最終更新日:2004年04月01日

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生存の記 ― 私の変革 ―

藤田 茂


■本文章は、中帰連の会報である『前へ前へ』(当時「正統」)12・14・15号(1970年)に3回にわたって掲載された藤田茂の自伝的文章の抄録です。


シベリアから中国へ

…… このようなわけで、われわれが中国入りしたときは、捲土重来の軍国主義思想が旺盛で、終戦時の思想そのままで中国に移されたわけです。ところが不思議に思ったことは、輸送がいつもと違う。非常に厳格な輸送なんだ。ソ連もそうだ。ソ連から出発する時は、ナホトカへ行ってお前らはダモイ(帰国)だというわけで出かけたところが、何時の間にやら方向が変ってゆく、結局、中国領へ入ってゆく、ここで肚をきめた。二日半、中国を旅行して夜明けに到着したところが撫順。将官連中は大急ぎでトラックに乗せられる。夜がうすうす明けてくる頃、撫順の駅から管理所までトラックで走る途中、両側にはずうっと中国兵が警戒している。屋根の上には軽機関銃、重機関銃が据えつけられている。非常に厳重な警戒だ。この中を通って、高い壁のある管理所に入った。ひょっとその看板を見ると「撫順戦犯管理所」と書いてある。中に入るやいなや二列横隊にさせられ、右から三名づつ、とっと、とっとと大急ぎで区分けされ、部屋に放り込まれ、とたんに鍵がピーンとかけられる。ソ連なんかでは絶対に鍵をかけられたことがなかったのに、徹底した監獄生活がこれから始ったわけだ。

 部屋には「戦犯管理規則」が貼ってある。こいつは何をやられるか判らんぞと、われわれは実のところ非常に恐れた。中国人は日本人に対して非常な警戒心をもっていたわけだ。なるべく当たらずさわらずの態度をかれらはとっていた。私は「戦犯管理所規則」を見るやいなや「コラ! 戦犯管理規則とは何だ! おれは戦犯じゃあないぞ!」と怒鳴りあげた。すると、かれらは間もなくそれをはがして、明くる日は「管理規則」と、内容は同じだが、戦犯をとっちまったのを持ってきて貼りつけていく、まあこういう状態で始ったわけです。私は「戦犯」という字を見た時に、こいつは軍事裁判間違いなし、いまから調査をやられるんじゃあいつ帰れるか分らん、下手すれば10年も20年も……。

 うっかりすると此処で終わりだという感じを強くしたものです。この時、ぼんやり暮らしているだけではつまらんという気が起こってきた。

朝鮮戦争のさなか、ハルピンへ

 10月初めになったら、急遽出発準備ということになった。「荷物をまとめろ、2時間後に出発」というわけだ。夕食を食べるとすぐ、8時過ぎには荷物を出す、そしてトラックに乗せられ、汽車に放り込まれた。何処へ行くのかも、さっぱりわけが分らん。汽車の窓はすっかり紙が貼ってあり、外は見えんようにしてある。

 着いたところは、われわれの見覚えのあるハルピンなんだ。北に行くことは分っていたから、「またソ連に舞い戻りだぞ」と話をしていたが、そうではなかった。当時、6月25日が例の朝鮮戦争の初まりで10月頃というとアメリカが逆襲して、鴨緑江までやって来るといった時です。落着いたところで、中国の人たちがわれわれに説明した。「ハルピンにあなた方を急遽移したのは、他でもない。撫順の近くにアメリカが細菌弾をかなり落した。もし、日本のあなた方に万一のことがあってはいかんというので政府命令がでた」という。ハルピンの監獄はまだ設備も出来ておらず、今までいた囚人を大急ぎで移動した後へわれわれは放り込まれたわけです。

 私達はそこで想像をたくましくして、「これは一体どうなるか、二通り考えようがある。人民日報にも、ぼつぼつ志願兵募集の記事がでている。抗米援朝という政府の大方針がでかでかと大きな字でのっている(人民日報だけは私達にも読ましてくれていた)。いくら中国の志願兵が出かけても、日本軍でさえ負けたアメリカに、中国の貧弱な兵器で太刀討ちできるわけがない。今にひどい目にあうに違いない。うっかりすると俺らはアメリカの手で日本に帰れるかもしれんぞ」、こういうことまで考えた。しかしその反面、「ひどい目にあった最後の手段として、中国はわれわれをただでは返すまい。ここで殺されるかもしれん」とも考えたりしておった。

