城下町 中津

我が故郷 大分県中津市。
耶馬溪の入り口に位置し、山国川で福岡県に接する。
鉄道唱歌で豊前中津は繁華な地と歌われた賑やかな町であった。
最近は鉄道の高架、大型店の進出で江戸時代からの商店街は寂しい限りである。
ダイハツ車体の進出で町に活気が戻ることを期待します。
旧城下町は南部小学校 北部小学校2つの校区にほぼ等しく、江戸時代初期からの町名が沢山残っています。
なお南部校区の小祝地区は江戸時代末期まで小倉藩領だったそうだ。
小祝地区は元々現福岡県吉富町の小祝地区と地続きだった、山国川の氾濫で分断された。
旧吉富製薬(福岡県吉富町 最近の名前は三菱?)の住所も小祝。
また北部校区には旧大江村が含まれる。
旧城下町部分は中津町と表示された部分です。


中津の歴史は地図をクリックしてください。



中津市の古い地図(大正)


昭和24年

中津近況


最近の中津の写真です、珍しく正月に雪が降りました。
正直 見たかったです。
詳細は写真をクリックしてください。
宇佐神宮の新年の写真も有ります。

平成17年の中津城の桜。

写真は黒瀬 戦一さんから提供いただいたものです。

平成18年 中津祇園

平成19年中津祇園

中津市の観光案内は中津市のホームページをご覧ください

Geocities内 城下町中津(分室)。

中津の祭り

中津祇園 平成18年 (京町 古魚町 公園地 福沢通り
中津祇園 (平成14年)
宇佐神宮 勅使祭と呉橋
古要神社 古要舞いと神相撲

北原人形芝居
(平成17年2月6日)

鎌倉時代から続く人形芝居です。
約700年の歴史を持つ中津市北原の県指定無形民俗文化財の万年願「北原(きたばる)人形芝居」が2月6日、原田神社であった。

城下町中津の雛祭り (平成17年2月13日)
鶴市神社 花傘鉾祭り(平成17年8月)
中津市耶馬溪町 雲八幡 かっぱ祭り

第1回 中津お城石垣まつり

中津の街並み
空から見た中津市街 吉富町
大分県下 商家案内記・[旧扇城 公園地の景](明治19年発行)
耶馬溪の絵葉書相当古いものです、時代をご存知の方教えてください。
絵葉書で見る古い中津の写真(お願い 古い写真提供ください)
中津高等小学校 中津北高 中津商業の校舎
中津城発掘現場
中津城 城壁修復工事 お囲い山
中津城下町とお囲い山
中津城下町 小倉口と小倉橋 (小犬丸の渡し  広津の渡し)
中津城下町 金谷口と金谷武家屋敷跡 その1
中津城下町 金谷口と金谷武家屋敷跡 その2
中津城下町 島田口
中津城下町 蛎瀬口 大塚口 一番橋 二番橋 三番橋
諸町遺跡発掘
中津市立 南部小学校
中津市立城南(城北)中学
中津南高(旧中津中学 旧中津一高 旧中津西高)
中津北高(旧中津高女 旧中津一高 旧中津西高
扇城高校(現東九州龍谷高校)
中津歴史民俗資料館
城井(きい)神社  扇城神社
大江八幡宮

宝蓮坊 (中津市寺町)
深泉寺(三光 深水) 枝垂桜が奇麗です。

赤壁 (合元寺)
自性寺(藩主奥平家の菩提寺 池大雅の画でも有名)
中津市学校と生田門
山国橋(国道橋)
耶馬溪線写真集 (麻川 尚良氏撮影 原本の頒布もしています、1,000円+送料)
平成17年耶馬溪旅行
中津和傘 和傘工房(朱夏) サラリーマン卒業生が始めた郷土の伝統技術復活。
平成15〜16年の行事

中津藩 大阪蔵屋敷跡 (福沢諭吉生誕地)
東京品川 清光院 中津藩 奥平家墓地
中津カトリック教会キリスト教団中津教会
新魚町神輿 (旧祇園車)

中津近郊
玖珠町 竜門の滝

宇佐市四日市 桜岡天満宮 秋祭り
居酒屋 あぜみち(豊前市)


中津関連リンク集



城下町中津 観光案内看板(2ノ丁に設置)


県道108号は昔の国道10号線です。
山国川に架かる橋は通称国道橋、正式には山国橋です。


中津城天守閣遠景 手前は中津市立南部小学校。




中津市立南部小学校 生田門


復元された南部小学校正門(生田門 しょうだもん)
自分が入学した昭和19年は南部国民学校だった。
元々は中津藩 家老の生田家の武家屋敷門。
今回は西側に移設されたが、元々は敷地の北側中央にあった。
(下の白黒写真をご覧ください)
福沢 諭吉が「学問のすすめ」でといた中津市学校の正門としても使われた。
中津市学校は西日本一の英語学校(慶応義塾の姉妹校)だったそうだ。
なお下毛郡史によれば、中津中学(現中津南高)の創立(明治26年9月)はこの市学校の跡で行われた。
当時は私立中学。

生田門については南部小学校のホームページをご覧ください。

尋ね人
昭和20年南部国民学校(2年)に在学していた川北さんを捜しています。
消息をご存知の方 管理人までご連絡ください。



昭和38年撮影の生田門。

その後一時ではあるが、道路のこちら側(錬心館の入り口)に引っ越した事がある。


地図情報

昭和35年 中津市三ノ丁 南部小学校前 


昭和35年の南部小学校生田門付近。
右側中津市中央公民館と書かれているところは元中津警察署。
この通りは江戸時代の中津城内 大手門内部。
左側(南部小)の石垣が大手門石垣の一部。
(2の丸は二ノ丁 3の丸は三ノ丁)

なお手前 左側に校舎があるが、これは20年代後半か30年代の建築。
自分が小学生の頃はこの部分は平屋の小使室と宿直室があっただけで、運動場だった。
宿直室で木山先生が鉱石ラジオの作り方講習会を夏休みに開いたのが、
自分のラジオ作りの原点。
大勢の同級生も参加したが、現在まで続けているのは自分だけか?。





