最終更新日:2004年03月31日

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中国帰還者連絡会の人びと(上)

悔恨の生体解剖−湯浅謙さんの場合−

星 徹


中国帰還者連絡会の人びと(中)

中国帰還者連絡会の人びと(下)


■このルポは、『週刊金曜日』第303号(2000年2月18日)に掲載されたものです。

 東京・杉並区の小ぢんまりとした診療所に、老人たちが次々とやってくる。小さな診察室で、83歳になる大柄の湯浅謙医師が、背筋をピンと伸ばして1人ずつ丁寧に診察している。

 「どうですか、調子は」
 70過ぎの男性にそう静かに尋ねると、聴診器に注意を集中し、血圧を測り始める。

 湯浅はこれまで開業医になったことはない。1958年以来、杉並区内の3つの「民主診療所」の運営を手がけ、70年代半ばから7年間は、相模湖(神奈川県)ちかくの診療所にも赴任した。その後また杉並に戻り、現在は2ヵ所の「民主診療所」で週に1回ずつ、短時間ながら診療を続けている。

「お金はもういりません。でも、地域のお年寄りから頼りにされるので、なかなかやめられなくて」と言ってほほえむ。

 そんな湯浅の頭の片隅には、どうしても「消せない記憶」、「悔やんでも悔やみきれない罪の記憶」がいつもある。一生をかけてその罪に対する責任を果たすために、残りの時間を使うのである。

<現場では薄い罪悪感と葛藤>

 湯浅謙は1916年に埼玉県に生まれ、東京・京橋の越前堀で育った。父親は開業医で、「地域の困っている人に対して、いつも献身的に診療をしていた」と言う。9人兄弟姉妹の上から3番目の湯浅はいつも学業優秀で、父親の姿を見て、漠然とだが「医者になって困っている人を助けたい」と思うようになり、東京慈恵会医科大学に入学した。

 41年3月に大学を卒業して内科医となった湯浅は、東京の駒込病院を経て、同年10月には北海道・旭川歩兵第28連隊に入隊した。ここで2ヵ月の教育を終え、25歳で軍医中尉になった。そして42年1月末には、日本軍が侵略し一部を「支配」する中国・山西省の安陸軍病院に赴任した。

 湯浅は、この時期から日本の敗戦間際までに自らが体験したことについて、この40年以上にわたって日本全国で500回ちかく講演を行なってきた。

「日本軍が中国に侵略していった目的は何だと思いますか?」

 講演会の会場で、当時の状況をひととおり説明した後、一人ひとりにそう尋ねていく。皆なかなか答えられない。

 「資源の略奪に行ったんです。そのために、中国に強盗に入ったんですよ」

 湯浅は、このような日本による侵略戦争の全体像や時代背景については、とても饒舌に語る。しかし、自ら犯した罪行のことになると、なかなか言葉が出てこない。

 「僕の仲間が誰もしゃべらないから・・・殺された中国人たちの供養のつもりで話します」

 もう何百回もこの話をしているはずなのに、ここまでくると毎回動揺を隠せない。何度も咳払いをして、水を飲む。つっかえながらも、やっとの思いで声を絞り出す。

 「私は7回にわたって・・・14人の中国人を・・・生体解剖してしまったのです」
 湯浅は、最初の生体解剖については特によく覚えている。安陸軍病院に赴任して1月半ほど経った42年3月中旬、病院長から解剖室に来るようにと言われた。学生時代から噂では聞いていたので、「すぐに中国人への生体解剖だと分かった」と言う。

 後に、私は湯浅に対して「断ろうとは思いませんでしたか?」と尋ねてみたことがある。湯浅は「一瞬いやだなと思いましたが、そんなことは考えませんでした」と答えた。しかしすぐに「もしそんなこと(拒否)をすれば、非国民と言われて、自分の地位を失うだけでなく、日本にいる家族の恥になる、との思いが頭をかすめました。そのとき頭に浮かんだのは、母の顔でした」と続けた。

 湯浅は当時、それ以上考えることをやめた。「戦争に勝つためだ。これも仕方がないな」と気を取り直し、意識的に胸を張って大股で解剖室へと向かった。思考を停止し、虚勢をはる。湯浅がしたのは、ただそれだけだった。

 解剖室には、すでに医師や看護婦らが20人ほど集まっていた。そして、端の方に2人の中国人の男が後手に縛られて立っていた。1人は便衣(注)をまとった30歳くらいの男で、体格がよく堂々とした態度だった。もう1人は、野良仕事の格好をした小柄の40〜50歳くらいの男で、「アイヤー、アイヤー」と泣き叫んでいた。

 「この2人を手術演習に使ってしまったんです。彼らの顔は・・・今でも思い出しますねぇ」

 湯浅は皆の前でそう言ってため息をつくと、目をつぶって絶句し、必死に涙をこらえている。

 「当時は罪悪感はありませんでした。それほどの葛藤もなかったんです」

  中国人や朝鮮人を劣等民族と蔑む当時の日本社会で育ち、そういう教育を受けた湯浅にとっては、このような認識だったのである。

 「生体解剖を前にして、日本人の医師や看護婦は皆ニコニコして談笑しているんですよ。嫌そうな顔でも見せたら、『使いものにならない』という烙印を押されて、家の恥になってしまうのです」