 ハルピンでだんだん落着いてくると、われわれの気分も落着いていき、中国軍がアメリカを押返してきて、38度線で止っている、ということも分ってきた。中国の人は「いまの中国志願兵の勢いでゆけば、もう一度釜山まで行く力は充分ある。しかし、われわれは38度線からは南下しない、最初の規定線を一歩も出ないんだ」と言う。そこで仲間うちでも盛んに討論した。「あの貧弱な装備で、どうして志願軍があそこまでやったのか、志願軍ではなくて解放軍、つまり八路軍だろう」という者もある。私は自分の体験から「俺は衣部隊の師団長をやっていたが、山東省の解放地区では八路軍にほとほと手を焼いた。当時の判断を言うと、俺はあと一年と山東地区では日本軍はもつまいと思っていた。衣部隊全滅を覚悟していた。討伐に行くと八路軍は逃げてしまって、こちらの損害ばかり積み重なってゆく、とうとう旅団長一人は狙撃されて戦死だ。ある時は夜中に便衣隊で切り込みをかけたが、何処にも敵はいない。住民のほとんど全部が八路軍に通報しているらしい。われわれの部隊に使役で出かけてくる奴が皆、八路軍に情報を提供している。日本軍に昔から苦しめられてきた住民にとっては八路軍はまるで後光がさしている軍隊に見えるわけだ。家を出てゆく時には、瓶に水を一杯くんで、全部掃除をし、塵ひとつ残さんようにしてゆく、昨晩の泊まり賃も置いてゆく、食物代もいくらいくらと精算してゆく、子供はいたわる、老人は大切にする。こんな軍隊を私は見たことがないわけだ。日本軍が行けば、銃剣で脅かして、米を出せ、麦を出せ、薪を出せ、出さぬと家に火をつける、女は強姦する、手がつけられない。当然、八路軍さまさまになってしまう。八路軍は、それに思想教育をやるので、いやでも応でも住民は八路軍の味方をせざるをえなくなり、自然に解放地区ができ上る。3年がかりで山東地区全般にそれが広がってしまった。実際問題として、ソ連相手の北進を命じられた時、私はほっとした。ゲリラ戦で次第に戦力を消耗させられるよりも、満蒙で大いに戦った方がすっきりするという感じだった」、こんな話をして、中国志願軍とは一体、どういう部隊なんだ。八路軍とは何だと、ずいぶん討論した。

管理所での学習

 中国の人は管理所でわれわれを扱うのに、午前は何でもよいから科目を選んで学習しなさい。午後は室外で運動、夜は自分の好きなことを何でもやってよろしい、楽器が好きなら、それを揃えましょう、といったやり方だった。そこで私は、現職時代にやらなかったものを勉強しようという気を起こし、27期の佐々真之助君(陸大卒)と話しあって、「政治ということは何も知らん、これを勉強しようか」と相談していると、そこに満州国総務庁次長をやっていた古海忠之という東大出、大蔵省出身の政治の本家がいる。彼いわく、「藤田君、政治を勉強するためには経済をやらなけりゃあ駄目だよ」というわけだ。「僕もおさらいで仲間入りするよ」と、三人で中国側に本の借り入れを申し込んだ。中国側も、ここにはない本があったら、奉天でも長春でも図書館があるから、そこから取り寄せるといってくれた。

 そこで、着いた翌年から経済学の勉強を始めることになった。これが私に非常な転換をよびかけてくれた開眼の第一歩になった。われわれ軍人は経済ということを何も知らない。したがって、社会がどういうもので成り立っているかということも知らなかった。これが次第に判ってくる。古海君の研究したところも教えてくれるし、結局、資本主義社会が発展してくれば、どういう姿になるということを説明してくれる。明治維新時代からの日本の経済をはさんで説明してくれる。すると経済のことばかりでは不十分だということになり、明治維新史も読む。すると日露戦争、日清戦争、はどういうわけで始ったか、欧州第一次戦争は何故起ったか、といった歴史にまで及び、これを経済の原則に関連させて考えてゆく。すると、今まで聞いていた満州事変前後の状況が、何だか霧がかかったようになってきた。八紘一宇の精神にたいしても、誰れかが言いだして、こういうことを動かしてきたのか、問題が山積してきた。