昭和22年の大手門石垣。
上の写真の反対側(校庭側)で記念撮影。
後ろの建物は当時の中津警察署。
江戸時代の南部小学校の位置

江戸時代の南部小学校の位置。
家老 生田四郎兵衛邸と隣の奥平図書邸の1部、それに城壁と堀の部分を含む。
校庭の下側に城壁と堀が描かれているが、
自分が通学していた当時 城壁の中央部分が少し、小山状に残っていた。
(少なくとも昭和25年までは存在、29年には無かった)


薄紫色の部分は創立時の城南中学の敷地。

平成16年の三ノ丁 

中津市立南部小学校
生田門は西側に移転され、昔の運動場の位置に校舎が増築されている。

楠が運動場の中央にあり、運動会はとても出来ず、公園地で実施した。
昔の運動場の位置に校舎を建てた。

昔の校舎はほぼ敷地の中央にあり、真ん中が職員室 2階が講堂、両翼に2階建ての教室と言う配置。
講堂の後ろ側から、西側に築山があった。
これは昔の城壁の残骸と思われる。

なを写真の左側の石垣は上の地図の大手門の石垣に相当します。
写真の横断歩道付近 右側に大手門があったようだ。

ついに解体修理が始まりました。
平成16年11月11日。
工事は年内に終了したようです。
結果はこちらをご覧ください。


中津市立南部小学校


昔は校庭の中央に聳え立っていた楠。
校舎の建替えでいつのまにか端っこになってしまった。
戦後すぐは現校庭の中央付近に校舎があつた。
校庭南側から写す。
カメラの位置は戦時中の南部幼稚園の運動場に相当か?。

自分が入学した頃 画面左のあたりに築山があった。
これは昔の扇城の城壁の残骸と思われる。
当然この位置からは楠は見えなかった。

したがって校庭では運動会が出来ず、公園地(中津公園)で行なった。
入学時 築山には藪椿が咲いていたが、今でも忘れられない。
この築山は南部幼稚園の写真をご覧ください。

入学は中津市立南部国民学校で、卒業時は中津市立南部小学校。
一学年4組あり、200名。


明治末期〜大正初期の南部小学校。
昭和20年代末ころまで使われた。
自分が在学した頃は、玄関部分に南部10年連続優勝の石碑があった。
楠が右側に見える、校舎の位置は現在校庭になっている。
現在の校舎は写真右側の位置に建てられている。
中央部分2階は講堂、1階は玄関と職員室。
南部小学校の卒業写真はこの校庭部分で撮影。

拡大写真は中津絵葉書をご覧ください。


昭和25年の卒業写真、男子のみ。
南部小学校のシンボル「楠の下での記念撮影」。
したがってこの2倍の生徒が1学年にいたということ。
当時の生田門を入った付近から撮影。

後ろの校舎は取り払われて無い、現在は校庭。
この写真の後方が現在の生田門の方向に相当する。
(個人情報保護のため画像解像度は極端に落としてあります)

撮影場所には校舎が出来たので、厳密には同じ場所 方向では無い。
恐らく教室の中ほどがカメラの位置に相当すると思われる。


昭和20年前後の南部幼稚園の写真。
左の建物が南部幼稚園、右側が南部小学校(一階が職員室 2階が講堂)
背景の小山は中津城の石垣(城壁)の一部。
左側は掘を埋め立てた土地、右側が城内(生田家老屋敷)になる。

この講堂は当時の生田門正面にあったので、学校の敷地のほぼ中央と思われる。
(個人情報保護のため画像解像度は極端に落としてあります)

この写真は黒瀬さんの弟さんの友人の永吉勝美さんからいただいた物で、撮影時期は厳密には不明です。
自分の物は紛失して行方不明ですが、ほぼ同じ構図の物を持っていた記憶があります。
当時は複数年保育(卒園写真は2枚ある)も可でした、若しかしたら自分が写っているかも?。

追記
中津祇園に帰省し実家を探したら全く同じものが見つかりました。
幼稚園時代のものが2枚あり、こちらでは2列目左端にいるらしい?のに対し、もう1枚は最後列に立っています、
こちらの写真の方が古そうです(1年目の終了時 昭和18年3月頃か)。
当時の南部幼稚園は希望により2年間通えました、1年間の方が多かったと思います。
クラス編成は混合で、1年年長の子供と同じでした。長峰(れい子)さんが同じ組で、良く遊んでくれましたが、
南部国民学校入学後は学年が違うので、お付き合いはありませんが、
今どうしているのでしょう(向野先輩の話によると関東地区にお住まいで、お元気とのこと)。


上記の写真の撮影場所とほぼ同じと思われる位置から。
右端に生田門が見える。
築山(元の城壁)は跡形も無い。

南部小学校運動会


昭和32年10月7日 中津市立南部小学校運動会。
妹が在学していた時代です。
最近は人数が少ないそうだが、この当時は多かった。

恐らく一学年200名を軽く越したでしょう。
手前の生徒の位置は自分が在園した頃の南部幼稚園の園舎の位置と思われます。


平成15年9月28日 中津市立南部小運動会。
黒瀬君から頂いたもの。

平成18年10月3日の運動会の様子。



入学した頃はコンクリートで無かったような気がするが、
二宮尊徳像。

やはりこれも銅像だったそうです。
戦時中に生田門脇の水のみ場の金具などと共に供出されたようだ。


左前方の木造3階建ては旧竹内旅館。

左側歩道は溝の上に蓋をしたもの、
ここから校庭側に堀があったものと思われる。
南部幼稚園の入り口は桜の木付近にあった。
溝には蓋がなかった、カニが沢山いた。
この通りは片端町と言われるように、家は片側にしかなかった。
写真左側が堀、右側が武家屋敷。

南部小学校の敷地は、中津市学校閉校の明治16年から、
南部小学校が明治末に新築されるまでの期間の使途が判りません。
ただ記録では旧中津中学(現中津南高)の創立時(私立)の校舎もこの場所だった、その他については不明。
情報をお持ちの方ご教授ください。

中津城


中津城天守閣

昭和39年に建設。
元々この位置に天守閣があったわけでは無いらしい。


昭和33年の薬研堀。
天守閣建築前の写真。

 
桜の中津城


雪の中津城
平成16年1月22日撮影。
黒瀬君から送ってもらいました。
天守閣が再建される前に就職して上京したので、
実は雪の天守閣を見たことはありません。
帰省するのは春とか夏ですから。




