日本のラジオ受信機の歴史

日本でラジオ放送を正式に開始した1925年には家庭での受信は鉱石ラジオが大半でした。
真空管式もありましたが、真空管は高価であり、鉛バッテリーや乾電池を使う必要があったので、日常の維持も大変な手間と費用がかかりました。
無線と実験創刊号(1924年)の表紙には真空管を使って受信する様子が描かれています。
日本でもお金持ちは真空管式のラジオを購入して使っていました。
当時で家一軒買えるような高額なスーパーも輸入されたようです。



日本での放送開始時のアメリカではストレート受信機以外に スーパー受信機まで作られていました。
写真は1926年発売のRCA製 ラジオラ26 スーパー受信機


写真撮影要

2−1 大正末から昭和初期にかけて

庶民は鉱石ラジオの時代です。
真空管ラジオは201AやUV199を使った電池式で、お金持ちしか購入できませんでした。
ラジオは真空管の開発に連動して発達してきました。
真空管製造で圧倒的なシェアーを持つ東京電気(現東芝)の影響が大きいです。
新しい真空管を発売すると、それを使った新しい方式のラジオが発売されるという事が続きました。

このラジオは201Aを使用したバッテリー式で、キャビネットの下側の空きスペースに電池が組み込まれていたようです。
立派なラッパスピーカーが付属しています。
現在はエリミネーター式(電池不要な交流電源式)に改造されています。
2ー2 昭和4年頃から

真空管式が爆発的に増加します。
フィラメントを交流で点灯できる226(昭和3年)や227(昭和4年)が東京電気から売り出されました。
これらの真空管を使って電灯線から電源が取れるラジオが作られたからです。
それまでのバッテリーを充電して、ラジオを聴くという不便さから開放されたわけです。
バッテリー・エリミネーター(電池が要らない)式ラジオが持て囃されます。
この当時のラジオは輸入品を除いて、殆どが検波 低周波増幅か高周波増幅 検波 低周波増幅のストレート受信機でした。
当時は日本放送協会の放送が一波あるだけで、その後開始された第2放送を入れても2つだけですから、
混信の心配もなく ストレート受信機で充分実用になりました。
エリミネーター式が本格的に普及した当時の代表的なラジオは227 226 112A 112Bの4球受信機です。
アンテナから取り入れた電波を同調回路で選択して取り出し、検波した後、低周波を2段増幅してスピーカーを働かせる仕組みです。
当時の真空管の性能は低かったので、真空管と真空管の間にトランスを使い、トランスでも3倍とか5倍に増幅していました。
実はこれでも増幅度が足りず、再生検波を採用していました。
再生をかけると調整は面倒ですが、真空管1本増やしたと同じ効果があります。


昭和6〜7年頃販売されていたナショナル当選号型ラジオ。
これは224 227 247B 112Bの4球式ですが、同じ外観の3球式もあります。
昭和6年 中央放送局の懸賞にナショナルラジオが1等当選したのを記念して発売されたラジオです。
松下電器がこのタイプを「当選号」として宣伝していたかどうかは定かでありません。
ただ好評だったようで、ラジオ業界では同じような形のものを当選号型キャビネットとして販売していました。




屋根の丸いタイプのラジオ、「カセドラル」「屋根丸」「ビリケン」などの愛称で呼ばれます。
ミゼット型と呼んだ会社もあるようです。
昭和8〜9年頃まで流行しました。
ラジオそのものはスーパーもありますが、並四か4ペンが多いです。
使われている真空管もナス管が殆どです。
キャビネットの量産が大変だったのか、昭和10年近くになると頭が平らな形に変化します。
中古市場も屋根丸の日本製ラジオは非常に少ないです。







昭和8年になると ラジオに使われる真空管はなす型から、だるま型のST管に順次変わります。
ほぼ同じ頃真空管の3桁の名前も2桁に変わります。

227 226 112A 112B
27 26B 12A 12B

2−3 昭和10年頃〜
前年にマツダがスーパー用の真空管を売り出します、国内各社はこれらの真空管を使ったスーパー受信機を発売します。
雑誌の広告などでは良く見かけますが、骨董市で見かけることは殆どありません。
原因は不明ですが、実際はあまり売れなかったのかもしれません。
一方ストレート受信機は回路に大きな変化はありませんが、ラジオのデザインがこの頃から変わってきます。
ダイアルの窓がそれまでの小さな窓から、エアプレーンダイアルに代表される大きな窓に変化します。
キャビネットも縦型が主流だったものが小型の4角形になり、更に横型へと変化してゆきます。
真空管をはじめ部品の小型化が大きく影響しているのでしょう。





