Ho Chi Minh City (Saigon) VIETNAM
12月13日 (土曜日) 晴れ
ツアー最後の公演地、ホーチミンに着いた。領事館富田さんにお出迎え頂く。外交関係は入国審査も別窓口のようだが、我々が審査されている最中でも、次々どこかの国のVIP
らしい人達が、先になる。この辺は官僚国家のイメージだ。
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空港は凄い人出だ |
空港を出ると、大勢の人達が詰め掛けている。勿論U-Stage を持っていたわけではないが、誰か大物スターでも来るのかと言う感じだ。ところがこれが何時ものことで、家族の出迎えなのだそうだ。私が帰国しても家族は出迎えてくれないだろうな…。羨ましいような、寂しいような…。その分お土産も大変なのだろうが…。
荷物も無事。領事館の山本さん、ミューさんと一緒に現場下見。劇場の1階壁の無いフロアー部分と言う感じで、天井が低いが中々いい。舞台から音響から、後は全て当日の打ち合わせで、と言うのが本当に大丈夫か心配だが、ま、なるようになる。大太鼓も通関で手間取っているとか…。土・日は駄目なので、やはり月曜日。何時だって、何処でだってU-Stage
の旅は綱渡りだ。
ホテル近くのレストランで昼飯をご馳走になりながら、打ち合わせ。レストランで食事なんて何時以来だろう…?
富田さんが空港で言われた「交流会をご希望なので・・・。」が気になる。”私の希望…?”
それは違う。主体はあくまでも在外公館にある。私はJapan ASEAN 交流年の趣旨にそって、幾つかの可能な提案をさせて頂いたに過ぎない。もし仮に私に主体があるならば、ホテル料金を4分の1のところにして滞在日数を延ばし、学校などへのこまめなワークショップを増やしたいところだ。
急遽、やはり交流事業の一環として本日開催される「日越歌合戦」の会場前で公演の宣伝をすることに。
とにかく眠い。ホテルで仮眠を取る。
ウトウトして危うく寝過ごし、約束時間に遅れるところだった。
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歌合戦会場前にて | お洒落な若い女性達 | チラシを渡す魔人 |
「歌合戦」会場の青年文化会館前で10分ほど。100人くらいの人垣は出来た。ただ言葉が出来ないので宣伝が難しい。チラシは配ったが…。
ベトナムはいい。人が明るい。
14日 (日曜日) 晴れ
一日フリー。インターネットに繋ごうと色々試みるが駄目。ついにAOL は繋がらない。
戦争証跡博物館に行く。 重たい。頭痛がしてきた。宇宙ロケットやロボットなどのエンジニアに成りたいと言う淡い夢は、ベトナム戦争を知ることによって砕かれた。それから…。私の夢や生き方に決定的な影響を与えた、アポロ・ベトナム戦争・ポルポトの虐殺…。イラクに自衛隊が派遣される、と言う今この時にサイゴンに居る重みを改めて考える。
余りの重たさに、他へ回ることを諦めホテルへ戻る。と、サダム・フセインが捕まったニュースが流れて来た。
「今日はイラクと世界の人々にとって喜ばしい日だ。」と言う。歴史的な日だと…。
そうなのだろう、きっと。彼は、極悪非道で数々の残虐行為の首謀者で、他国を侵略し、多くの人々を苦しめたのだろう、多分それは間違い無いのだろう。だが、大量破壊兵器は何処へ行ったのだ?戦争を起こし、フセインに決定的な敗北を味わせなければ、イラクは、世界はもっと酷いことに本当になっていたのだろうか?ピンポイントと言われるミサイルや爆弾によって、どれだけの幼い命が奪われ、悲劇が産み出されたのだろう?それらに比べて尚、戦争を起こした正当性を主張できる根拠は何処にあるのだろう?だいたいサダム・フセインは何故それほど強大な権力を持つことが出来たのか?バース党を利用し、育てたのは誰だ?武器を渡したのは誰だ?
ベトナム戦争の過ちは本当に省みられたのだろうか?東京大空襲も原爆も、「正しいことだった。」と全面肯定する、倫理観・世界観からどれだけ進歩したのだろう?