桜の中津城
平成16年4月6日撮影。
黒瀬君から送ってもらいました。
東京は数日前に満開ですから、少し遅いのでしょうか。


この縦方向の道路は江戸時代には無かった。
鳥居の位置に本丸の城壁があり、その手前は内堀。
写真右側は南部小学校。
撮影場所は江戸時代の奥平図書邸跡に相当。
江戸時代の地図参照。

明治初期にはこの交差点の位置に鳥居があったようです。




北側から見た中津城。

桜の二の丸公園(旧中津高女、中津北高跡)
現在の中津北高は中津南高より、さらに南に移転してしまった。

中津南高  中津北高
戦後中津高女と中津中学は合併し中津一高となり、その後中津西高と校名変更した。
旧高女は北校舎 旧中学は南校舎と呼ばれた。
これは位置関係による。
当然入試も一緒だった。

昭和28年中津南と中津北に独立して入試。
丁度自分が中津南に入学した年である。
旧中学に男子が、旧高女に女子が偏ったので翌年からまた一緒に入試をして、抽選で分配した。
10年以上一緒に入試を行ったが、最近は独立して行っている。
旧中津西高の校歌は中津南高が、校章は中津北高が受け継いだ。
北高の校章に色濃く中津中学の校章の面影が残っているのはその為です。
(個人的には校歌には興味が無かったので、校章の方が良いと思ったが)
弟が入学した後、すぐ場所を移転していたので、この地で最後まで学んだのは母だけである。
最近は人数も少ないので、もう一度合併したら良いのでは。


焼失直前の中津南高(昭和36年3月)
ただし焼失したのは北側だけだった。
(写真は南側校舎)


移転前の中津北高(昭和33年)

大正3年頃と思われる新築時の写真は絵葉書で見る古い中津」をご覧ください。


中津城内 三斎池の隣にある
独立自尊の碑。
左側が三斎池で中津御水道の水が引かれていたとの事。
ちなみに現在は水道水。
1620年に開通した。
九州では最初の近代水道と思われる。
(平成13年4月撮影)


明治時代の公園地の景色
独立自尊の碑は元々公園の中央部分に建設され、
昭和7年にこの現在地に移設されました。

この位置の古い写真は中津絵葉書のページをご覧ください。

最近この近くでボーリングして井戸を掘っているようだ。


上京した頃中津近郊出身の歯医者さんが多いので不思議に思っていた。
どうも歯科医師免許1号は中津出身の小幡英之助で、
彼の縁で上京した人が多く、そのまた縁で、
中津出身者が歯科医師になることが多かったのかもしれない。
中津城内の小幡英之助の記念碑。
この地は自分が通学していた頃 創立間もない
中津市立城南中学があった場所でもある。
現在は城の北側に移転してしまった。

中津市立城南中学 旧校舎

昭和35年頃の城南中学跡。
まさに城の南にあった。
(でも厳密には城内と思う)
ただしこの頃はすでに移転した後で、校舎の1部のみ残っている。
手前にも昔の石垣を壊した跡に校舎があった。
ほぼ同じ方向を撮影したのが、下記の天皇陛下巡幸時の写真です。
平成14年復元の為、現場調査中。
中津市立城南中学のホームページもご覧ください。

中津市立城南中学は4月1日で城北中学に校名変更されました。

現在石垣の復元工事が行われています。
ほぼ60年ぶりに元の姿になるでしょう。
なお写真の校舎は城南中学になる前は「中津青年学校」でした。

地図情報

向野 一先輩からから城南中学についてメールをいただきました。
城南中学創立時のエピソードです、下記に転載させていただきます。
向野さんは、自分が子供の頃にラジオに興味を持たせてくれたこの道の大先輩の一人です(2002年12月20日)。

「城南中学(正確には城の中)」とあるのが目にとまりました。確かに、本丸石垣上と内堀上なら城内です。
五中から新しい校名にする時点では、旧青年学校舎と武徳殿のみでしたから、本丸≒城として、その南としました。
それと、母体は何と言っても南部小学校ですから、校章も「中」を乗っけただけです。
当時は、先生方の間で校名について喧々諤々でしたが、旧藩士の名誉?にかけてもと、強引に押し切ったのです。
内尾さんの指摘を見て、一瞬こりゃ「城内中学」の方だったかな、と思ったものです。

なお向野先輩(一回生)の話しでは 最初は中津第五中学と呼ばれていて、1年目の授業は当時の中津西高の校舎に間借りして行い、その後青年学校の校舎に移転した。
移転当時は第二中学(北部小出身者)と同じ校舎を二部授業で共同で使ったそうです。

自分は四回生で昭和25年に入学した時はすでに城南中学でした。
入学時は昭和24年6月 昭和天皇巡幸時の写真の校舎しかありませんでした。
下の写真の左側の校舎は石垣を壊して、建てたものです、卒業までには出来上がりました。
石垣の石は前の堀に捨てました、手伝った記憶が在るので、知らない事とは言え文化財の破壊に手を貸した事になります。
その後 これが問題になり、小祝移転のきっかけになったのだと思います。
現在は城北中学と名称変更し、南部 北部の両小学校の卒業生が通う中学になったのも不思議な縁といえましょう。


卒業当時の校門と校舎それに校長先生。
左側の校舎は上の写真では取り壊されて無い。
卒業写真から。
右側の校舎は上の写真の校舎と同一。

校庭は江戸時代の本丸 内堀、校舎は石垣の位置と思われる。
江戸時代の地図参照。



城下町中津城南(北)中学
中津市立城南中学は平成16年4月1日で城北中学に校名変更されました。
これは通学区域が変更になり南部 北部の両小学校の卒業が進学する事になった為です。
我々が通学した頃は一学年200人以上在籍していたのですが、最近は10分の1くらいに減少していたので仕方ありません。
本当に城の南にあったのは10年未満ですから、4月から名実ともに城北中学になります。
発展を祈ります。