アリアR-1号型
昭和11年頃の製品、所謂”並四”。
27A 26B 12A 12B
(画素数1024X768)


昭和11年頃の製品。
真空管は24B 26B 12A 12B。


昭和11年頃に作られたテレビアンM-48 4ペン。
24B 24B 47B 12B

このような縦型が作られたのは昭和10年代の初め頃までで、それ以降は作られなくなります。

2-4 昭和14年〜

大陸での戦争の影響で 物資不足になってきます。
国策に添った資材節約型の受信機をメーカー各社が開発 国策型受信機として販売しました。
無線と実験 昭和14年9月号 10月号にはメーカー各社 10機種の解説があります。
使われている真空管は57 26B 12A 12Fか57 56 12A 12Fの構成です。
27Aや56など3極管を検波に使った場合、感度不足になるので、トランス結合を使っていました。
57など5極管検波を採用することで 増幅度を補い抵抗結合に変更できました。
トランスは戦略物資の銅を使用しますので、これを省くことは国策に沿ったことです。
断線しやすい低周波トランスを使用しないので、故障も少なくなりました。
デザイン的には横型の箱で、縦型や四角形の物は見かけなくなります。
終戦が近くなるにつれ、デザインから角の丸みが消え、工作の簡単な箱型に変化します。
4ペン(高1)ラジオも当然製造されています。
並四の全盛期と言えるでしょう。




アリア国策3号  真空管は57 26B 12A 12F。



厳密な製造時期は不明ですが、この時代高周波増幅付スーパーヘテロダイン受信機も作られています。
写真はナショナルの6S-3型スーパー

使われている真空管は58 2A7 58 2A6 2A5 80。

放送局型受信機

昭和15年頃になると更に物資の節約が必要になります。
銅線を多量に必要とする電源トランスを不要にしようとトランスレス受信機が計画されます。
これが放送局型受信機で高周波増幅無しの122号と高周波増幅つきの123号受信機です。
日本放送協会が規格を決め、その管理の下に国内各社全く同一の仕様でラジオを生産しました。
製造時期により回路やデザインが微妙に違います。

特に123号は高周波1段増幅つきで、性能は素晴らしかったのですが、資材や熟練工不足で部品の品質が年毎に悪くなり、
次々に壊れるので、トランスレスラジオは壊れやすいという悪評が定着してしまいました。
でも筆者の最も好きなラジオの1つで、戦前のラジオといえばこのデザインを思いおこさせます。


放送局型123号受信機

使用真空管は
12YーR1 12Y−V1 12Z−P1 24Z−K2 B37(安定抵抗管)



放送局型123号受信機は終戦後日本放送協会の管理を離れ、各社から国民型1号ラジオとして販売されました。
デザインや回路は各社独自仕様ですが、回路は123号にほぼ準拠しています。

2-5 昭和20年〜


終戦時 日本のラジオ産業は壊滅的打撃を受けていましたが、ラジオは重要ということで重点的に復興が進められます。
戦前の日本放送協会管理による放送局型受信機に代わり、国民型受信機(1号〜6号)が制定されます。
昔からのラジオメーカー以外にトヨタやキャノンなど異業種の会社も参入したのですから驚きです。
国民型受信機は全て4球式で国民5号という1機種を除き高周波1段増幅のストレート受信機でした。
昭和24年頃までは、スーパーも作られましたが、殆どはこの高1タイプでした。
国民型5号は並四です、但し規格は制定されていますが、製品が発売された形跡は無いようです。
ラジオは儲かると言うことで、素人修理も盛んでした、ラジオ雑誌の創刊も相次ぎます。
戦前からの無線と実験 ラジオの日本は別格として、
電波科学の復刊、ラジオアマチュアー、CQハムラジオ、ラジオ技術 ラジオ科学 初歩のラジオ ラジオと音響等の創刊がこの時期に集中します。