 湯浅は将校として見苦しいところは見せられないと必死に自分に言い聞かせていた。

 医師団は二手に別れ、それぞれの中国人に麻酔をかけ、「手術演習」を始めた。湯浅は年配の中国人の方に加わった。虫垂(盲腸)の摘出、腕の切断、そして腹を切り裂いて腸の切除と吻合などを医師たちが手分けして行なった。湯浅は初めのうちは補助的な役割を果たしていたが、途中から自らが中国人の喉を切り裂き、気管切開の練習をした。

 1時間半ほどで「演習」は終了した。年配の男はすでに息絶えていたが、若い男の方はまだ息をヒューヒューさせていた。湯浅はO医師と2人でこの男の首を絞めたがなかなか死ななかった。そこで湯浅は薬品を注射して殺害した。

 「そんなこと(生体解剖)する必要なかったんだけどねぇ。これはお国のためになるんだ、と全身で感じていたんだねぇ。それで平気でやっちゃったんだ」

 会場の人たちにというよりは、自分自身に問いかけるように、湯浅は目をつぶったままそう語った。そして、堅くむすんだ口をすこしゆるめ、やっとの思いで話しつづける。

 「1回目は嫌々、2回目は平気になって、3回目からは自分からすすんで生体解剖をやってしまったんです」

 湯浅は、自らが関わった生体解剖の夢をこれまでに一度も見たことがない、と私に語ったことがある。

 日本軍にとっての最大の目的は、実戦で役に立つ医師を速成すること、だった。

<私はおまえに息子を殺された母親だ>

 湯浅は日本の敗戦後も、山西軍が「支配」する山西省太原の病院で、求められるままに働きつづけた。しかし、49年に共産党軍によって一帯は解放され(同年、中華人民共和国が成立)、51年1月に河北省永年の訓練団に収容された。

 「なんで自分が収容されるのか、初めは分からなかったんです。それまで、生体解剖のことを忘れていたんですよ」

  そう湯浅は言う。

 「忘れて、いたんですか?」

  私は思わず聞き返してしまった。

 「たいした罪悪感もないままに、やってしまったからでしょう。犬や猫を蹴飛ばした程度にしか考えていなかったのかなぁ。あんなひどいことをしたのにねぇ。思い出したくないという気持ちが、記憶に歯止めをかけていたこともあるのかもしれません」

 永年訓練団で、湯浅は自ら犯した罪行を書くように言われ、生体解剖について「初めて」思い出した。そして、捕虜になったのだから仕方がないと思い、「私は命令されて生体解剖をやりました」というような内容を書いた。しかも思い出したのは、7回のうち2〜3回にすぎなかった。これが湯浅にとって初めての“坦白(タンパイ)”であり、“認罪”であった。

 52年12月、湯浅は太原戦犯管理所へと移された。ここは、かつて湯浅が4人の生体解剖に関わった場所でもあった。

 ここでも、指導員や検察官から「自分の犯した罪行をよく考えて書きなさい」と繰りかえし言われた。初めのうちは大した葛藤もなく、相変わらずその場から逃れるために、深い反省がないままに書いて提出していた。しかし、自分たちを人格を持った一人の人間として接してくれる中国人指導員たちの姿を見るうちに、湯浅は少しずつ自分の行なったことが大変なことだ、と気づくようになっていった。

 そんなある日、1人の中国人女性からの手紙を検察官から見せられた。

 湯浅よ、私はお前に息子を殺された母親だ。憲兵隊に捕まった息子を門の前で見張っていたが、車でどこかへ運び出されてしまった。私は必死に追いかけたが、見失ってしまった。後である人から、息子は安陸軍病院に連れていかれ、生きながらに切り刻まれた、と聞かされた。私は泣いて泣いて・・・。

 「そうだったのか、俺はこんなひどいことをしたのか、本人だけでなく家族にもこんな苦しみを与えたのか、と愕然としました」

 湯浅は当時をふりかえる。それまでは、麻酔をかけていたから苦しくなかったはずだ、などと自分自身に弁解していたが、この手紙を読んだとたん、自分が行なった酷い行為に愕然として、泣き崩れてしまった。放心状態のまま部屋に戻り、自ら犯した罪行の一つひとつと真剣に向き合っていった。

 「自分を悪い人間だと認めるのは、つらかったねぇ」
 目をつぶったまま、湯浅は声を絞り出す。
 「この息子さんは、私が2度目に行なった生体解剖の2人のうちの1人だと思いますが、彼の顔をどうしても思い出せないのです」

 初めの2人の顔はよく覚えているのだが、2回目以降の中国人の顔は全く覚えていない。生きながらに切り刻まれていく中国人たちは、当時の湯浅にとっては、手術演習のための単なる「材料」にすぎなかったからだろうか。