中津南と北も校名と位置が逆なのですが、こちらは変更無しでしょう。

現在の城南中学。
平成16年5月撮影。
16年4月1日で城北中学に名称変更しました。

地図情報


昭和24年6月 昭和天皇が中津に巡幸に来られた時の写真。
今永さん編集の写真集 「中津」から。
当時は鳥居の左側にも石垣(写真後方)が残っていた。
この部分を破壊して、校舎を増築した。
入学した頃、この石垣を壊して、堀に捨てる手伝いをした記憶があるが、でも定かではない。
鳥居西側(写真では右)の堀を戦後埋めたのは確か。

地図情報


創立時の旧城南中学の跡地も発掘調査が進んでいます。
黒田時代の石垣も発掘されたそうです。
黒瀬君からの写真です。
中央青いシートの部分が校庭で左側に校舎がありました。
上の写真とほほ同じ方向、校門前の位置あたりで撮影。


平成16年4月撮影。


中津城石垣修理の模様は画像をクリックしてください。

地図情報

平成16年10月9日(土曜日)に行われた中津城シンポジウムに参加しました。
黒瀬君など同級生と一緒で、有意義で なかなか楽しかったです。
中津城も近世の城で遺構が残っているものでは九州最古と言うことです。
中央 女性職員はなかなか明確な説明で分かり易かった。


中津市歴史民俗資料館

最近まで中津市立小幡記念図書館だった。
建物も資料館にふさわしい、是非見学を。
まっすぐ行くと中津城、右に行くと中津駅。


小幡篤次郎が実家と蔵書を寄付して中津に図書館を作った。
小幡記念図書館である。
現在は 元の市役所の位置に移転した。

地図情報


現 中津市立小幡記念図書館。
元の中津市役所の位置に移転。
江戸時代は藩校 進脩館が有った位置になる。

明治時代に中津高等小学校の敷地となり、その校舎は現中津北高、
さらに中津商業の夫々の創立時の校舎として使われた。
中津高等小学校の校舎の写真もご覧ください。


地図情報



旧中津市役所と公会堂(手前の建物)。
昭和37年5月撮影。

道路近くの左隅にある小さな石碑は当時の中津市道路基標です。

現在の中津市役所

昔、この場所には鐘紡の工場がありましたが、付近は寂しいところでした。
母の実家が駅よりのすぐ近くでしたので、子供の頃は毎日のように遊びに行きました。
近くは田んぼや野原が広がり、小川も流れていて、水遊びが出来ました。
勿論蛍もいました。
昭和30年代に区画整理が行われ、昔の面影は全くありません。

この写真は今永さんの写真集「中津」から。

明治23年秋竣工の中津町役場が昭和4年4月中津市役所となった。
(郡役場も市役所として使われた)
三ノ丁にあったという記録からして、創立時の城南中学の敷地と思われる。
江戸時代の地図の薄紫色の敷地のうち御蔵と書かれた部分に相当。
大正10年版の地図も参照ください。

南部小学校の生田門はこの斜め前。

正面の石柱の位置から撮影したのがこの写真
自分の中学生時代にこの石柱が残っていたような記憶もあるが定かではない。

地図情報


市役所が片端町に統合され、その建物跡に武徳殿(錬心館)が昭和16年に出来る。
その建物は創立期の城南中学の講堂や教室として利用した。
建築後60年以上も経っているが、手入れが良いのか素晴らしい。

生田門も解体前 一時この位置に引っ越してきた。

中津の古い地図も参考にしてください。

写真は平成17年7月24日撮影。
上の写真とほぼ同じ位置と想像される。

場所は上と全く同じです。

村上医家史料館



江戸時代から続く医院を博物館にしたもの。
昔の医院の内部がよく残されている。
幼児期から小学生時代 さんざんお世話になりました。
見学すると半世紀以上タイムスリップした気持ちになります。
内部の変更はほとんどありません。
裏庭には高野長英が1月ほど隠れ住んだという土蔵があります。
村上医家史料館についてはここにも記載があります。

現在の村上記念病院

旧国道(10号線)、最近拡幅されて奇麗になった。
写真の奥が山国橋
隣の福岡県までは数百メートル。

中津の街並みはこちらもご覧ください 

中津寺町  宝蓮坊

お寺さんがたくさんあります。
写真は大家根改修直前の宝蓮坊(12年)。

寺町は城下町の外郭に位置します。
寺の裏は外掘り(現在は細い川 下の写真参照)です。

宝蓮坊についてはこちらにも写真があります。


地図情報


細い川は中津城の外堀跡。
左は宝蓮坊、堀の大部分は埋め立てられて、飲食店街(右側)に変身している。
これらの建物が出来たのは昭和20年代中頃?。

写真左側は江戸時代にはお囲い山があったはずで、当然この橋も無かった。

寺町合元寺 


通称 赤壁と言われる合元寺
正面後方仮屋根は修復工事中の宝蓮坊。
13年4月撮影

最近のこちらをご覧ください。
平成17年2月撮影の写真があります。。
道路も綺麗に整備されました。

金谷武家屋敷跡


中津藩の武家屋敷は家老クラスの上級士族は城の近くにあり、
下級士族の屋敷地は上の金谷(南側)、下辺(北の海側)に有った。
共に道路幅は二間(3.6m)程度で、狭いです。

下辺の代表的な屋敷は福沢旧居です。

写真は金谷武家屋敷跡。
道路突き当たりは水島公園
神戸高商(現神戸大学)の創設者の水島 銕也の屋敷跡を公園に。

この他郊外には麗澤大学の創立者の広池千九郎の生誕地もある。

地図情報


下級士族の屋敷があったところで、上級士族の屋敷地 三ノ丁に比べ道は狭い。
道幅は二間(3.6m)程度。

上記場所より、更に水島公園に近づいたところ。

昔は土の壁だったが、最近は壊れて残ったものが少ない。

福沢通り

戦後比較的早い時期に拡幅された。
強制疎開は悪いこと、先の見通しのなさの結果だが、
唯一の効用は道路が広くなったことか。
戦前の道路は3間(5.4m)道路と思われる(倍以上に拡幅)。
(戦前の道路の入り口は下の古い写真を参照)