写真は撮影要

もう1つ重要なことは短波受信の解禁です。
戦時中は禁止されていた短波の受信が解禁されました。
ラジオメーカー各社は勿論、それまでの軍需品を製造していた会社もオールウエーブ受信機の製造を始めます。
当時の経済情勢でどれだけ売れたかは疑問ですが、各社競作します。

無線と実験昭和21年1月号
オールウエーブ特集号。
昭和22年1月に作られたNECの全波受信機
(ツマミが紛失している)


2−6 昭和23年〜
この年 マツダからスーパー用の真空管 6W−C5 6Z−DH3が発売されます、少し遅れて6Z−DH3AがNECから発売されます。
これを機会にスーパー受信機の製造販売が盛んになります。
最初はストレート方式と並行して生産されていましたが、1〜2年で殆どスーパーに変わります。
当時のGHQの再生検波ラジオの製造禁止や昭和25年6月に施行された電波法の改定が原因です。
スーパーが作れない会社はこの時ラジオの製造から撤退したようです。

昭和25年には民間放送の開局が決まり、「従来の受信機では混信して使えない」との噂が飛び交いました。
戦前の並四や高1をスーパーに改造するのが大流行したのもこの頃です。
改造キットも売り出されています。
なお6Z−DH3の製造期間は非常に短く、この真空管が使われているラジオは昭和23年頃の短期間の製造に限定されます。
マニアの間では製造時期特定の指標に使っています。

昭和25年8月 無線と実験の臨時増刊号
「これからのラジオ」

これからのラジオはどうあるべきか、従来のラジオはどう改造したらよいか、この本で勉強した方は多いと思います。
街中のラジオ屋さんもこのような記事を参考に古いラジオのスーパー改造を盛んにやりました。
骨董屋さんで戦前の古い豪華ラジオを購入しようと箱の内側を見ると戦後の自作品のスーパーだったという例の多くは、この時代の産物です。
戦後の一時期 整流管も含め4球スーパーがメーカーで作られたことはありますが、性能的には満足できず、標準的な5球スーパーになりました。
5球あれば周波数変換 中間周波増幅 検波 低周波増幅 整流が無理なく実現でき、日本では余程の僻地で無い限り実用になりました。
ただ山間地で電波が弱い地域、あるいは遠隔地の放送を受信したい聴取者向けに高周波増幅付の6球スーパーも売り出されました。
このほか議論のあるところですが、5球スーパーにマジック・アイをつけて6球スーパーと称して販売もされました。
マジック・アイつきは6球でも、感度がよくなるわけではありませんが、綺麗なので商品価値を高め、よく売れたようです。
なお感度を良くするには5球スーパーに高周波増幅を付加するか、中間周波増幅を2段にするか 2つの方法があります。
見かけの感度は中間周波増幅を2段の方が良いのですが、実際は雑音も増幅されて実用的ではありません。
高周波増幅をつける方が効果的です。
メーカー製の受信機で高周波増幅付スパーは沢山存在しますが、高周波増幅無しで中間周波2段のスーパーは見かけません。
あるとすれば増幅度より、通過帯域を広げHi Fiを狙った物でしょう。
理由はコンバーター管で発生する雑音の多さにあります、この雑音レベル以下の信号は当然増幅しても無意味です。
コンバーター管以前で、この雑音レベル以上に信号を増幅する必要があるわけで、ここにRF増幅の効果があります。


シャープ 5R-14A 5球スーパー

昭和24年頃 製造されたスーパー、6W-C5 6D6 6Z-DH3A 6Z-P1 12F。


この時代のもう一つの大きな特徴はアマチュアー製スーパーの氾濫です。
スーパーは高級品ということで物品税が課税されていたので高価でした。
部品そのものは比較的安価だったので、アマチュアーや町のラジオ屋さんが組み立てて販売することが流行しました。
合計すると大メーカーの生産量に匹敵するのではとまで言われています。

初歩のラジオ 代理部 科学教材社カタログ
昭和27年9月号掲載 

このタイプのキャビネットは殆ど自作品です。

昭和30年代になりmT管の時代になると、メーカーの生産が軌道に乗ったこともあり、価格的な旨みが段々無くなってきました。
組み立てたラジオを知り合いに販売して研究の軍資金になった時代は過ぎました。
しかしプラスチックキャビネットのmT管スーパーキットが3,000円くらいで購入できたので、アマチュアーには魅力的でした。
木製キャビネットとシャーシをセットにして、洒落たデザインの「キャビネットキット」が販売されだしたのもこの頃です。
ラジオメーカーの優れたデザインに対抗する意味もあったと思われます。
1960年の初歩のラジオにもST管スーパーキットの広告が掲載されているので、入門者用の教材として根強い人気があったようです。

