最終更新日:2004年03月31日

○ 更新履歴 ○

○ 中文(簡体字)簡介 ○

○ お問い合わせ ○


 中国帰還者連絡会とは?
 中帰連関連文献集
  バックナンバー
 
定期購読はこちら
 季刊『中帰連』の発刊趣旨

 戦場で何をしたのか
 戦犯管理所で何があったのか 
 お知らせ・活動紹介
 証言集会を開催します
 受け継ぐ会へ入会はこちら
 受け継ぐMLへのご登録

 


表紙 > 中国帰還者連絡会の人びと

 

中国帰還者連絡会の人びと(下)

 南京事件と三光作戦・許されざる罪−永富博道さんの場合−

星 徹


中国帰還者連絡会の人びと(上)

中国帰還者連絡会の人びと(下)


■このルポは、『週刊金曜日』第305号(2000年3月3日)に掲載されたものです(若干の修正をしました)。


 東京都杉並区の老人保健施設の一室で、永富博道(本名は浩喜・84歳)はベッドの端に腰掛けている。その中央には、妻のミツノ(76歳)が横たわる。永富は脳梗塞で二度倒れ、歩くのもやっとだ。そして妻は脳梗塞と同時に糖尿病を患い、白内障でほとんど目が見えない。

 「妻は、私が中国でやったことを人に話すのを嫌がるのです」
 永富はそう言いながら、妻の体を気づかう。

 昨年12月、永富は久しぶりに自らの戦争体験の講演をした。車椅子に乗り、合掌をしながら壇上に現われ、話し始める。

 「南京大虐殺(注1)はなかった、と言う人がいます。しかし私はその時、南京で中国人を殺し、多くの虐殺を見聞きしました。その後も、私は中国でたくさんの民間人を殺しました。自分の罪行を皆さんに話すことが、生かされた私の使命だと思います」

 はるか昔のことを思い出し、遠方を見つめて十数秒ことばが途切れることも何度かある。そして、自らの行為を悔いて、嗚咽する。

<南京で初めて人を殺す>

 永富は、1916年3月に熊本県阿蘇町に生まれた。家では駅前で旅館を経営していた。6人兄弟姉妹の一番上で、小さい頃から体が弱く、父親から徹底したスパルタ教育を受けた。そして「天皇陛下はこの世で一番お偉い方だ」と繰り返し教えられた。

 13歳の頃、日本が侵略・支配する朝鮮の平壌に家族で移り住んだ。旧制中学を卒業した17歳の永富は単身で「内地」東京へと向かい、34年に国士舘専門学校(現・国士舘大学)に入学した。

 国士舘では、「忠君愛国」を一貫して説く同県人の蓑田胸喜教授に師事し、当時の「右翼」を次々と紹介されて人脈を広げた。そして、右翼の大物・頭山満の家に7度かよいつめて門下生となり、軍国主義思想を固めていった。

 37年12月、永富は「愛国学生連盟」の国士舘代表として、他の11校の代表と共に、上海から南京への視察・慰問ツアーに参加した(南京到着は下旬)。列車が南京に近づくにつれて、線路の両側に中国人の死体がだんだんと増えていくことに驚いた。

 ある日、南京難民区(安全区)で日本人将校が中国人数百人に対し、「この中で国民党軍の兵士がいたら、われわれが未払いの給料を払い、職の世話もする」と呼び掛けた。申し出た20人ほどの男性は日本軍のトラックに乗せられ、永富ら学生十数人も同乗した。

 下関で車を降り、アンペラ(むしろ)の囲いの中を中国人らを連行して進むと、そこには何千もの人間の死体がころがっていた。そして、長江(揚子江)のほとりまで出た。

 将校は1人の中国人を前に出させ、永富ら学生に向かい「東京に土産話を持って帰れ」と言って刀を振り下ろし、その中国人の首をはねた。首から上の部分が地面にゴロンと落ち、切り口から血しぶきを吹き上げる胴体が前にドスンと倒れこんだ。

 すぐ後ろにいた中国人はびっくりして走りだし、川に飛び込んだ。永富はとっさに日本兵の短銃を借りて、水面に浮き出た男の頭を撃ち抜いた。頭からは血が流れ、男は流されていった。