 われわれのかつて想像もつかなかった問題が次から次へと出てくる。非常に疑問がわいてきたわけだ。私も佐々君も始めて聞くことばかりなんだ。したがって、歴史をむさぼるように読んでいった。日清、日露、欧州第一次大戦、それも結局のところは自分の欲望をみたす侵略戦争といったことを初めて学んでいった。これと大東亜戦争のことを考える。日本にとっては何といっても石油が血の一滴だ、どうしても南方も制圧しなければ続かない。随分、日本は無理をしたが、その根本はどこにあったのか、このように考えると、われわれが金科玉条としていた八紘一宇だとか、聖戦ということにも、非常な疑いを持ち始めたわけだ。そうしているうちに、われわれも資本主義の経済だけでなく、マルクス経済も研究しだした。すると、ますます帝国主義がどんなものか、これが嵩じてくるとファッショになってくる。これは治安維持法といった法律になって国民生活を圧迫することになる。これは歴史の趨勢のしからしめるところだ。まあ、こういった原則を初めて知るようになってきた。

 われわれが、かつて歩んできた道はどんなものだったろうかということを勉強し、社会の成り立ちというものが一年目くらいから、うすうす分るような気がしてきた。2年目になってくると、私はかつてサーベルをぶら下げ、勲章をつけ、街の中をかっ歩していたあの姿が、何だかこう、おかしいように考えるようになり、過去に「軍人という奴は何と非常識な奴だ」という批判をたびたび受けたことがあるが、そのことは当然だったという気になってきた。私は満州事変にも参加したし、連隊長、旅団長としての行動、こうしたことが、一体、正しい戦さだったのか、そういう疑いを抱くようになってきていた。

管理所職員の態度

 こういう気持ちをもってくるとともに、日常的に接する中国の人の態度が、また私に影響を与えてくれた。初めはチャンコロ、馬鹿野郎ぐらいに思っていたのが、日を経るにしたがって、何だか頭が上がらなくなってきた。中国の人の言うことと行動、私らにたいする態度、これらが常に柔らかく、親切で、いたれり尽くせりなんだ。私らは当時まだ軍国主義が残っているから、「何だ! この野郎!」などと随分、怒鳴ったりしたものだが「まあ、そう言わずに膝をつき合せてお話しましょう」と日本語のうまい呉先生など、実に柔かい態度で応対してくれる。後で聞いてみると、われわれが山東に居た頃、そこにおって、衣部隊のことなら隅から隅まで知ってますよ、と言われて恐縮したことがあったが、当時は決して、そのようなことは顔にも表わさない。「何か顧慮(心配)ありませんか」と何時も親切に尋ねてくれる。これに対しても「心配はあるさ、こんな牢屋の中に入れておいて、心配があるか、とは何ごとだ。私は日本人だから、日本へ帰してくれることが、心配をなくすことだ。早く帰せ!」など無茶なことを私は言っていた。「それは駄目ですよ。貴方は中国に来たことは良いことだと思いますか、悪いことだったと思いますか」と静かな態度で呉先生は問答してくる。これには参った。

中国へきたのは正しいか悪いか

 ある時、所長は私を呼んで、「藤田さん、貴方も随分、経済の勉強をしておられるようだが、この辺で大体、判断がついたでしょう。ひとつ、今日とは言いませんが、何日か、ゆっくりお話いたしましょう。そのお話の主題は、かつて貴方が中国に来たことは正しかったことか、正しくなかったことか、問題はそれだけです。これについてお話しましょう」と言う。これに対しても、直ぐ私はこう言った。「何を言うか! 私が中国にやってきたことは、今でも悪いとは思っていない。私は自分の職務について、これぐらい全能力をあげて忠実に、命令どおり、正しく遂行して来た。今でも賞められこそすれ、悪いなどとは絶対感じてない」とすると「そこなんですよ、藤田さん、もう一回考えなさい。あれだけ経済の勉強をされているんではないですか」「いや、私は今のまま正しいという信念は曲げないんだ!」こういったわけでした。

 この頃だったと思うが、呉先生と話をしていた時に、呉先生がちょっと、こんなことを言った。「藤田さん、貴方は軍人だから、衣部隊が八路軍に対して果敢に戦ったのは解るが、住民に対しての行為は、決して良い軍隊のやることじゃないですな」と静かに話しだした。私も、二言目には、「何だ! この野郎」で過ごしてきたが、これにはまったく考え込まされた。食糧をとりに入って何もなければ、豚を殺してしまう。日本へ送るために労働者を集めろということで、言うことをきかない者は、片っ端から叩き殺したり、野原にいる者を数珠つなぎにして貨車に積み込んで日本に送ったという話もある。ところが、当時は、こういうことをしておっても、悪いという気が起こらなかったんだ。「藤田さん、貴方の衣部隊の収容所にいた兵隊は、随分恨んでいましたよ」とこう言うんだ。その時だった「待てよ。私は一体どんな身分なんだ」結局、今は休戦状態だ。私は軍人だ。戦犯管理規則など書いてあったところをみると、私は捕虜なんだ。このことに気がついた時、私も全く参ってしまった。