標準的なST管5球スーパー アマチュアー自作品
6W-C5 6D6 6Z−DH3A 6Z−P1 12F。
ST管のラジオキットは大きくて製作が容易だったせいか、
ラジオメーカーが製造中止した後も長く販売された。
このラジオは当時販売されていたキャビネットと
シャーシのキットを利用して組み立てた物です。
写真の物は昭和30年代になってからの製作と思われます。
初歩のラジオ昭和35年(1960)2月号科学教材社広告
この当時ST管の生産は殆ど終了していたが、
教材用のキットは生き残っていた。


昭和28年はスーパー受信機の最も輝いた時期かも知れません。
無線と実験などラジオ雑誌にはメーカー製ラジオの解説や回路図が盛んに掲載されていました。
まだラジオは一家に一台の時代ですから、大きなキャビネットの物が多いです。
ラジオは殆どST管の時代で、ごく1部のメーカーがmT管ラジオを製造しています。
昭和30年代に入るとメーカー製ラジオは殆どがmT管に変わります。
大型のHi FIラジオ、パーソナル用の小型ラジオなど用途別に作られるようになります。
ラジオもST管から一気にmT管になった訳では無く、混在しながら数年かけて順次移行しました。
ただアマチュアーの自作はその作りやすさから長く続きます。
GT管ラジオは日本でも作られましたが、短期間でほんの少数です、真空管そのものは官公庁向けの無線機などに使われました、高価でした。
昭和28年にTV放送が始まると、一家団欒の主役が段々TVに移りますが、まだ数年間はラジオが主役でした。
全国的にTVが普及した30年代中頃にはラジオは1家に1台から1人1台の時代になってきます。



標準的なST管5球スーパー メーカー製


シャープ5R-800
昭和27年頃
定価 9,850円
6W−C5 6D6 6Z−DH3A 6Z−P1 12F。







東芝 マツダ 6SC−35 
6W−C5 6D6 6Z−DH3A 42 80HK 6E5.
製造時期は不明ですが、昭和30年頃の製品と思われます。





mT管トランス式スーパー


マツダ617A mT管5球スーパー
ST管からmT管ラジオに移行時期のラジオ、昭和29年。
6BE6 6BD6 6AV6 6AR5 5M−K9 6E5。
まだマツダはST管ラジオが主流。

mTトランスレス 初期の形

ビクター R-1001型 
12BE6 12BD6 12AV6 35C5 4球スーパー
昭和28〜29年に販売されていた極めて初期のトランスレスラジオです。
このラジオは29年製造の記入あり。
ヒーター電圧の余分は抵抗で消費、B電源はセレン整流器を使っている。
28年はST管全盛時代で、mT管のラジオを作っていたメーカーでもトランス式でした。

サンヨー SS70

 

12BE6 12BD6 12AV6 35C5 35W4 6E5
直巻き式トランス付

mT管トランスレススーパー(普通の形)



mT管トランスレススーパー(変わった形のもの)
変わったデザインのラジオ。


スピーカーを左右につけたラジオ。


昭和30年代中頃になるとFM付2バンドラジオも売られるようになる。



真空管ラジオの終了期の製品。
回路が簡略化されている。
この後同じキャビネットとシャーシを流用してトランジスター化される。




電池管ポータブル

2−7 日本におけるmT管の発売と普及について

ラジオ用傍熱mT管は神戸工業や日本電気で作りはじめました。
無線と実験誌の例だと、ラジオ用mT管の最初の広告は昭和25(1950)年1月号の神戸工業です。
日本電気は1950年11月号が最初です、この時 マツダの広告にはGT管しかありません。
ただmT管が実際に普及したのは昭和28年頃です。
ただ不思議なことに他社がmT管使用のラジオを作り始めても、神戸工業は昭和28年でも相変わらずSTラジオを作り続けていました。
1R5などポータブルラジオ用電池管の製造開始は傍熱管より少し早く、生産が軌道に乗ったのか当時 輸出までしていたそうです。

