最終更新日:2004年03月31日

○ 更新履歴 ○

○ 中文(簡体字)簡介 ○

○ お問い合わせ ○


 中国帰還者連絡会とは?
 中帰連関連文献集
  バックナンバー
 
定期購読はこちら
 季刊『中帰連』の発刊趣旨

 戦場で何をしたのか
 戦犯管理所で何があったのか 
 お知らせ・活動紹介
 証言集会を開催します
 受け継ぐ会へ入会はこちら
 受け継ぐMLへのご登録

 


表紙 > バックナンバー > 第12号 > 「日の丸・君が代」法制化と戦後民主主義教育


「日の丸・君が代」法制化と

戦後民主主義教育

安川 寿之輔


 

はじめにー「教えとは希望を人に語ること」かー

 高校教員になることをめざしていた学生時代(1950年代後半)、私はルイ・アラゴンの「教えとは希望を人に語ること/学ぶとは誠を胸に刻むこと」ということばを「座右の銘」にして、(ガールフレンドに書いてもらったその銘を)机の前に貼っていた。大学の定年退職時に、自分の教育実践を総括・記録する著書『大学教育の革新と実践』(新評論)に「変革の主体形成」という副題をつけたところに、学生時代の初心の志の持続の痕跡をわずかに見ることができよう。

 アラゴンの夢にこだわって教育学研究者になった私は、だからこそ、近代資本主義社会=民主主義社会においては、なぜ教育が「希望を人に語ること」ができないのか、まだ、学習がなぜ「誠を胸に刻むこと」につながらないのかを研究してきたように思う。

 社会の変革期・革命期を稀な例外として、教育は社会体制の現状を維持・保守・温存するためのものという保守的な機能を本質とする。教育は非教育者にひたすら社会の現状(変革期を含む)に適応・順応することを求めようとする。したがって、後発資本主義国として、「教育で始末をつける」教育の政治的利用・悪用をとりわけ伝統とする日本においては、例えば、現在の小・中・高等学校の教員が(法律ではない)「学習指導要領」に準拠して教育することは、戦前日本の教員が「教育勅語」に基づいて(天皇制軍国主義)教育を行ったことと本質的に同じ行為である、という醒めた認識が必要である。多数の暴力を頼む「自自公政権」の小渕内閣の場合は、もっと直截に「国家にとって教育とは一つの統治行為だ」、義務教育は「本来の統治行為として自覚し、厳正かつ強力に行わなければならない」と主張している(首相の私的諮問機関「21世紀日本の構想」懇談会報告書)。

 加えて、一人の生徒・学生の人間形成における学校教育の「教育力」の無力という問題もある。人間形成における時代と社会と(広義の)教育の影響力は圧倒的であり、学校教育のそれをはるかに凌駕する。「1」で言及する総体としての現在の日本人が日本軍国性奴隷=「従軍慰安婦」に対する「はずかしめの罪」を自覚・認識しえないという事実は、日本の社会を色濃く支配している差別と戦争責任への鈍感・無自覚という問題抜きには考えられない。ところが、学校教育主義的偏向を体質化した日本の教育学者や教員たちは、こうした事実と自分の研究方法・教育実践がつながっていることをほとんど自覚できない。私たちの近刊=松浦・渡辺編『差別と戦争ー人間形成史の陥穽ー』(明石書店)は、日本の教育学研究の致命的な欠陥として、差別と戦争責任の視座に一貫して鈍感であるために、その研究が日本人の教育(人間形成)の解明にほとんど寄与しえない事実を明らかにしたものである。

 稀な例外として、社会の変革期・革命期に教育が「希望を人に語ること」ができるのはなぜか。マルクスが社会「環境の変更と人間的活動(または自己変革)との一致はただ変革する実践(革命的実践)としてのみとらえられうる」と主張したように、変革期においては、体制的な社会環境自体が変革・進歩の方向をめざしており、したがって構成員にもその変革を担うことを求めるために、教育を規定する社会観=人間観が同じ方向を向いており、その時、教育は「希望を人に語る」可能性を持つのである。日本の敗戦直後の(朝鮮戦争を契機とする逆コースの始まる以前の)ほんの一時期の戦後民主主義教育や中国帰還者連絡会を生み出す母体となった「撫順・太原戦犯管理所」の「奇跡ともいえる中国の戦犯政策」による人類史的な人間変革の教育実践などがその具体的事例と考えられよう。 ただし、教育の客体(学習主体)が自由な意志を持った人間であるために、教育は意図どおりにいかないからこそ教育であるといえる側面を確実にもっており、水田洋・珠枝が「体制維持とは、・・・反体制勢力の育成維持をふくむ」と主張するように、教員の例外的な教育力を含め、いつの時代でも、教育が「希望を人に語る」可能性・側面をもちうることを見落としてはならない。