大2次世界大戦の日本の侵した過ちは、アメリカに弓弾いたことでは無い。西欧列強と一緒になってアジアの同朋を苦しめたことだ。そもそも明治維新以降、近代国家成立を急ぐあまり、”無批判”に西洋化を進めたことが根本だと考える。それが植民地主義へ繋がったのは必然だ。私は、人間として、個としての主体、国としての主体を”批評的”に持つことこそ必要なことだと思う。狭くなってしまった地球で”文化を大切に生きる”ためには、それ以外あり得ないだろう。
しかし、ベトナム戦争に荷担したことを日本人はどのように反省したのだろう?大量破壊兵器により、民間人を虐殺された日本人として、ブッシュのアメリカにせめて「広島・長崎・東京」を問うてから、道行を決めるべきだろう。今ほど世界観・歴史観を明確にしなければならない時代は無い。何故ならある特定の価値観の思惑によって国家や民族さえ作られたり、消滅させられたりしてしまうことが可能な時代になってしまったのだから。
15日 (月曜日) 晴れ
AOL が繋がらないのでホテルの専用プロバイダーを使う。メールのやり取りが難しい。
9:00 ホテル発、現場へ。音響が用意を始めているが、舞台はまだだ。舞台脇で横断幕を描いている。当日に?!
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横断幕を描いていた | 練習をするニューさん | 太鼓を叩くと天井から… |
舞台の段差などこのままではどうにもならないが、一向に作業にかからないので、自分達で舞台を並べ替える。
音響チェック、ここは今までの会場の中でもかなり音が響く。鞘抜十一も満足顔。彼は昨日の休みを利用して、ベトナム語の曲を歌えるようになった。凄い!会場スタッフも大喜びだ。今夜の盛り上がりは間違い無い。
太鼓のリハをすると、ガラスがビリビリ響き、天井からはゴミが降ってくる。
1時過ぎに一旦ホテルへ引き上げる。昨日見つけた安くて美味しい店に。
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横断幕は出来あがった | 客よせに太鼓を | 他にも看板が |
18時過ぎから客よせに太鼓を。劇場はちょうどアメリカ大使館の前。平和への願いを込めて、思いっきり叩いた。
19時、楽屋は2階にある劇場のものを使用している。そこから劇場客席を迂回するように通路を通り、正面玄関上のバルコニーに出る。そこがスタートだ。ところが劇場で何か催しがあるせいか、2〜30人のお客さんが既にバルコニーにいる。七福神で出ると、当然興味津々だ。劇場の催しを見ようとして来たらしいのに、そのまま1階の我々の客席の方に来た方も何人かいる。15分押して始める。
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満席の客席 | 七福神で登場 | kaja 可愛い女の子と |
客席は500くらいのイスを並べたが、ほぼ満席状態。いきなり大盛り上がりだ。
ニューさんに通訳をお願いした口上も、反応が凄い。立ち見客が出だした。
鞘抜十一、ベトナム語の語りと歌にお客さんは大喜び。皆一緒に歌っている。大成功だ!
立ち見客のために、イスを補充する。
Kaja 言うまでも無い。小さな子供から大人まで、大笑い。爆笑の渦に飲みこまれる。
太鼓、説明が日本語と英語、それにニューさんの通訳とかなり長くなるが、大丈夫だ。
終演。大きな拍手。良かった。
16日 (火曜日) 曇り
午前中は夫々サイゴンを楽しむ。どうもベトナム人はサイゴンと呼ぶことの方が好きなようだ…。
私はとにかくローカルな人達と出会いたいと思い、客引きをするバイクタクシーの誘いに乗ることに。軍艦を見たいと言うと、直ぐ近くの貨物船ばかりの港に連れて行かれた。ベトナム戦争の頃にはここにアメリカの軍艦が浮かんでいたのだろうか、その風景を想像してみる。彼の判り難い英語だと、この港から沢山の人が逃げ出したんだ、と言うのだが…?