 私が連隊長時代、捕虜をどういうように取扱ったか、旅団長のとき、どうしたか、私の兵科は騎兵なので作戦間に捕虜をつれて歩けるかという問題なんだ。「捕虜何名」という報告をうけると、「よし、現地処分!」こうやる。結果は遺棄死体何名として計上されるだけだ。だから、私の作戦中は捕虜はなかった。師団長になって八路軍と対抗するようになってから、捕虜は少なかったが、捕虜収容所というのはあった。戦争末期に、アメリカ軍が青島に上陸するかもしれんというので青島附近に永久陣地構築の命令があり、それには捕虜をかなり使った。百何名かの捕虜がいたが、当時はもう終戦の年、昭和20年で、われわれの食糧も不足をきたしており、節食をやかましく言っていた。いわんや捕虜に対して正式の食糧など、やったことがない。日本軍の残飯、それも一日二食ぐらい、衣類も着たきりで、夏に捕虜になった者は冬でも夏服のまま、暖房もない小屋に入れてあっただけだ。朝から使役でこき使う。皆んな栄養失調で、ばたばた倒れるという酷いことをやった。そうしたことを知っているものだから、これには全く参ってしまった。

 ふりかえって現在の自分のことを考えてみると、今日まで捕虜になってからの三年間、私の人格は、絶対に尊重されている。怒鳴られたことはないし、文句を言われたこともない。健康の問題、生活の問題について言えば、絶対といって保証されている。このことに気がついた時、全く頭が上がらなくなった。今まで、中国人は劣等だとまだ考えていたが、この点については、何とも言いようのないものがあった。

 私は部屋に帰って、古海君や佐々君にこう言ったものだ。「私は今、呉先生と一時間かかって問答してきた。今日ぐらい、私は矛盾というか、過去を反省したことはない。呉先生が、こういうことを言った」と前のような考えを述べ、結局、現在の私は何だ、という問題なんだと言うと、佐々君は膝をたたいて、「うーん、参った! そこに私らが今まで気がつかなかったのは全くどうかしていたんだ。私らの頭の方が余程、狂っているかも知れん」と同感してくれた。結局、戦地におけるわれわれの軍国主義思想には、良心などかけらもなく、狂っとったという以外いう言葉もない。師団長級のわれわれでさえ、そういう頭だったから、いわんや兵隊は、惰性で、中国人を虫けらのように考え、何かというと直ぐ叩き殺したということは、当然だったと思う。このことに思い至ったとき、本当に頭が上がらなくなった。

 それでもなお、所長の所謂「貴方が中国に来たことは正しいか、悪いか」という問題については、薄ぼんやりと解るような気もするが、心の底の方で割り切れない。私は悪いと思っていない。「正しいことをやっただけだ。戦場なら、こんなことはあり勝ちのことだ。命令の為なら、やるべきことはやらねばならん」こういう考えからまだ一歩も出ることはできなかった。部屋で皆と討論しても、皆はやはり、それから一歩も出ることができないらしい。われわれの頭の中には頑固に根強いものがある。考えというものは、なかなか変わらんものだった。

 その頃だったか、胃潰瘍をやって入院した。その時、到れり尽せりの待遇をやってくれるんだ。もう治癒していると思うのだが、一月半も転地癒養させてくれ、栄養食も一日5、6回とり、なにもやってはならんということで、体重も前より重くなったくらいだ。もう大丈夫だからとお願いするようにして帰ってきたことがある。その時も参った。所謂、自責の念が起ってきたんだ。自分には良心といったものが甦えってきたような気がする。しかし、それでもまだ、はっきりと「私は悪かった」ということは口に出して言えない。大変なジレンマに陥ったわけだ。実に苦しい。だが、前途に何か良心の甦えったことの爽かな自覚だけはあった。