 次に近代社会において学習はなぜ「誠を胸に刻むこと」につながらないのか。近代社会は政治的国家の共同生活圏と市民社会の私的生活圏とに分裂し、近代人は否応なく「天井と地上との二重の生活を営む」(マルクス)。その結果、ルソー『エミール』が鋭くえぐりだしたように、近代の公「教育は、相反する(公民たるべきか人間たるべきかという)二つの目的を追求して二つとも取り逃がしている・・・この教育は、いつも他人のことばかり考えているように見せかけて、その実、自分のことだけしか考えていないような裏表のある人間をつくることしかできない。・・・かくて私たちは、生涯・・・自分の主体性を確立することもできず、したがって自分のためにも他人のためにもならなかった人間として人生を終わることになるのである。」

 野田正彰『戦争と罪責』(岩波書店)が中帰連の湯浅謙の人生に即して適切に分析したように、「現実から逃避する性向も、理念に走る傾向もない。記憶と経験のみを重視する」日本の医学教育のなかで優秀な医師に育ち、時代の価値観への「批判力が全く欠如した好青年」であった湯浅謙軍医中尉は、「自分が生きている時代、国家というものに、まるで自覚がな」く、中国で7回もの生体解剖にかかわりながら、その明確な戦争犯罪に「いかなる疑問も、精神的葛藤も持っていな」かった。「太原戦犯管理所」の寛大な戦犯政策のもとで自らの罪責を認識する能力を回復・獲得した湯浅が、自分の行為を戦争という非常事態のもとで、上官の指示で「させられた行為、皆で行ったのだから仕方がない」と弁明している限り、「結局は、自分の人生も無かったこと」になり、それでは「個人としての一生を生きた」ことにならないという自覚にたどり着いたように、学校教育が教える昇進や出世につながる支配的な時代の価値観どおりに生きることは、「誠を胸に刻むこと」ではなく、「単なる集団のなかの一人としての(借り物の浮き世の)人生」を送ることであり、他ならぬ自分自身の一回限りの人生を主体的に生きることはできないのである。


1,なぜ国旗・国家法は成立したか −戦後民主主義の限界−

「日米新ガイドライン関連法」の成立によって、日本は戦争責任・戦後補償も未決済のまま、再び戦争国家への道に決定的に踏み出そうとしている。主権者・日本国民が昭和恐慌時と同様に目前の経済不況・生活苦に目を奪われ、戦後最大の歴史の分岐点において「沈黙する多数派」に眠り続けた事実は、「不作為の責任」として、後世からきびしく問われることになろう。また、「日本はなぜ大正デモクラシーから昭和ファシズムへの道を歩んだのか?」に類する疑問として、「日本の戦後民主主義はなぜ戦争国家に帰着したのか?」という大きな疑問が、今後くりかえし問われることになろう。

 信じ難いことであるが、侵略戦争のシンボル「日の丸」と天皇治世を賞美する「君が代」が21世紀にももちこされる国旗・国家となった。法案成立が予想をこす事態とすれば、私たちがなぜそれを許したのかの総括もきびしいものでなければならない。

 とりあえず考えられる回答は、日本の戦後民主主義が戦争責任の問題を放置した民主化の歩みであったという問題把握である。戦後日本の社会は、棚からボタ餅で転がり込んだ戦後民主化路線の追及に目を奪われ、昨日までの侵略戦争と植民地支配に対する日本社会と日本人の戦争責任問題を放置した。あるいは、民主化を推進することが自動的に過去の誤りを克服する道につながると勝手に期待していた。その誤りを、自己の生涯を過酷なまでにきびしく総括・自己批判して公の席で劇的に指摘したのが、急逝したもと東京大学教授五十嵐顕であった(安川寿之輔『日本の近代化と戦争責任』明石書店、参照)。

