Atelier 公演
埃を払い、天井を剥がし、床をはり、壁を塗り、自分で作った劇場・・・。その空間に拘り、空間と遊び、私にとっては”劇”そのものだったとも言える、風貌劇場が解体され・・・、あの時こそ芝居を止めてしまう絶好の機会だったのだろう…、だが踏み止まった。それは多分、さらに根源的な遊び、”集団”へのこだわりを捨て切れなかったから。
アトリエ実験公演は表現である以上に集団化への試みだった、それは、ドロドロとした人間関係を忌みするこの時代にあって、そのことそのものが極めて根源的な演劇表現であると信じるから・・・。
「曽根崎心中」
アトリエ実験公演 Vol.1「曽根崎心中」チラシより
約2ヶ月前、私を含めて全員が初めて三味線を持った。「弦が切れた。」と言うと「糸です。」と諭され、「バチ」は「語尾上げ!」と怒られる。いや、実は、私達の三味線の最初の師匠は、民謡の藤本秀更志さんで、近松を演るために作曲を頼んだのは、私の友人である新内の鶴賀喜代寿郎、バチの持ち方、棹の高さ、つまりは構え方がことごとく違う。そして鶴賀は「和物は構えです。」と言い放つ。三味線を弾くのに、そんな違いがあることすらも知らなかった。そんな私達が近松を演る。
出演者の何人かはこれまで足袋をはいた経験が無い。男達にいたっては全員、浴衣すら来たことがなかった。私達は確実に和服を、所作を、七五調などの言葉を、つまりは”日本的文化”を失おうとしている。それは歴史的必然かもしれないが、感性のルーツを、自己存在の意味を探ろうという「演劇」を志向し、ここからはじめようとする我々の避けて通れぬ問題だろう。
自分一人の極小の現実と、情報としての”現在”をしか持ちえない今日。歴史に連なる己の視点を持たぬ限り、300年前も、100万年前のマンモスの時代も、同じ大昔。だが300年と言う時間は、人生50年と数えてもわずか6代、それほど遠い世界ではないはずだ。
アトリエの”こけら”を落とすのか”奈落”へ落ちるのか、どちらにしても落ちることには違いあるまい。ここを拠点に新たな集団を、劇団を紡ぐことができるのか。私達の初めの一歩は深淵の崖っぷち、踏み出したその足が、踏むべきあだしヶ原の道を失い、暗闇へまっさかさま。なごりを惜しむ暇もない。
身体も感性もあの時代とは、きっと大きく異なってしまった私達の、ここから始まる「曽根崎心中」さて…。