昭和25(1950)年11月号
無線と実験誌に掲載の広告。



付表 ラジオの歴史年表

1917 日本でもラジオの研究熱が高まる
1920 アメリカのウエスチィングハウス社がピッツバークにKDKA局を置いて定期放送を始めた。
これが世界の放送企業化の初め。
1922 本堂平四郎が放送事業化の目的で無線電話の実験を行う。
放送事業の経営出願者が続出、逓信省は放送事業の創始について検討を始めた。
1923 関東大震災により、放送の開始を希望する世論が起こった。
1924 1 放送施設出願件数が全国で64になる。
5 政府は東京 大阪 名古屋の出願者に「経営は法人で、一地方一局に限る」方針をします。
10 上野市不忍池畔で無線電話普及展覧会が開催された。
11 社団法人「東京放送局」が設立され、放送施設が許可された。
1925 1 社団法人「名古屋放送局」が設立され、放送施設が許可された。
2 社団法人「大阪放送局」が設立され、放送施設が許可された。
「放送用私設無線電話規則」が改正され、受信機器の制限が緩和された。
3 東京放送局は試験放送を開始した。
5 大阪放送局も500Wで試験放送を開始。
6 名古屋放送局も1KWで試験放送を開始。
7 東京放送局は愛宕山で1KWの本放送を開始した。
1926 8 東京 大阪 名古屋の各放送局が統合され社団法人「日本放送協会」が設立された。
12 大阪中央放送局が1KWで本放送を開始。
1927 10 ワシントンで国際無線通信会議が開かれ、中波放送用周波数が550KC/Sから1500KC/Sまでと決定された。
1928 5 東京 大阪放送局は10KWに増力した。
6 熊本 仙台 札幌放送局は10KW放送を開始した。
7 広島放送局も10KWで放送開始。
11 日本放送協会は全国中継を開始した。
1929 12 名古屋放送局も10KWに増力。
1931 6 東京放送局は10KWの第2放送を開始した。
1932 2 聴取者100万を越す。
1934 マツダがスーパー用の真空管2A7や2A6などを発売、メーカー各社これを使用したスーパー受信機を発表。
1937 整流管12F発売、これまでは12Bを使った。ラジオの製造時期特定の指標。
12 JOAKは150KWの第1 第2の仮放送を開始。
1939 4 JOAKは150KWの第1 第2の本放送を開始。
1940 12 海外放送を拡充し、50 20KWの他に50KW機を増設。
1945 8 玉音放送(終戦)
9 短波受信解禁
国民型受信機の規格案ができる、決定は1946年。
1947 アメリカで国際無線通信会議が開かれ中波放送周波数帯が535〜1605KC/Sに変更された。
1948 2 逓信省は受信機型式試験制度を実施。
7 放送局の呼出符号を一局一符号から変更、放送系ごとにした JOAK JOAB。
6W−C5 6ZーDH3 6ZーDH3Aなどスーパー用真空管が発売される。
1950 2 福岡放送局 10KW放送を開始、中津中継局廃止。
6 電波法 放送法 電波管理委員会設置法が制定、「社団法人日本放送協会」は解散し、新たに「日本放送協会」として発足。
この頃からコイル バリコン ダイアルなど規格統一の動きが出てくる(数グループ)
中波放送周波数帯が535〜1605KC/Sの世界標準に改められる。
中間周波トランスが463から455KC/Sに変更される。
1951 4 民間放送局16社が仮免許された。
9 新日本放送(大阪) 中部日本放送(名古屋)が放送を開始。
1952 12 AM 2波による立体(ステレオ)放送を試行、2台の受信機で聴取。
1954 8 日本短波放送(NSB)開局 これを機会に2バンドラジオの生産が盛んになる。
短波の受信周波数も従来の6〜18MHzから3.5〜10MHzへ、その後更に3.8〜12MHzへ移行する。
1955 日本最初のトランジスターラジオ ソニーTR−55が発売される。
1958 FM放送開始
1967 ネジの規格が変更になる(旧JIS→新JIS 所謂 ISOネジへ)
1968 ラジオのダイアル記載のサイクル(C/S)表示がヘルツ(Hz)に変更になる。
1978 11 中波放送が それまでの10KHzから9KHz間隔になる。

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