 「最初は恐くて震えていたんです。だけど私は国士舘で剣道四段ですからね。臆病なところは見せられないと思い・・・殺してしまったんです」

 そう私に言うと、永富は歯を食いしばり、目をギュッとつぶっている。そして「クー」を息を漏らすと、涙があふれ出てきた。

 残りの中国人も全部その場で殺したのは確かだが、どうやって殺したかはどうしても思い出せない。

<志願して捕虜を刺し殺す>

 永富は38年1月に日本に戻り、またすぐに上海に渡った。その時の気持ちとして、永富は目をつぶり詩を吟じ始めた。
「一葦僅かに西すれば大陸に通ず
   ・・・・・・・・・  
 月は東洋より西洋を照らす
 月は東洋より西洋を照らす」

 天皇陛下をいただく神国日本こそが、アジアをそして世界を支配すべきであり、それに歯向かう中国人を懲らしめることが自らの使命であると思い、中国へと再び渡ったのである。

 大学から卒業試験を受けに帰るようにと通知が来たが、「こんなお国の大切なときに、卒業なんかどうでもいい」と思い、戻らなかった。しかし、文武両道で成績が良かったため、卒業が認められた。

 38年2月から40年末まで、上海・呉江県・安慶の特務機関などで軍属として情報収集や大衆工作を行なった。時には、中国人を縛り上げて棍棒で殴りつけた。

 40年末にいちど熊本に戻り、翌年また中国に渡り、4月頃から3ヵ月ほど山西省の北支那方面軍第37師団第37旅団の機関銃中隊で初年兵教育を受けた。

 訓練の締めくくりは、柱に後ろ手に縛り付けられた2人の中国人への刺突訓練だった。1個中隊の初年兵20人ほどの中で、上官から「永富が一番優秀だ」と常に言われてきた。そういったプライドもあり、志願して一番乗りで中国人の心臓めがけて銃剣で突き刺した。
「その時、どういう気持でしたか?」と私が尋ねると、永富は下を向いたまま、だんだんと息遣いが荒くなっていった。

 「そんなこと・・言えませんよ!とてもとても・・ひどいどころの騒ぎじゃないですよ!」
 そう言いながら滂沱たる涙を流し、頭と共にその前で広げた両手を左右に振って拒絶した。

 「これ以上は勘弁してください。こんな取材はもういやです!」
 永富は歯を食いしばったまま下を向き、目を固く閉じて顔を紅潮させ、頭を小刻みに震わせている。

 私は帰りすがら、永富がなぜあれ程までに感情を爆発させたのかを考え続けた。

<三光作戦を忠実に実行して>

 永富は山西省内で、同第37旅団司令部情報室(42年初め頃〜44年1月頃)、霍県保安大隊4県連合連隊(44年2月頃〜45年1月頃)、第5独立警備隊第27大隊本部情報室(45年1月頃〜日本敗戦)に在籍した。しかしほとんどは、部下を20〜30人引き連れた独立した部隊の部隊長として、山西省内で暴れまわった。

 「上からの命令で、(共産党軍が勢力を持つ「敵性地区」では)中国人を見つけしだい殺してしまえ、と言われていました」

 当時をそう振りかえる。永富は、日本軍が抗日根拠地と見なした地域を組織的に「焼きつくし(焼光)、殺しつくし(殺光)、奪いつくす(掠光)」いわゆる「三光作戦」の忠実な実行者かつ指導者になっていった。

 43年10月、永富隊は山西省沁源県自強村を急襲し、女性と子ども11人を木と土塀でできた家に押し込み、その中に薪と干し草を入れて火をつけ、入り口を大きな石材でふさいだ。

 この時、11人のうち8人が焼け死に、3人が生き残った。この生き残りの1人の女性・党翠娥が、永富逮捕後の56年6月、太原の最高人民法院特別軍事法廷で証言をした。この時の様子は、映像として残されている(注2)。

 女性は号泣しながらも、永富被告を前にして、自らの息子2人・娘1人・姪2人を含む8人が永富ら日本兵によって焼き殺されたことを訴えている。永富は泣きながら土下座して謝りつづける。

 「彼女が話す言葉はすべて分かり、その苦しみがよく理解できました。どんなにお詫びしても死んだ子どもたちは戻ってこないので、本当に申し訳ないという思いでした」

 そう回想して涙ぐむ。

 また同じ頃、小さな村で20歳前後の女性2人を「共産党軍の工作員」の疑いで捕らえた。永富は畑に四角い穴を部下に掘らせ、女2人をここにぶち込んだ。

 「彼女たちが正座をして合掌している上から、私と部下数人とでスコップで土を次々とかぶせていき、生き埋めにしてしまったのです」

 彼女たちは泣き叫ぶこともせず、憎しみの表情を浮かべながら、土の中に埋められていったという。

 聞喜県や絳県ではこの頃、永富隊は常に数人から20人くらいの中国人を抗日容疑者として地下牢に監禁していた。そして、尋問の度にそこから出しては棍棒や鞭で打ちつけ、ある時は赤く焼けた鉄棒で体を焼き、またある時は大量の水を飲ませては腹を踏みつけて吐かせる、といった拷問を続けた。