 湯浅は、この戦犯管理所で次第に認罪意識を深めていった。そして中国の寛大政策により56年6月に不起訴処分となり、日本に帰国することになった。帰国したら自ら犯した罪行を語り伝えよう、反戦平和のために生涯活動しよう、そう心に決めていた。

<みんな「忘れて」しまっている>

 47年に太原で結婚し、湯浅と共に永年訓練団に収容された妻の啓子(日本人・73歳)は、小さな子ども3人を連れて53年に帰国していた。

 56年7月に帰国した湯浅は、戦犯管理所で患った肺結核の治療を受けた後、東京慈恵会医大に勤務した。その後、冒頭で紹介した「民主診療所」の運営に参加しながら、自らの認罪活動を続けてきたのである。

 帰国した翌年、ある病院の講演に招かれ、自ら行なった生体解剖について初めて証言をした。

 「皆の前でその話をするまで、ずいぶん苦悩しました」と湯浅は回想する。その時は、入院患者から「ずいぶん洗脳されたな!」と吐き捨てるように言われた。

 しかし、その後も証言活動を続けた。「もうそんな話は結構だ!」「日本軍の悪いことばかり言うな!」などと罵倒されることも度々だった。6〜7年前には、講演が終わった途端に、爆竹がパンパンパンと炸裂した。何度か「脅迫状」が来たこともある。そんなことがあっても、日本軍の罪行を暴露して、二度と侵略戦争を起こさせない、という思いで証言を続けている。

 湯浅は81年に口述筆記の形で『消せない記憶−日本軍の生体解剖の記録』(吉開那津子著・日中出版)を出版した。

 妻の啓子は、「それまで夫が生体解剖をしていたとは知らなかった」と言う。出版が近づきその内容を知った啓子は、当初は出版に反対した。しかし夫に、「これを出すのが俺の一生の願いだ」と頼み込まれ、認めたという。

 出版前に、一緒に生体解剖を行なったO医師から「私は今日まで、ビクビクの日頃であります。どうか貴兄の温情によって、荒波の立たぬ方向にお導き下されたく、伏してお願い致します」という手紙をもらった。北海道在住のOは、98年に「自叙伝」を自費出版し、湯浅あてに送ってきた。「やっぱり生体解剖については一言も書いてなかったよ」と湯浅は私に語った。

 湯浅は、本を出版後に安陸軍病院の「戦友会」に出席した。そこで、生体解剖を共に行なったN歯科医(故人)から「こんな陸軍病院の恥をさらして、何だ!」と責められた。ほとんどの出席者は、「本当のことだから、いいじゃないか」などとかばってくれたが、彼ら医師たちも看護婦のMもHも、生体解剖については決して語ろうとしない。

安陸軍病院だけでも30人以上、中国全土だと1000人以上が生体解剖に直接かかわったはずなのに、ぼく以外ほとんど誰もしゃべらないんですよ」

 湯浅は力を込めて会場の皆に訴える。

 「みんな『忘れて』るんです。日本人は戦争で犯した罪の意識がとても弱いのです。あるのは恥だけ。知られなければいいと思ってるんです」

<個人責任に収斂される危機感>

 このように、湯浅は自らの罪行を深く認識し、帰国後も認罪活動を続けてきた。しかし最近、自分と同じように認罪活動を続ける中国帰還者連絡会(略称・中帰連)の仲間が「自分が悪かった」「当時は本当の鬼になった」などとばかり言い、当時の社会体制についてあまり指摘しないことに、ある種の危機感を持つようになってきた。

「当時は日本こそが理想的な国だと思っていて、中国人や朝鮮人を見下していた。そういう精神構造にさせられていたんです。『ヘッドギア』を付けられて洗脳されていたことに、気づかなかった。それなのに、自発的に考えて行動していると思い込んでいたんです」

 湯浅はこう私に向かって訴える。しかし、中帰連の仲間にこのように言うと、「僕らがそんなこと言っちゃいけないんだよ。本当にひどいことをしたんだから」とたしなめられることもあるという。それでも、湯浅は自らの行為を認罪しつつも、あえてその大本の国家責任や構造的問題を指摘することを忘れない。

「今の日本の状況は、戦前と似てきていますね。私たちが体験したことを語り継いでいかないと、それらを『なかったこと』にされてしまうのです。いま戦争を美化する風潮もありますが、事実を語り続けることが私たちの責任です」

 湯浅謙にとっての認罪活動は、生涯を通じて行なわれる。それが自らに課した責任のとり方なのである。

(文中敬称略)

(注)便衣・・・中国でふだん着・平服のこと。

湯浅謙の講演の場面は、98年2月28日、99年12月11日、同12月19日に行なわれたものをもとに再構成した。また、『消せない記憶−日本軍の生体解剖の記録』も参考にした。

 (ほし とおる・1960年生まれ。ルポライター)


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