新中国の変化

 そのうちに、中国人は馬鹿な国民なんだという印象をかつて非常に強く持っていたんだが、何とも割り切れんもんが起ってきた。毎日の新聞を見ていると、この中に社会主義建設という文字が非常に出て、今日はこれだけのことをやった、こういう計画をたてた、ということが出ている。初めは、御用新聞だから眉つばだという感じで読んでおった。ところが、中国人の実際の生活が違ってきた。それが苦力(労働者)にも現われてきたわけだ。われわれの知っている苦力は、ボロボロの着物、冬でも裸足、ひげぼうぼう、目ばかりギョロギョロさせている痩せ衰えた奴なんだ。これが、2年目、3年目になると服装が変ってきた。ほとんど裸足はいなくなった。初めは赤い煉瓦色の高梁の饅頭を食っていたが、2、3年目からは白いふかふかの饅頭を昼食に食べだした。「こりゃあどういうことだ」そして、顔を見ると、いままで人相の悪かった者が柔和な目つきに変わり、笑顔まで見せるようになった。「これは一体どうしたことだ」、われわれは一月に一回ぐらいしか入浴しない、このときに200米ぐらい歩いてゆくが、中が狭いのですんだものは外で待っている。ここに風呂焚きの苦力がいた。苦力とは話をしてはいかんということになっていたが、真暗らではあるし、誰も見ておらんので、「おい、どうだお前らの生活は」と話しかけると、「うん、私は家を持ってるぞ、女房も子供も山東から呼びよせた。食い物には不自由しない、まあこの靴を見てくれ」と自慢そうに靴を見せる、「給料はどうか」「あがるよ、給料は」と答える。このことを帰ってから皆に話をすると、どうも新聞に書いてあることは嘘じゃあない、古海君など「結局、政治が末端までとどいてきたんだ」と言う。「中国政府があれだけ今日まで入れ替っているが、最近において上級の政治が末端までとどいたことがあるか、満州国でさえ駄目だった。これはすごい政府だ」と、われわれは、これで現中国をすっかり見直した。中国人の今日のやり方はすごいぞ、こんな感じが次第に頭に浮かんできた時に、われわれ一部のものの裁判が開かれることになってきた。

 「人民の苦痛」

 昭和31年5月頃になると、私たち45人ぐらいは独房に移された。この頃になると、中国に移ってから5年ぐらい、毎日、午前中はテーマを選んで勉強しておったので、満州事変このかた、日本の戦さは侵略戦争だったんだ、経済的な立場からこういうことになっていったんだということを大体において納得するようになっていたわけだ。私なども、侵略戦争ということは悪いことだが、その上、軍国主義というものは最も悪いもので、日本軍隊の教育方針は誤っておったという感じをもつに至ったわけだ。極端な話だが、「君に忠」ということで、国民を盲目にしていた。

 「愛国心」というが、民族の愛国心ではなく、極端な皇室中心の愛国心という方向で、誤っていたんではなかったか、このような考えに変っていった。

 ちょうどその頃、スエズ動乱が起り、イギリスがエジプトに侵入して、アレクサンドリヤを占領したことがあった。「これについて皆さんで討論して下さい」ということになって集った。そこで、資本主義のやり方がどうのこうのと皆で盛んに討論した。

 最後に呉先生の御感想を聞きたいと皆が言った。
「そうですね。皆さんの言われたことは正しいことばかりです。しかし、残念ながら、たった一つ、貴方がたに抜けてることがあります。私はこう思います。あそこのアレクサンドリア、エジプトの人民がどんなに苦痛をなめたでしょうか、私はこう思います。それだけです」と、今度のベトナムに対する中国の態度と同じことを言うわけだ。ベトナムの人民は何の悪いことをしているわけでもないのに、何故アメリカから爆弾を落されるのか、人民は何もしていない。「いつも、こういうことで苦労するのは人民大衆ですよ」と、これにはガーンとやられた思いがした。

取調べと軍事法廷、そして判決

 そのうちに、いよいよ裁判所に行くことになった。

 この一週間に、私は起訴状をもらった。

 7項目あったが、作戦上の罪は何も書かれていない。駐留間に私の部下が、どこそこで糧秣をいくら盗んだ。その際に平和な住民を何名殺害した。旅団長時代にどこそこにおいて、住民を何名殺した。師団長の期間において、討伐時、住民を三百何名殺害し、糧食何斗を略奪した。殊に婦人六十何人を強姦した。師団長在職中に捕虜89名を死に至らしめた。このような罪科が述べられている。