 「彼らは弱ってしまうので、最後は外に連れ出して、部下に命じて銃などで殺してしまいました」

 永富隊は「三光作戦」として、このように山西省内の「敵性地区」または「準敵性地区」で、集落を襲っては人々を殺しまくった。

 「本当にひどいことをしました」と永富は言うが、彼の罪行はこれらにとどまらず、直接手をくだしたものと部下にやらせたものを合わせると、300人以上の中国人を殺害したという。

 以下、前記裁判で明らかになった永富が関わった罪行の一部を紹介する(すべて山西省内/注3)。

1.43年3月、聞喜県にて。南白石村で住民12人を拷問後に殺害。盖寒村で13人、元凹村で8人、汾村で5人の住民を殺害。界元村で住民32人に刀で切りつけ、29人を殺害。

2.43年2月、聞喜県下峪口村にて。永富自身が槍で住民3人の尻を刺して殺害し、部下も同様の手口で他の5人を殺害。

3.43年3月、聞喜県横水鎮にて。永富が住民1人を拷問後に馬車に縛りつけて引きまわし、最後に部下に銃殺を命じて殺害。

4.43年10月、沁源県正中村にて。十数人の女や子どもなどを殺害。

5.44年10〜11月、霍県にて。朱家庄村と李潤村で、永富自らが住民2人ずつを拷問後に殺害。賈孟村・張望村・壁村のそれぞれで、住民1人ずつを殺害。

6.42年冬、聞喜県小山村で永富が住民男性1人を拷問し、焼いた鉄棒を太股に差し込み、陰茎を焼き落として殺害。

 「大変なことをしてしまいました」
 そう言って永富はうつむく。そしてこのような「三光作戦」は、「ある期間には上官からの指示で徹底的に行ない、まわりの他の日本軍隊でも同じようなことをやっていた」と言う。

<毎日が心の中の闘争>

 45年8月15日に日本が敗戦を迎えた後も、永富は「大東亜共栄圏の確立という天皇の御心に応じる」ために山西省内に残り、閻錫山ひきいる山西軍と協力して共産党軍と対峙した(注4)。

 49年10月1日、共産党軍が中国本土を解放し、中華人民共和国が成立した。永富は翌年12月に山西省太原で拘束され、河北省永年の訓練団に収容された。46年に結婚した妻のミツノも2人の娘を連れて別の建物に収容された。

 永富は指導員から、自らの罪行を書いて提出するように言われた。
 「私は当時、天皇のために多くの中国人を殺した国士だと思い、全く罪悪感がなかったのです」

 永富のような筋金入りの“忠君愛国”主義者にとっては、人間性を取り戻すための中国側の教育も、なかなか効果を上げなかった。

 52年12月、永富は太原戦犯管理所へと移送され、認罪学習を続けた。ここでも当初は「俺は国士だと思い、罪の意識はあまりなかった」という。しかし、指導員らの献身的な援助により、自らの行為を客観的に考えられるようになり、中国人の苦しみや怒りを理解できるようになっていった。自らの罪行の一つひとつを思い出していくと、あまりの多さとその惨さに愕然として、悔恨の涙を流し続けた。

 「毎日が心の中の闘争でした。徹底した軍国主義の教育を受け、実践してきたのですから、そう簡単には変えられませんよ」

 永富の認罪学習は、その後も現在までずっと続いている。
 「今でもまだ反省が十分ではありません。中国人の本当の苦しみを、まだ体得していないと思います」

 永富は、前記のように56年6月に起訴されて裁判を受け、13年の禁固刑(逮捕日から)という寛大な判決を受け、その後は撫順戦犯管理所に収容された。ここでさらに学習を重ね、63年9月に釈放されて帰国が許された。永富はすでに47歳になっていた。

<一生涯、認罪学習を続けて>

 永富は帰国してすぐに、53年に帰国した妻と3人の娘の生活を支えなければならなかった。しかし、何の技術もないうえに、警察から「中国共産党に洗脳された危険人物」として付けまわされ、勤め先にまでたびたび来られたため、職を転々とせざるをえなかった。そのため、鍼灸師の資格を取り、東京・杉並区内で鍼灸治療院を開業して生計を立てた。

