1日、缶ビール(大)1本とワイングラス2杯以上を呑んでいる。
2) 父に血圧の事を聞くと「家庭医は正常と言っている」と返答していたが、母が直接、家庭医に聞いたところ、
最高190近くあったらしい。
3) 酒を控える様、更に言ったが聞いてくれないので、数日前喧嘩した。

 やはり、父には問題行動があったようだ。母は最後に「自業自得かも」と付け加えた。
重苦しい待機が2時間半経過した後、笑みを浮かべたH医師が、CT画像を持って待合室に帰ってきた。
直ちに説明室に入り、以下の説明を受けた。
1) 脳血管撮影の結果、左中大脳動脈に塞栓を認めた。(脳半分に血液が巡っていない)
2) 血栓溶解術を施行した結果、開通があった。とりあえずの危機は脱した。
3) しかし、今後、出血性梗塞、再梗塞(また、詰まる)が発生する可能性がある。
4) 最悪、減圧開頭術(骨を外す手術)が必要となるかもしれないが、それは覚悟して欲しい。
5) お父さんは、この後、集中治療室に移すが、その前に面会して欲しい。

 このときのCT画像は、http://www.ne.jp/asahi/ueda/stroke/thrombolysis-1.htmlの
「超急性期脳梗塞:左中大脳動脈閉塞症 脳血管内治療による血栓溶解療法前・後」の画像とそっくりであった。
もう、ここまで来ると、医師のこれまでの努力に感謝し、後はお任せするしかないと判断した。
 父は、手術台の上で、チューブをたくさん付けられて横たわっていたが、動かなかった方の手と足がすでに
動くようになっていた。天を仰ぎ、血栓溶解療法を開発した人(誰かは知らないが)に感謝した。
父が倒れてから、5時間もすると、大勢の親戚が続々と父を見舞いに来た。 

 集中治療室の入室方法を看護婦さんにレクチャー(手洗いを何度もして、使い捨てのマスクや帽子もかぶる)してもらい、
再び父と会った。父は、「オーオー」と唸りながら、手足をバタつかせていた。しかし、私たちの問いかけには反応は鈍く、
後遺症の心配を残して、この日は病院を後にした。

2000年7月9日(日) 集中治療室から一般病棟へ
 朝方、病院より電話があり、集中治療室から、集中治療室入り口前の一般病棟へ移すので、正午過ぎに来て欲しい
との連絡があった。正午に集中治療室の前で待っていると、母と同世代の婦人が話しかけてきた。
聞けば、彼女のご主人は数日前に倒れ、父と同様の手術を受けたらしい。同病相哀れむとの諺の通り、お互い慰め合った。
 やがて、父は集中治療室から、別棟の集中治療室の前にある病棟に移された。相変わらず、体にはチューブや
センサがたくさん付けられ、患者情報モニタシステムの画面にトレンドされる脈波形はガタガタ、10秒周期で
アラームを出し続けている。どうやら不整脈が出ているようだ。私は、コンピュータのエンジニアだったので、
工場用の似たようなシステムを設計したこともあるが、もしこんなにアラームが出ている状態で製造された製品なら
全てオシャカのハズ。父もオシャカ寸前というところか? 

 しかし、意識はうっすらあるらしく、時々脈は止まるが、脇腹に固定された傷口を止める重石をいやがり、
突然起きあがっては足を動かし看護婦さんを困らしている。
 やがて、我々にも判る言葉を発した。「しょんべんは?」
 看護婦さんが「そのまましていいのですよ」と答えると、安心したらしく排尿した。「水は?」と聞くと「うんうん」
というので、看護婦さんに呑ませてもらった。父は酒好きだったが、どんな高級ブランデーを飲むときにも
見せなかったうまそうな顔を、初めて見せた。しかし、従来の父とは明らかに異なる。
 H医師が、この日撮ったCT画像を見せてくれた。「ほぼ、元通りになりましたが、真ん中当たりが黒いでしょう。
ここは、言語を司る部分ですから、言葉に障害が出るかもしれません」と説明してくれた。

 また、家族から見れば、患者の性格が変わったようにも見えるかもしれないとの可能性も示唆された。
 この後、父の体温は38℃を超え、水枕と座薬による処置か行われた。父は、「オーオー」と唸りながら、
手足をバタつかせては、何度制止しても起きあがってしまった。脳内に急に血液が流れ込んだ為、
脳が興奮しているのでは?との看護婦さんの説明だった。
 医師や看護婦の問いかけには何とか答える事もあるが、私たち家族には応答しない。
その反応は、狂人のようにも見え、後遺症が不安になってきた。もう、私たちの事を思い出す事はないのだろうか?
言葉は喋れるようになるのだろうか?

 
2000年7月10日(月) やっと、意識が戻る
 この日は、オーストラリア語学研修と休暇の設定をキャンセルするため、出社した。
 上司には、これまでの経過を説明し、緊急事態が発生する可能性を理解してもらった。
私の職場は、電機メーカーの品質保証部門なので、リスク管理が商売のようなもの。
今後のスケジュール変更が即座に了承された。

 午後、私の個人用の携帯に母から電話があった。「お父さん、喋れるようになったわよ!」
 昨日の容態からはとても信じられない事だが、終業時間を待ちかねて、病院へ向かうと、以前とあまり変わりない
(でも、顔がむくんでいるような?)父がベッドに横たわっていた。「オーストラリアにはゆっちゃん(私の息子)
だけ行くんだって?」と、すこしもつれたようなしゃべり方で話しかけてきた。
そして、「俺はもう、酒止めるよ」と続けた。暗に「こんなになっちゃって、おまえには旅行キャンセルさせて申し訳ない」
と言っているようであった。「早く良くなってくれれば、また行けるさ」と答えた。
 昨日までの事を覚えているか?と尋ねたが、いっさい覚えていないとの事。
 昨日はアラームを出し続けていた患者情報モニタシステムは今日は静かで、あまり規則正しくはないが、
昨日と比べればまあまあ、まともな波形が液晶パネルの上に描かれていた。

 私は、インターネットから取り出した「急性期脳梗塞に対する血栓溶解療法の成功例」のコピーを父に見せた。
「この治療法が最近開発されたから、お父さん助かったんだよ。今が2000年で良かったね」と言ったら、
「そうか」と頷いていた。

 
2000年7月11日(火) 大部屋に移る
 当面の危機は去ったとの安堵感から、会社の仕事も手に着くようになり、今日のお見舞いは取りやめ。
残業後、実家に帰つて今日の父の様子を聞くと、集中治療室前の2人部屋から、6人の大部屋に移り、
経過は順調、、全ての指が動くことを確認したという。

看護婦さんの名前も覚えられたようで、意識もかなり良くなってきているようだ。
母にひげ剃りを持ってきてくれとの要求をしたそうな。今後の、リハビリはどうなるのだろうか?
すでに、退院の期待が出てきた。

2000年7月12日(水) 起きあがって食事する
  会社の帰りに病院に寄り、6人の大部屋にいる父を見舞った。入り口で主治医のH医師と偶然会ったので会釈した。
父の命の恩人である。父に取り付けられた、患者情報モニタシステムの波形もかなりまともになっており、
先に到着していた母と談笑していた。
しかし、かっての父と比べればやはりシャープさにかける。すでに手や足の指を動かす、自主リハビリを開始したこのこと。
母によれば、以前、集中治療室の前で会った婦人のご主人は、すでに廊下を歩いているとのこと。その回復の早さに驚く。