なお江戸時代の地図によるとこの部分に道路(古魚町1丁目)は無かったようです。

宇佐屋の辻


拡幅された旧国道筋
古魚町(と枝町)から国道橋(山国橋)方向を望む。
戦前は右側に宇佐屋(米穀 肥料商)があった。
戦後「はだか随筆」で有名だった元一橋大学教授の佐藤 弘人さんの実家。
宇佐屋の辻と呼ばれたらしい。
元は大同館という旅館を購入したらしく、
物凄く大きな家だった(写真下参照)。
現在は福岡銀行の支店。

写真手前の部分は部分は新博多町の通りに比べ微妙に低いです。
現地で見ても分からないくらいですが、子供の頃洪水があり、
車の位置から手前側が水没した記憶があります。

地図情報


参考写真
元 小幡記念図書館館長の今永さん編集の写真集「中津」より
上とほぼ同じ角度で撮影。
大正末期の撮影との事。
中津市になる直前で、写真のすぐ後方は豊田町(本町)になる。
写真中央の右側へ曲がる道路(当時道幅3間くらい)が現在の福沢通り。
中央の大きな家が宇佐屋。
強制疎開の直前、探検に行ったが、迷子になるくらい沢山の部屋があった。
この家屋の部分はほとんど現在福沢通りになっている。
幼児の頃この左側の位置にレンガ作りの豊前銀行(現大分銀行)があった。
写真の右側は終戦直前とほぼ同じと記憶している。
宇佐屋の後方の位置に当時住んでいました。
写真の右側部分は自分が住んでいた家を含め、
終戦直前の強制疎開で家屋がすべて取り壊された。
(この写真の著作権は自分の物ではありません)

写真左側に写っている建物は豊前銀行本店と思われます。
レンガ造りのしゃれた建物でした。
昭和20年の強制疎開で取り壊されました。
なお豊前銀行は大正2年4月発足、昭和18年12月27日大分合同銀行に合併されています。
したがってこの名前は自分の幼児期の時代です。


大分合同新聞の「写真で見る大分県の100年」で60年ぶりに懐かしい姿を発見しました。
入り口にステップがあり、ここで腰掛けて雨宿りした事が記憶にあります。
通り雨で、たまたま片方は土砂降り、片方は雨の無い状態が明確な切れ目をもって移動してゆくのを目にしました。
幼稚園(2年)入園前の遊び場所で、鮮明に記憶がある数少ない場所です。
室内は天井が高く、中央に道路と平行にカウンターがありました。

福沢 諭吉 旧邸

福沢 諭吉記念館が隣にある。

一見道路が広いように見えるが、ここは広場で、江戸時代は別の屋敷。
道路幅は、狭く人力車が離合出来るくらい。 道幅二間(3.6m)

福沢 諭吉が幼少期に住んだ住居は左側の草地の部分らしい。
ここも通称中津市留守居町000番地だが、行政的には中津市000番地。


福沢 諭吉は中津藩大阪蔵屋敷で生まれました。
蔵屋敷跡の記念碑の写真もどうぞ。


旧居の隣に和傘屋があります。

山国川

上流から見た山国川、左福岡県、右大分県。
右側の岸は、子供の頃、水泳をする人でいっぱいだった。
中津南高は右岸。
昔は山国川はここから市街方向にも流れていたそうだ。
細川藩時代にここに堤防を築いたらしい。
中津町地図を見れば、その痕跡がたどれる。
この写真の右側が中津城の外堀だったので、このあたりを川が流れていたのでしょう。

宇佐神宮



中津から20Kmの宇佐八幡。
八幡様の総本社。

宇佐神宮 参道や菱形の池 大分県立歴史博物館(公式ホームページ)の写真は中津市近郊 宇佐神宮に移転しました。

八面山

子供のころ城下町の中心部 新博多町から良く見えた八面山も 最近ではビルの陰で見えなくなってしまった。
天守閣に登れば、何とか見る事が出来る。
最近では帰省しても見えない事が多い。

中津城天守閣からの八面山

中津市郊外で


八面山を望む。
1950年頃までは市街地中心部の新博多町からも良く見えていた。
最近では高い建物で、邪魔されて旧市内からは見え悪い。
この山は三光村(平成17年3月1日で中津市)にあります。

三光村深水 深泉寺


枝垂桜で有名です。
友人に連れて行ってもらいました。
八面山の近くです。
江戸時代は我が家の菩提寺だったそうです。


中津市 三光のホームページもご覧ください。

平成17年3月1日で中津市になりました。

写真は18年4月黒瀬さん撮影のものに入れ替えました。

詳細はこちらをご覧ください。

地図情報

新博多町 レンガ舗装


江戸時代から繁華な商店街だった新博多町の舗装は戦前のアスファルト レンガの舗装が残っている。
現在は寂しい街だが、明治から大正にかけて、
西の博多か東の中津と言われた時代の中心商店街。
戦時中の強制疎開で、片側(右側)の家が全て取り壊され、戦後完全に復活できないまま取り残された為か、舗装が昔のまま残っている。
この舗装は物心ついたときはあった。
幼児の頃汽車ごっこをした、蝋石で書いた線路の白い線が目に浮かぶ。
今永さん編集の写真集「中津」によると、この舗装は昭和7年竣工。
70年以上使われていたことになる、凄い。

平成17年この舗装は取り除けられた。
 

地図情報

平成17年12月3日
新しい舗装 通称「しゃらの木通り」の完成記念の式典が行われていました。
たまたま帰省した時に撮影。
赤レンガは昭和18年ころ?に壊された元兵庫屋の防火壁。

しかし歴史的なアスファルト舗装を一部でも残して欲しかったですね。
現在住んでいる方でも事実を知らない方が殆どでしょうから仕方ないかも。

空から見た中津

平成13年10月に帰省した時、福岡空港から東京に向う全日空機内で。
まさか中津上空を通過するとは予想していなかったので、慌てて撮影。
上側中央付近が中津市街、旧吉富製薬(現 三菱ウェルファイド)。




空から見た中津旧市内と福岡県吉富町。
平成16年10月11日撮影
 ANA258便 福岡→羽田 15時40分頃

中央やや左が山国川。
中州に見える部分が小祝。
山国川左側は吉冨町。

国土地理院の航空写真もご覧ください。
なかなか楽しいです。

縮小画像

詳細画像は空から見た中津市街 吉富町をご覧ください

最近市町村合併が言われていますが、中津市の両側の市 豊前市 宇佐市まで含めて合併検討をしたら良いと思う。
県境が問題だろうが、築上郡(築城郡 上毛郡) 下毛郡 宇佐郡は元々豊前の国の同じ仲間、
小倉(現北九州市)も同じ豊前国なので、皆で福岡県に引っ越しても良いのでは。
だいたい市内通話(料)が出来る範囲(豊前市など)が県外と言うのはおかしい??。