 私はこれを見て、ポツダム宣言に「捕虜を虐殺したものは厳罰に処す」という一項目があるのを考え、当然、死刑を覚悟した。

 検事が来て、「この起訴状に不審の点があれば申出なさい」と言う。私の連隊長時代の罪科のうち、「ある部落で住民24名虐殺」と予審のとき告訴状を見せられたことを覚えており、起訴状に一名虐殺となっていたので、「これは1名でなく、24名だ」と検事に申し出た。検事はそうかと、その時は帰ったが、一週間ぐらいして、文書の束をもってきた。

 その土地の住民の口述書を飛行機でとりよせたらしい。これによると、私の前任連隊長時代から通算24名になるので、お前の時には1名だ、と書類を見せる。私はこの一事をみただけで、この調査はすこぶる正確だなと考えた。

 これより以前、私の作戦について、全部で四百何十枚も書いて提出してある。それに基いて事実を調べている。だから、起訴状には余程正確なものしか載っておらず、私の提出書類と告訴状が一致したもののみに限られている。

 しかし、私の知らんものも随分あった。強姦やれと私が言って、私は強姦しましたと報告する奴は誰もおらん。たった三週間のあいだに、六十何名を強姦したと、やりやがったなと数字を見て初めて驚ろいた。しかし、私はこれだけの罪科をみただけで、極刑はまぬかれぬ、と肚をきめた。よし、俺は全てに責任を負い、潔く刑をうけようという決意で法廷に出た。

 ところが、法廷では、被害者が次々に立ち、悲凄、憤怒、憎悪の姿で訴える。あるお婆さんなど、裁判官がいくら注意しても止めようとしない。同じことを二十数回も繰り返えし、自分の席から立って私のところへ噛みつかんばかりにしてやってくる。看守がやっとこれを押えるというような状態もあった。

 全く聞くに堪えられない立場に立たされたわけだ。一人の証人が話し終わる毎に、「今の行動にたいして被告はどう思うか」と裁判長に言われる。「その通りです」と言わざるを得ない。私は、徹頭徹尾これで通す以外になかった。

 判決をうける前に「俺は死刑だ」と判決を自ら下していた。私の考えたことは、如何にして日本の軍人らしく従容として死ねるかということだったが、自信がない。そこで先づ第一に言うことは、首吊りでは嫌だ。如何にもバタバタして13階段を上がる間にどんなことがあるかもしれん、一番確かに階段を上ることは目隠しをとることだ。しかし、果して縄がぶら下がっているのを見ながら、それを正視して上がれるかどうか、俺はそれだけ修養をつんでいるか、これにも自信がない。一番良いことは銃殺だ。バン!と一発で終りになる。

 いよいよ判決が下った。「18年の刑に処す」と聞いたときは、本当にもう震えるような感じがした。これぐらい不幸のドン底から、幸福の先端まで走ったことはない。

 とにかく、帰れるということが前提なんだ。何年という刑は……。しかも、「抑留の日から通算す。抑留とはソ連に抑留の日から通算」こういうわけだ。指折り数えてみると、あと7年だ。私は今71才かな、すると生きて帰れるかもしれん。実にわけのわからん気持ちになった。判決の終ったあとで、裁判長が「この判決に対し、被告の感想があれば述べよ」と言う。私は予想外の軽い刑なので「感謝しています…。しかし、ここに居られる被害者の方々、また居られない家族の方々も、恐らくこの判決に対しては納得されないでしょう」。私は、これ以上、なにも言う言葉がなく絶句した。「それでは帰りなさい」こういうことで帰ってきた。

 帰ると、呉先生はじめ世話をしてくれた中国の人がやってきて、藤田さん、良かったですね、と言うてくれる。「お蔭さまで、とにかく予想外な軽い刑にされたので、本当に嬉しいです」そう言うと先生方は「よく貴方は被害者が納得しないだろう、と言ってくれました。このことは私たち皆が貴方に感謝していることです」と言う。というのは、当時人民から投書が山のように来ている。この裁判が始ったことを知らされて、「全部生かさんでくれ、戦犯は一人残さず極刑にせよ」というのが人民の願いなんだ。それを極刑一人もなしにやるもんだから、人民は怒る。どうしてこれを納得させるかということに非常に当局者は苦慮していたわけだ。「ここに居られた人達が全部、今度の裁判で非常に立派な態度をとられたので、人民にこの裁判の録音を聞かせることにした。ことに貴方は中国人が納得しないだろうわれわれの立場によく立ってくれた」と言うわけだ。私はそこで、つくづく考えた。他の国のやらないことを中国はどうしてやるんだろうか、このことが非常に割り切れなかった。