 そして、撫順や太原の戦犯管理所で同じように認罪学習を続けた中国帰還者連絡会(略称・中帰連)の仲間と共にすぐに活動を始め、自らの戦争体験を講演して全国をまわった。「二度と自分のような軍国主義者をつくってはいけない、侵略戦争を起こしてはいけない」という思いからである。

 しかし同時に、自らの認罪意識がどうしても納得できるところまで行かない、と悩み続けた。そこで89年3月6日、日本全国の中帰連の仲間数百人を1人で訪ね歩く旅に出発した。「私たちの戦争責任とは何なのか?」「私たちはどのようにして認罪をし、何をすべきなのか?」

 永富は持ち前の体力と行動力を生かして、何十キロもある大きなリュックを背負い、北海道から出発して来る日も来る日も仲間を訪ね歩き、話し合った。しかし出発して2ヵ月経った5月6日、新潟県で57人目を訪ねる途中で、急いで階段を駆け上ったために腰の骨を折り、旅を断念せざるをえなくなった。

 その後、91年10月には、永年と太原で一緒だった湯浅謙(注5)らと共に、太原解放記念館を訪れた。永富は末娘にも自らの罪行を知らせたいと思い、連れていった。そこで、日本から持参した謝罪文を慰霊碑に献上し、自ら犯した数々の罪行を涙ながらに詫びた。

 湯浅は、当時を次のように語る。
「永富さんは本当に苦しそうで、心から謝罪していると思いました。あまりにも緊張し興奮したためか、帰りぎわに何度も血を吐いてしまい、病院に連れていきました」

 また永富は、63年の帰国前に南京を視察した時に持ち帰った石を、今でも大切に保管している。

 「俺はここで罪悪を犯した。それを一生忘れずに生きていこう、と思い持ち帰ったのです」
 辛いことがあると、この石を見て自らを励ましてきたのだという。
 「今年の10月に中帰連の仲間と中国に行って、その石をぜひ納めてきたいと思っているのです」

 永富は目を輝かせ、これまでにない生き生きとした表情で微笑んでみせた。今では、この老人保健施設から外に出ることはめったにない。それでも、自分の人生の決着だけは、自らの手でつけたいと思っている。

(文中敬称略)

(注1)南京特別市全域での日本軍による不法残虐行為により、37年12月4日前後から翌年3月28日までに「十数万以上、それも二〇万近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になった」と笠原十九司氏は推定している。〜『南京事件と三光作戦』(大月書店・1999年)参照。
(注2)NHK・ETV特集(1999年12月6日・7日放映)
(注3)永富博道『白狼の爪跡−山西残留秘史』(新風書房・1995年)を参照。
(注4)前掲書に詳しい。
(注5)元軍医。本連載(上)・第303号(2月18日)で取り上げた。
(写真撮影/筆者)



<ルビ>
永富博道(ながとみはくどう)/浩喜(こうき)
平壌(ピヨンヤン)
下関(シヤーカン)
呉江県(ウージヤンシエン)
安慶(アンチン)
山西(シヤンシー)
滂沱(ぼうだ)
霍県(フオシエン)
沁源県(チンユアンシエン)
自強村(ツチヤンチユン)
党翠娥(ダンチユイウ)
太原(タイユワン)
聞喜県(ウエンシシエン)
絳県(ジヤンシエン)
南白石村(ナンパイシチユン)
盖寒村(ガイハンチユン)
元凹村(ユアンアオチユン)
汾村(フエンチユン)
界元村(チエユアンチユン)
下峪口村(シアユウコウチユン)
横水鎮(ヘンシユエイチエン)
正中村(チユンジヨンチユン)
朱家庄村(チユジヤジヨアンチユン)
李潤村(リルンチユン)
賈孟村(ジヤモンチユン)
張望村(チヤンワンチユン)
壁村(チンビチユン)
小山村(シヤオシヤンチユン)
河北(ホーペイ)
永年(ユンニエン)
撫順(フーシユン)

 

(ほし とおる・1960年生まれ。ルポライター)


中国帰還者連絡会の人びと(上)

中国帰還者連絡会の人びと(下)

 

 

表紙 > 中国帰還者連絡会の人びと

 

●このサイトに収録されている文章・画像・音声などの著作権はすべて季刊『中帰連』発行所に属します。
 無断転載を禁じます。
●ご意見・ご感想は
tyuukiren(アットマーク)yahoo.co.jpまでお寄せください。
●迷惑メールを防ぐため、上記「(アットマーク)」部分を「@」に変えて送信してください。