1996 ゴドーを待ちながら

キャスト スタッフ
エストラゴン 柿崎 勝行 演出 嶋崎 靖
ウラジミール 小池純一郎 照明 村上 智子
ラッキー 楠 良命 音響 斎藤美佐男
ポッツオ 神原 哲
男の子 田中 晶

 (略)
 第2次世界大戦の戦勝に沸くパリで、レジスタンスにも加わっていたベケットは、いったい何を待っていたのか?新しい世界の到来とその理念をなのか?つぎつぎに暴かれていくナチの残虐行為とその結果としての友人達の悲報をなのか?あるいはその苦しみからの救いをなのか?この問いを繰り返すたび思い出すのは,疲れきった二人の老人が身を寄せ合うように蹲る、あの有名な写真です。私はこの本を”微かな希望”として読み返しましたが、あの老人たちの虚ろな視線は、そんな無邪気な解釈をも冷たく跳ね返してしまいます。解釈を拒むこの劇を「存在の劇」と解説された方がいます。それはあの一枚の写真によっても明らかです。そしてベケット以降「意味を越える存在」というのはすでに演劇の常識になったともいえるでしょう。しかし一方「存在の劇」が活字として世界に伝えられ受け入れられていく、この皮肉。これは演劇の持つ宿命かも知れませんが、私たちの想像力はこの宿命の壁を乗り越えられるのでしょうか?
 殺戮と暴虐の嵐を耐え、新しい時代を予感させるパリで、あの老人達によって演じられた「ゴドー」とは、どんな芝居であったのか?翻ってこの40年間「平和」であり続けた曖昧な日本、「身体」の喪失が叫ばれ「存在」がますます希薄になりつつある1996年の私たちの”ゴドー待ち”とは?


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