 日本軍性奴隷=『従軍慰安婦』に対する誤った施策「アジア女性基金」は、被害女性と韓国政府の拒否通告によって破綻した。彼は、戦後民主教育・平和教育が日本軍性奴隷に対する「はずかしめの罪」を総体としての日本人が認識できるような人間形成に成功しなかったとして、「私は教育学者だったほぼ30年の私の履歴を恥じるばかりです」と表明した。端的なその理由は、南方軍幹部候補生隊区隊長として侵略戦争を積極的に担いながら、敗戦の時点でその「戦争責任の問題を一顧だにせず」、戦後民主路線の「教育改革の流れにのって、「戦後研究生活」を始めたことへの自責である。晩年の五十嵐は「私は定年で東大を止めるまで民主主義のために働いていたつもり」であったが、「戦争責任にほおかぶりして来た」ことによって、真の民主主義の確立に寄与できなかったと戦後の自分の生涯を切り裂くとともに、戦後日本の進歩的教育学を代表する宗像誠也、勝田守一、宮原誠一、矢川徳光らの戦争責任の自己批判も不十分・誤りであったと告発した。

 天皇裕仁が死の病床にあった1988年10月、台湾の反日デモのプラカードに「天皇が一言も謝罪しないのは(主権者)日本人の恥」と書かれていた事実は、戦争責任意識を欠落・放置した戦後日本の民主化路線の本質を見事に射抜いたものである。戦争責任意識と国民主権の確立は不可分の関係にあるのに、民主化路線推進の担い手たちは、民主化が自動的に過去の克服・贖罪につながるものと漠然と考えていた。しかも、戦後日本の民主化といっても、それは「皇室典範」で身分差別・女性差別・障害者差別を規定した象徴天皇制との共存であり、日本社会の差別の総元締めには一指も触れることはできなかった。それどころか、日本は21世紀に向けてこの差別の胴元をなお「千代に八千代に」保持しようというのである。

 日本戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』について、学生時代に「人類の救済者がヒトラーのナチスである」と日記に書いた色川大吉が、自己批判も含めて「天皇とか天皇制に対する批判や疑問、天皇を中心としている国家そのものに対する言及がまずほとんどない」と指摘している通り、天皇問題こそが社会を科学的・批判的に見る日本人の目を歪め曇らせた躓きの石であった。アジア侵略を先導した福沢諭吉は、天皇制の本質を「愚民を籠絡する」欺術と承知していたからこそ、明治天皇制の構築に奮闘した。彼を未だに「天は人の上に人を造らず」と主張した人物であるという大ウソを教えている。戦後民主教育は昨日までの天皇崇拝を福沢諭吉謳歌に切り替えただけのものであり、戦争責任意識を欠如した戦後日本の社会科学もこの福沢の虚像の維持に貢献したのである。

2,国立大学の転落−その戦後責任−

 「日の丸・君が代」法制化の国会審議において、政府は長年の慣行により「日の丸・君が代」が国民の間に広く定着していると主張したが、その誤りは、法制化直前の7月のJNN世論調査(TBSテレビ系列)で「君が代」法制化反対者が53,6%もいたことに端的に示された。また、この「定着」が「日の丸・君が代」を強要する学校教育の政治的悪用によってつくりだされた事象であることは広く知られている。

 敗戦直後は、戦前への反省から文部相自身が「学習指導要領」は全国的な教育水準を維持するための大綱的基準であり、その内容はあくまで試案・参考案と主張していた。それが1958年の決定で「日の丸・君が代」の掲揚・斉唱が「望ましい」とされ、とりわけ85年9月の文部省による掲揚・斉唱の徹底通知と、各府県の実施状況の調査結果の公表以来、指導要領が法的拘束領をもつという恣意的な解釈とあわせて、職務命令と1000人近い処分者を出すことによって、さらに89年の指導要領の改定が加わり、「日の丸・君が代」が国旗・国家であるというウソが強権的に定着させられてきたのである。

 「教え子を再び戦場に送るな」という初心の誓いを忘却し、次第に強権に屈服させられてきた小・中・高等学校の教員や教員組合の戦後責任を見落としてはならない。しかし、大学教育を担ってきた私は、「学問の自由」と「大学の自治」を憲法と法によって特権的に保障されている国立大学の大半が、「学習指導要領」や職務命令による強要もないのに(名古屋大学の場合は、戦争につながる学問研究と教育はしないという「名大平和憲章」も制定しながら)、Xデー以降、文部省の指示のままに弔旗・日の丸を掲揚するようになった事実を、私は戦後民主主義史上の最大の犯罪・転落と考えている。