京町旧国道角

(平成13年10月撮影)
右は旧大江医院。
大江医院など中津の古い建物は日本近代建築館 中津 に写真があります。
なお平成17年2月時点でこの建物は解体されました
なお上記のページで大江医院は建設時代不明となっているが、父の話によると昭和10年代前半の建築らしい。

写真の場所は父親が貸し駐車場にしています。




大江医院の診療室は解体されました。
上の写真の青いシートの部分。
平成17年2月5日撮影。


新博多町交流センター
(旧三津屋)
(平成13年4月撮影)
新博多町と京町の境界に建つ。
入り口部分は京町側。
写真左端の建物を壊した部分が上の写真(駐車場部分)。

勢溜(上勢溜)
軍勢を溜める(集合)場所。

昭和30年頃?まで車の位置に井戸があった。
結構大きな井戸だった。
江戸時代の水道(井戸)跡?と思われます。
なおこの一角は江戸時代 建物は無く、広場(勢溜)です。

水道用の石樋は中津歴史民俗資料館に屋外展示されている。
中津の水道の歴史は細川藩時代(元和6年 1620年)に城中に給水、
市街地への給水は小笠原藩時代(承應元年 1652年)に整備されたとの事。
これは九州最初の水道らしい。
ちなみに九州で早いのは佐賀水道が1623年、鹿児島磯集成館水道が1628年。
江戸では神田上水が1590年、玉川上水が1654年。
若しかしたらこの事を皆さん意識していないように思われる。
もう少し宣伝しても良いのでは。
また同じ井戸と思われるものが新博多町旧国道の角にもあった。
これは20年7月の強制疎開時まで使われた。
(水道の歴史は昭和4年発行の「中津町上水道誌」や、「一目でわかる江戸時代」による)

地図情報

 昭和20年まで健在だった井戸の位置
旧国道10号線 現在拡幅されて道路中央。
(正確な位置は不明)


中津祇園

平成14年の祇園の写真が有ります。



中津市歴史民俗資料館 発行の案内図

城下周辺図の内、右中央に川があるが、これより左側が旧城下町。

 

大正7年と10年の中津町地図(現中津市)

城下町部分は殆ど変わっていません。
戦後すぐ魚町 塩町の通りが拡幅されて福沢通りと名づけられ、この通りが戦前の3倍くらいになったのが大きな違いでしょう。
昭和20年代後半に旧市役所前から旧国道と平行に京町まで道路が作られました。
それに最近 旧国道(歴史民俗資料館の前の道路)が拡幅されています。
なお中津市には城下町らしい名前の町が沢山残っていますが、
どうも通称名で、行政的には旧城下町部分は正式には中津市だけで、町名は無く、番地だけで区別しているようです。
これが戦後、一時流行した地名(住居表示)変更にあわなかった理由でしょうか。
例えば中津市新博多町1丁目0000番地は正式には中津市0000番地。
平成14年の2月まで、インターネット地図サイトmapionなどは中津市で 新博多町 京町 留守居町など入力出来なかったが、
mapionにお願いしたら、快く対応してくれた、感謝。
こんな例が他の町にあるか知りたいですね。
町名は最後の部分をご覧ください。



中津市の旧城下町部分には正式には番地しか無い。
町名は行政的には通称扱いであるらしい。
この掲示板の処が中津市1番地で、旧城下町は一連番号の番地。
例えば 上の地図の中に記載されている如く正式には、
中津市歴史民俗資料館

〒871−0055  大分県中津市1385番地(殿町)
という表示になる。
これが住居表示と言う無味乾燥な町名改正にあわなくてすんだ理由でしょう。
町名は江戸時代初期からそのまま使われていたものが多い。
(京町表示板の初期城下町 町屋 14町)
なお地図に掘が書かれているが、これが外堀に相当、左から一番橋 二番橋 三番橋となる、
現在三番橋は埋め立てられて無い。

城下町の町名は江戸初期からそのまま

中津市の旧城下町地区は江戸初期からの町名が連綿と継続しています。
日本の大部分で由緒ある町名が廃止になった中で珍しい事でしょう。

中津の町は(幅50cm程度の)溝が町の境界になっているようだ。
これは計画的に町を作った、城下町建設時からの名残と思われます。
昔はぴったり家が建っていたので、溝に気がつかなかった。

2ノ丁 3ノ丁 片端町 殿町 諸町 新魚町 外馬場 姫路町 京町 新博多町 古博多町 上博多町 江三竹町 出小屋
塩町 舟町 魚町 枝町 寺町 桜町 北門町 新堀町 鷹匠町 仲間町 水主町 餌差町 留守居町 船場 市場
北稲堀 南稲堀 弓町
(蛎瀬町) 豊後町 下小路 出町 北新地 (角木 角木新町) 北堀川 南堀川  
金谷西堀端 金谷東堀端 古金谷 金谷本町 金谷上ノ丁 金谷森ノ丁 金谷山ノ神 金谷南ノ丁

町名の紹介
中津市のホームページから転載したものです、詳細は原文をご覧ください VOL1 VOL2 ← 新中津市誕生のホームページ更新でリンク切れ

1.二の丁
 中津城の本丸は丸山の地に黒田公によって設置されたもので、巽櫓、乾櫓に囲まれており、本丸内は上段と下段に分かれている。
 上段は藩主の御殿や大奥殿があり、下段は藩政の館や松の御殿、能舞台などがあった。
 また、二の丸は本丸の北側と東側に位置し、御花畑、蓮池、内馬場、観音堂、長福寺などがあった。
 明治3年(1870)の中津城廃城により、この本丸と「二の丸」が、一つになって「二の丁」と呼ばれるようになった。