妻喜代子の管理所訪問

 刑を言い渡されて、管理所に帰ってきたのが7月の初め、そして8月上旬のある日、藤田さん、一番良い服を着て本部まで来てくれ、と言う。「この部屋に入れ」と言われて、入ってみて驚ろいた。女房が居るではないか、私の女房もびっくりしてつっ立っている。女房は新聞で私の18年の刑のことはすぐ知ってやってきていたが、日本の監獄のつもりで、網の外と内で面会はせいぜい15分くらいだろうという考えで来ている。しばらくここでお待ちなさいと案内されてきた部屋に、お茶と湯呑みが準備してある。今に呼び出されて面会になるんだろうと女房は待っていたわけだ。そこに突然、俺が入ってきたものだから、女房は驚いて「あーっ」と言葉にならない声を出した。私も驚いて、「おーっ」と途端に大きな声を出してしまった。
「藤田さん、ここでゆっくりお話ししなさい」といって中国の人が出ていって5分も経たないうちに邪魔者がどやどや入ってきた。

 日本からついてきた日本の新聞記者だ。

 それが、わあーと四方八方から「藤田さん、ご感想は」とか、何だかんだと質問ぜめにする。うるさくてかなわん。中国の人もやってきたので、「面会時間もなくなるだろうし、新聞記者諸君を早く追い出してください。私は女房と話しが山ほどあるんだ」と言うと、「藤田さん、大丈夫ですよ、新聞記者が聞きたいことを皆、話してやって下さい」、それじゃあ仕方ないと肚をきめて質問をうけることにしたが、「日本の自衛隊をどう思うか」など、つまらんことを聞く。「なに、自衛隊なんか出来とるのか」と私は白ばっくれる。「今、こうこうで警察隊からこうなって自衛隊になったんだ」と説明してくれる。「そりゃあ何だって、国を守るために武装するのは常識じゃあないかな。しかし、外国に攻め入ったり、侵略するためのものなら止めてもらわなければいかん。名前通り自衛隊なら若干のものをもつのは至当じゃあないか、いまの資本主義社会では恐らく軍隊がなければ、独占資本の金持は良く寝れんだろう。警察力じゃ日本の国民を押えきれんだろう。これは、日本の歴史がちゃんと証明しているよ」。こういうと「そうですか」と変なことを言う奴だという顔をしている。

 まあ、そんなことを言って新聞記者を追っぱらうと、中国の人が「今日は、この部屋で二人でお泊り下さい」という。ベッドも、ちゃんとある。これには本当に驚ろいた。

 ちょっと話をするだけで済むかと思っておったところに、二人だけで泊れるというんだから……。そして、その部屋でその晩は泊った。しかし、女房だといっても助平根性など起らんのだ。ことに私のように、当時70にならんとしている男が、もう12、3年も全く禁欲な生活をしていると、てんで話にならん。女房の方もまた、そんな調子だ。

 私も12、3年女房と会ってないことだし、いろいろの話をする。私の郷里は広島だから、私の姉が原爆で死んだことから、お袋が私を待ちかねて90才でとうとう死んだとか、積る話があるわけだ。とうとう夜更かしして話をした。

 明る日、女房は来なかったが、とうとう40日間も女房は滞在していった。その間に北京、漢口、上海、天津、鞍山、長春、これらを一等寝台車で、ホテルに泊り、見学旅行をした。
女房は金をいくらも持ってきていないのでビクビクしていた。中国での経費は一切持つから心配しなさんな、ということだったが、余り御馳走をされるので、終りに女房は申し訳なくなってしまったわけだ。

満期前釈放の決定

 そうこうしているうちに、その翌年のある日のこと、講堂に皆集まれということになった。45人の判決を受けていたものが、すでに、病気やなんかで10人ぐらい帰っていた。
講堂には裁判官みたいな人が来ていて、藤田は態度良好につき釈放という命令を読み上げられた。他に病気と、任期満了で帰る人6名に私が帰国することになったわけだ。私はこのままでは帰れんと思い、呉先生のところへ行った。

「先生、私がどうして態度良好なんだ。随分、反抗もし、でたらめをやって、規則を守るどころか、しょっちゅう規則違反をやってきた。どうして私を帰すことにしたのか」と尋ねた。「これは裁判所からの命令です。貴方は裁判所において態度がよかった。一切の弁解をせず、中国人が納得しないだろうとの立派な態度だった」こう言う。それに胃潰瘍で転地療養したときのことが良かったらしい。