バラックの立ち並ぶサイゴン川を渡ると、市内とは全く違った景色が見えてくる。次にベトナムに来られる機会があったら是非ゆっくり歩いてみたいが、今回は眺めるだけで我慢しよう。約束通り一時間のローカル観光でホテルに戻る。
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貨物船の港 | バラックの立ち並ぶ川 | アオザイを来てバイクで |
17時。会場入り。客席を増やしてある。800はあるのではないだろうか。
今日の新聞2紙に昨夜の公演記事が載ったらしい。「見逃したら損だ。」とまで書いてあると…、本当なら嬉しいけど。
開演前にチンドンを軽く、客寄せに。あまり効果は無いように思えるが、とりあえず客の出足は快調だ。
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開演前の客よせ | 花束が届いた | 子供達が物珍しげに |
このツアー最後の公演。感無量だ。 やはり15分押して開演。七福神で登場すると、ずっと手拍子だ。明らかに人数も多い。既に800人は超えているだろう。曲にも口上にも反応が凄い。
鞘抜 踊り指導にも、歌にも、一段と磨きがかかった。完璧に客を捕まえている。
Kaja 子供が立上って喜んでいる。お母さんも大喜び。客席は沸きに沸いた。
太鼓、説明を入れながら…、あっと言う間に時間が過ぎる。拍手・歓声、この旅一番ではないか?会場内が沸騰している。一体どれくらいの観客数か見当がつかない。
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どれくらいの客数だろう? | 津軽から入って… | オカメ・ヒョットコ |
是非また来て欲しいと言う声を何人もから聞いた。大成功と言えるだろう。この場所は僕らの公演にピッタリだ。感動を分かち合う、これも交流だ。
17日 (水曜日) 曇り
いよいよ最後の日だ。今日は孤児院で「交流会」と言われているが、ここまで「交流会」についての目的や方向性について何の説明も無い。学校見学と孤児達の演目を見ること、その後に何かやってくれ、それで2時間、これだけだ。どうなるのか皆目見当がつかない。私が交流基金に提言した「ワークショップなどの、本質的な交流」に繋がるのだろうか?
15時にホテルを出発。細い路地を入って、孤児院に着く。孤児院と言われたが、もう少し正確には孤児達のための学校のようだ。午前中授業をして午後働く組と、その反対、それに昼間働いて夜授業と言う組があると説明を受ける。
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授業風景 | 副校長ホーンさんと | パソコン・ルーム |
まるで”お偉いさん”の視察のようで、あまり楽しくは無い。ただパソコン・ルームなど、日本企業の援助によって作られているようなので、日本領事館=外務省をバックにした私達が孤児院に行くことが、それだけでも意味を持つのだろう。
となれば僕らはとにかく彼らの演技を見て、時間内で僕らのやれることをやるしかない。
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自転車乗りの演技 | 歌と踊り | 丸太乗り |
歌や踊りは、学芸会に近いが、自転車乗りや丸太乗りは、サーカスのようで凄い。まだまだ完成された芸とは言えないが、一生懸命に見せてくれた。将来、職業にして行く決意なのだろうか?
「後2曲で終わりますので、お願いします。」と言われ、構成を皆に連絡する。チンドン衣装は用意しているが、着替えの時間は無い。口上から始め三味線にと通常公演の流れを考えたが、鞘抜が反対する。どうも衣装を着替えないなどの中途半端さが許せないらしい。ならばここは譲って、U-Stage公演と言う枠にならないよう、全員並んで挨拶からに。
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まずは挨拶 | 子供を回りに集めて | Kaja はマイペース |
三味線、マイクを使えないこともあり、子供を自分の回りに集める。演奏はし難いだろうが、上手い演出だ。
最後に太鼓を演奏するつもりだったが、Kaja の演技の間に着替えてチンドンをすることに変更。
子供達とワークショップをしたり、遊んだり、交流の質を深めたかったが、残念ながら中途半端な公演になってしまった。
一旦ホテルに戻り、領事館主催の打ち上げ。
飛行機の時間を待ってラウンジにいると、カキ達が日本人に話しかけられている。テレビで我々の公演が放映され、素晴らしい評価が流されたようだ。「是非見たかった。」と残念がっておられた。
さらに、ANA の飛行機を降りるとき、U-Stage Tシャツを着ていたKaja がスチワーデスに話しかけられる。「大好評だったようですね。」 うーん、本当に評判は広がっているようだ。