2.三の丁
 細川公入府と同時に中津城の修築を始めるとともに、本丸の南側に、東は大手門から西は西御門までの土地を開いて三の丸を造った。
以後この三の丸は、城代家老や大身格の上級藩士の屋敷地となった。
明治3年(1870)の中津城廃城により「三の丸」が「三の丁」と呼ばれるようになった。

3.片端町
 中津城下町の武家屋敷町の1町である片端町は、中津城の南側の「中掘り」に面し、東は京町そして西は小倉口に接する、東西約四百米にわたる上級藩士の屋敷町で、
町の北側は「堀」で、上級藩士の屋敷は町の南側だけに並んでいたので、片側だけの町並の町で「片端町」となったと云われている。
なお、慶応年間に、この堀が埋められて現在の町並みになったが、町名はそのままに残っている。

4.殿町
 中津城下町の武家屋敷町の1町である殿町は、中津城の南面に位置し、北側は片端町、南側は諸町の間にあって、
東は新博多町、西は外馬場に接する東西約四百米にわたる上級藩士の屋敷町である。
中津城築城以前、この辺りは「中小路」と呼ばれたことから「中の町」とか、また「侍町」とか云われていたが「大身や供番格」の藩士が住んでいたことから、
自然に「殿町」と呼ばれるようになったと云われている。明治以降藩士の屋敷は商人の手に移り、かっては市街の中心地であった。

5.諸町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である諸町は、中津城の南面に位置し、北側は殿町、南側は新魚町の間にあって、
東は上勢溜、西は広津口に接する、東西約四百米の職人の町。
この町の西側三分の一には藩士の屋敷があったが残りは色々な職業の職人が住んでいたので「諸町」の名があると云われている。
この町は昔から鍛冶屋が多く、明治初年頃は鉄工、染物、それに関連する職人が多かった。

6.新魚町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である新魚町は、中津城の南面に位置し、北側は諸町、南側は外堀りとの中間にあって、
東は上勢溜、西は自性寺と接する東西約四百米の職人の町(但し町の西側には一部藩士の屋敷があった)。
この新魚町は東は島田口、南は金谷口、西は広津口の三ヶ所の木戸口を持つ町であり、中津城南側の防御の第一線の町と考えられる。
従って他藩者を困惑させる目的で町名が付されたのではないかと思われる。
即ち黒田時代から存在していた「魚町」の対照町名として「新魚町」が「町割り令」によって誕生したのではないかと思われる。

7.京町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である京町は、中津城の東面に位置し、西側は中堀りと並び、
東側には新博多町、古博多町、米町と接して、北は姫路町、南は上勢溜に続く、南北約四百米の商人町(一部に藩士の屋敷があった)。
天正15年(1588)黒田入府の折「京町中ノ辻の町屋伊予屋弥右衛門方を本陣とし、同16年1月11日丸山城を着工する」とあるように町名は古くからあったようだ。
「町割り令」で城下町は整備されたが、その時に「ここは京都のように町の中心にしたい」という願いと、また「京都付近からの移住者を象徴して」「京町」と呼ばれるようになったと云われている。
奥平時代には銀札所、町会所、高札所などがあり、大手門に連なる町屋で最重要なところであった。現在の京町1丁目は幕末まで「職人町」と呼ばれていた。

8.姫路町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である姫路町は、中津城の東面に位置し、西側は中掘りと並び、東側は米町と接して、
北は北門通り、南は京町に続く、南北約二百米の職人、商人の町。
天正15年(1588)黒田公中津入府の時、「播州より職人や商人が随従してできた町」で「姫路町」と呼ばれ、黒田時代は城下の町屋の中心であった。

9.新博多町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である新博多町は、中津城の東面に位置し、西側は京町、東側は古魚町と一部外堀りとの間にあって、
北は古博多町、南は上勢溜に接する、南北約二百米の商人町。
細川時代の「町割り令」によって、博多町の上手にあった「十助堀」を埋め立てて造られた町で「博多町」に対して「新博多町」と呼ばれるようになったと云われている。

10.古博多町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である古博多町は、中津城の東面に位置し、西側は京町、東側は古魚町との間にあって、
北は米町、南は新博多町に接する、南北約二百米の商人町。この町は黒田時代に博多の商人が移住し、
店を構えていたので「博多町」と呼ばれていたが、細川時代の「町割り令」で、この町の南側に町やが造られた。
新しい町の名は「新博多町」。従って「博多町」が「古博多町」と呼ばれるようになったと思われる。

11.櫻町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である櫻町は、中津城の東面に位置し、西側に舟町、塩町と、東側の寺町の間にあって、明蓮寺より北へ約200米のびる商人の町。
寺町や特に明蓮寺の門前町の要素の強い桜町は、料理屋や茶屋があって「江戸の岡場所」の様相を呈していたのではないかと推測される。
「櫻町」と呼ばれているのはこのためと考えられる。
また、「櫻町」の北の端から新堀町までの約100米を「柳町」と呼んでいた時代があった。

12.鷹匠町
 中津城南北の外堀の郭内に東西に約300米にのびる中津藩下級藩士の組組織町。かつて、「下辺」と云われていた。
この辺りには、中津藩の職制から付けられた町名が多い。
「鷹匠町」も鷹狩りの「鷹匠」役の職名に由来していると思われる。他にこの鷹匠に関連のある町名で「餌指」「鷹部屋」がある。

13.仲間町
 中津城南東にあって、鷹匠町の北側で東西約200米の中津藩下級藩士の組屋敷町。
かつて「下辺」と云われていた。この辺りには中津藩の職制から付けられた町名が多い。「仲間町」中津藩の仲間役からの町名と思われる。

14.豊後町
 中津城下町の町屋14町の内の1町である豊後町は、中津城の東北に位置し、中津城東側の蛎瀬口から西へ約300米にわたってのびる職人や商人の町。
細川時代「豊後の大友義統が配流され家来が浪人となり、中津のこの地に集まって来たので豊後町」と呼ばれた。ことから、とも云われている。
以後、豊後町は新博多町、古博多町に次いで東の中心地となった。