 それは私の仲間で満州国の高官をやっていた人が入院していた時のことだった。その人が、やけくそを起して、ことごとに看護婦や医者に反抗する。わがまま一方の男で、大便が出ないもんだから、潅腸してもらっても、我慢できないからすぐ出してしまう。その度に敷布を汚す。それがしょっちゅうなので、いくら看護婦を呼んでも嫌がって来ない。私は同室にいるもんだから糞臭い。大便も出しっぱなしなんだ。私も腹がたった。「何だ! これは!」と私が怒ると、看護婦が来ないからと言う。私は仕方がないので風呂場で敷布を洗い、看護婦に謝って敷布のきれいなのをもらってくるといったわけだ。その男は脳溢血で倒れた男だから手も不自由なんだが、痛いのを我慢して手の運動をすれば直るのに、ちょっと手を動かそうとすると「痛い、痛い」と手を引っこめて触らせない。結局、片足、片手が少し動いていたのに、自分で動かないようにしてしまった。だから、どうしても看護婦に飯を食わせてもらうことになる。これを隣のベッドで見ていると、看護婦の顔に骨なんかを口から吐きつける。私が見ていても腹が立ってくる。この人は東大銀時計組みの優秀な人なんだし、馬鹿じゃあない。

 ある日、私はこの人にこう言った。「貴方は帰りたいか、帰りたくないか」と、勿論、帰りたいと答える。「貴方もどうせ相当の責任者だから、ただではすむまい。しかし、日本へ帰りたいんなら、少しは中国の人に対して何とか敬意をもったらどうだ。看護婦にあれだけ世話になってるんだから、一回ぐらい、ありがとう、と言ってもいいんじゃあないか、『謝々』ということが言えないのか、貴方は立派な能力をもっているのに、感謝ということが分らんのか」と説法した。「余りにもやり方がひどいし、あれではどんなに親切な人でも嫌がるよ。貴方が本当に日本へ帰りたいんなら、ご飯を食べさせてもらった後、『謝々』、潅腸してもらったら我慢して、いよいよ我慢できなくなったら出すがええ、もう少し我慢せなならん。汚い尻の仕末をしてくれた時は、『ありがとう』ということぐらい、子供の時から知ってる筈だ。何ちゅうこともないただ『謝々』と言いなさい。俺だって隣にいて腹が立つ。もう俺はあんたの糞の仕末など一切やらん。あんたが『謝々』と言えないんなら今度から箒で撲るぞ」、こう言った。この男は撲られたらかなわんと言うから、それなら無理にだって「謝々」を言うんだな、ということで問答を終った。

 二日経ち、三日経ち「謝々」というようになると、看護婦にしても、この人大分変ったわいと、飯もよく食わしてくれるようになった。これは人情というものだ。

 このことを病院のお医者さんが見とったわけだ。藤田さんは、とうとうあの頑固な奴の思想を改造させた。真心のある説得をした。

 まあ、こういうことを理由にされて態度良好ということになったらしい。要は実践しい、ということだ。これは中国共産党が一番大事なことに考えており、このことが帰す理由になったらしい。そこで私は、まだ刑期も残っているのに帰してくれる、女房も呼んで歓待してくれる、一体、この根本はなんだろうか、ということを考えた。

 結局、私が思うには、徹底した中国共産党の政策かもしれん。しかし、中国のやってることは全て革命、これ人の革命なんだ。どんな人間でも、必ず正しいように変化する。この一番良い例が満州国皇帝の溥儀だ。

 あの皇帝が今日では正業に復してやっている。言いかえれば徹底的な平和主義なんだな。

 人を改造する。少しでも良いことのある人は必ず味方にする。決して敵対的に扱わない。自覚をうながしてゆくんだ。われわれの常識から言えば、これだけ中国人民に害を与えた奴だから、当然仇討ちをしてやるといった考えが起るんだが、これを絶対やらん。

「仇に報いるに徳をもってする」という孔子の言った考えが、古くから道徳の基礎になっている。中国の政策で良いところは、結局、マルクス主義の活用手段にあると思う。ソ連はツアーを監獄にぶち込んで殺してしまった。

 中国は溥儀を監獄に入れて静かに反省させ、とうとう人間を改造させた。われわれのような軍国主義のガリガリにとうとう頭を下げさせてしまったというわけだ。

(ふじた しげる 中帰連初代会長・第59師団長中将)

 

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