勢溜の写真 中央の案内板の内容。
見難いが赤い文字で現在地と書かれている。
L字型の広場?。


中津歴史民俗資料館に展示されている、水道石樋。
写真 後ろの建物は昔の商工会議所。





中津歴史民俗資料館に展示してある御水道絵図
勢溜の井戸は下の3つが接近してある内の1つと思われるが詳細不明。

なお実家で昔の勢溜(現在の新博多町)で店をやっていたが、民家に不釣合いな井戸があった。
あるいはこの1つかもしれない。

耶馬溪線について
昔中津駅に着くと「なかつー なかつー 耶馬溪線のりかえー」と語尾を延ばしたアナウンスがあった。
ああ帰ってきたなという感じがしたが、耶馬溪線はすでに無い。
耶馬溪線をご存知の方は多いと思うが、もう一つの耶馬溪鉄道はあまり知られていない。
大正10年の中津町新地図に路線図が掲載されている、地図はここを参照。
なおこの時点では耶馬溪線も守実ではなくて柿坂が終点になっている。





耶馬溪線写真集ができました。
同級生の麻川 尚良さんが撮影したものです。

大正8年の中津町周辺地図(中津市 宇佐市 豊前市)

龍王橋

龍王橋完成。
長い間工事中だった橋が完成した。
平成15年10月16日開通式。
上記「御船寄」の少し海側の位置に架橋。

開通式の写真はこちらをご覧ください。

中津は住みよいところ

ダイハツ車体の移転で、新しく中津市民になった方も多いと思いますが、良いところは。
@魚は美味いし、生活費は安い。
A地震が少ない、関東地区に比べれば格段の相違。
B台風は多いが、被害は意外と少ない。
これは九州山地を縦断して来るため、勢力が弱まるためです。
C雷は関東に比べ少ない。

中津土産

今回はこんなものを買ってきました。
長なすと室屋の御膳醤油(刺身用です)。
下は30cm物指。
焼きナスにすると旨いです。
この他 魚の辻 魚九のテンプラ(蒲鉾を油で揚げたようなもの)。
これらは東京では買えないです。




注 中津のテンプラ 普通のテンプラも勿論あります。
中津のテンプラは「笹蒲鉾を3倍くらいの大きさにして、
さつま揚げのように油で揚げたもの」と理解したら良いでしょう。



大分合同新聞 大分県のニュース

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2002年5月12日
2002年6月14日
2002年6月15日
2002年6月17日
2002年8月7日
2002年8月18日
2002年8月22日
2002年9月4日 宇佐屋の辻 中津南 北などの古い写真を追加。
2002年9月17日中津城 南部小などの古い写真などを追加。
2002年10月1日 中津の歴史へのリンク挿入。
2002年10月25日 記述一部追加訂正
2002年12月20日
2003年4月17日リンク修正
2003年9月28日 南部小学校運動会写真を追加。
2003年10月17日龍王橋追加。
2004年1月13日 城南中学から城北中学に。
2004年1月23日 雪の中津城を追加。
2004年4月1日 南部小と城北(旧城南)中学のリンクを変更。
2004年4月6日 桜の中津城、旧城南中学の発掘現場の写真を追加。
2004年6月25日
2004年7月27日
2004年10月12日
2004年11月4日
2004年11月10日
2004年11月11日
2005年1月15日 写真追加のため一部移転しました。
2005年1月26日
2005年1月27〜29日 南部小学校付近の地図を追加。
2005年2月1日
2005年2月7日北原人形芝居を追加。
2005年2月8日 江戸時代の地図など記載事項の追加。
2005年2月13日 本日行われた雛まつりパレードの写真を追加。
2005年2月15日 赤壁寺(合元寺)の新しい写真を追加。
2005年2月19日 写真などを追加すると共に、説明の順序を変更しました。「町名の紹介」を中津市のホームページから一部転載しました。
2005年3月1日
2005年4月10〜11日 中津城の桜、耶馬溪の古い絵葉書を追加。
2005年6月11日 25年の卒業写真(男子のみ)を追加。
2005年6月22日 南部幼稚園 園児の写真と説明を追加。
2005年6月28日 昭和初期(4年頃)の南部尋常小学校の写真(絵葉書)を追加。
2005年7月3日 大正7年版の中津町地図を追加、さらに大正10年発行の中津町地図の差し替え。
2005年7月4日 城下町中津を更新しました。また絵葉書で見る古い中津の写真中津高等小学校?の校舎写真 などを追加。
2005年7月14日 中津町役場の写真などを追加、リンクを修正 追加。
2005年7月18日
2005年7月25日
2005年7月27日
2005年8月5日  昭和22年の写真を追加。
2005年8月18日
2005年8月31日 分室に鶴市神社花傘鉾祭りを追加。
2005年9月2日  リンクなどを追加。
2005年9月5日 大江八幡宮 城井神社を追加。 
2005年9月30日
2005年10月6日 宇佐神宮勅使祭の写真を追加。
2005年10月14日 古要神社 古要舞いと神相撲 を追加。
2005年11月7日
2005年11月27日 耶馬溪に行ってきました
2005年12月3日 新博多町の新舗装と航空写真(17年12月3日撮影)を追加。
2005年12月4日 空から見た中津市街 吉富町を分室に移転。中津市街の拡大写真を掲載しました。
2005年12月21日 石垣の復元とお囲い山 を更新。
2005年12月27日 扇城高校を独立させた
2006年1月5日 中津城下町とお囲い山を追加。
2006年1月28日 中津城下町とお囲い山を更新。
2006年2月13日 中津城下町 金谷武家屋敷跡その1 その2を更新、 島田口」を追加。
2006年4月4日 三光 深泉寺を追加。
2006年5月19日
2006年5月27日 中津カトリック教会 新魚町神輿 を追加。
2006年6月1日  日本キリスト教団中津教会を追加。
2006年8月1日 平成18年中津祇園を追加開始。
2006年8月16日 中津歴史民俗資料館の展示品の写真を多数追加。
2006年8月19日
2006年8月21日 「livedoorによる地図情報」をリンク
2006年8月28日 玖珠町 竜門の滝 を追加。
2006年9月6日 中津祇園に写真を追加。
2006年9月23日 城南中学のページ 宇佐市四日市桜岡天満宮の秋祭りを作成。
2006年10月3日 南部小学校の18年度運動会の写真を追加。
2006年11月13日居酒屋 あぜみちを追加。
2007年4月7日 観光看板の画像を追加。

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新博多町


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