 89年1月Xデーの弔旗掲揚への組合主催の抗議集会に際し、目の前の弔旗に一指も触れないまま「我々は弔旗の掲揚を認めないゾ!」とシュプレヒコールする矛盾・限界・欺瞞にようやく気づいた私は、以降、職員組合の抗議集会と別に融資の座り込みの掲揚阻止行動を呼びかけることになった。本部玄関前での掲揚阻止は何度か可能であったが、93年6月、前夜無断で屋上に急遽ポールが立てられ、翌日の皇太子結婚当日、休日出勤の50人もの管理職職員がその事務棟に施錠して立てこもったことで、阻止行動はできなくなった。

 国民の心を権威主義的に支配する掲揚・斉唱反対の運動は、横並びの組合運動でなく、個人の良心的拒否を軸に組み立てるべきであると気づくのが遅かった分が私の戦後責任である。ついでの個人的な体験を書くと、天皇制軍国主義教育を4年余経験した私にとって、NHK受信料を、国旗・国家でない「日の丸・君が代」の犯罪的放映の故に数十年間納入拒否を続けることは簡単であった。法制化後は憲法第19条を根拠とする良心的拒否となるが、NHKは徴収者を々再教育するのかと懸念していたら、99年暮に東京の市民運動のためのワンルームに久しぶりに待望の徴収者が現れた(NHKは理屈を付けて納入拒否をするような人物のところには再訪しない)。名古屋の自宅では数十年間払っていないが法制化後のこれからは「憲法19条の思想・良心の自由により支払いを断ります」と言ったら、「わかりました!」と答えてあまりにも簡単に退去したので、いささか拍子抜けであった。

 話を大学に戻すと、日本の大学・少なくとも国立大学は、天皇制と関わる「日の丸」掲揚問題に関しては、「学問の自由」「大学の自治」の原理・原則を投げ出し、(予算措置で差別されたくないといういささか切実な、しかし次元の低い理由によって)文部省の指示のまえに今や総崩れの状況にある(新潟大学の「日の丸」常時掲揚と儀式の際の「君が代」斉唱決定はニュースになったが、北海道大学では法制化以降「日の丸」の常時掲揚を開始しているが、ニュースにもならないようである)。

 東京大学(本郷)が早くにそうした惨めな大学に変質した当時の学生新聞「東京大学新聞」は、天皇問題特集号の社説(91年1月8日)において、「批判的精神に裏打ちされた自由な学問と言論がその生命であり、それを発揮することが社会的な役割であるはずの大学とは、・・・問題を抱えた天皇制に対してはほとんど無批判であったばかりか、社会の危険な状況に身を委ね、迎合した。私たちは、このように批判力を喪失しつつある大学の未来に、重苦しい不安を覚える。」と書いた。大学までが批判的精神や自治と自由を失うことは、大学の本質と存在理由のまったき喪失と言わねばならない。


3,戦後民主主義教育・平和教育はどういう青年を育成してきたか
 私は、1989年から毎年名古屋大学新入生を対象にアンケート調査を続けてきた。その数字から彼らが高校(予備校)までの教育によっていかなる感性・意識・認識をもった青年につくられているのか、その一端を考察してみよう。

《太平洋戦争をふくむ日本の「15年戦争」=アジア太平洋戦争について、設問に答えてください。》
「日本の敗戦の日は  年  月  日」
「日本の開戦の日は  月  日  日」
「あの戦争で一番長く日本と戦った国の名は   」
「日本と『三国同盟』を結んだ枢軸国は  と  」
「あの戦争で命を奪われたアジアの民衆の数はおよそ〈500万、1000万、2000万〉」。

 「15年戦争」の敗戦の日は、10年余の間ほぼ一貫して70〜80%台の正解率であるのに、同じ戦争の開戦の日の正解は、0〜2%という衝撃的な結果は一貫して不動である。中国の青年は、同じ日を「9・18事変」=「柳条湖事件」の日として誰でも知っているのに、日本の青年は同じ「満州事変」の日をほとんど誰も知らないで、果たして日中の青年の対話や交流は可能となるであろうか。また、「三国同盟」の国名というガラクタ知識は毎年90%前後の正解をする名大生が、大変な惨禍と迷惑をかけた侵略戦争の相手国を50〜60%(99年は54%)しか知らず、その戦争で「命を奪われたアジアの民衆」のおよその数の選択になると、30〜40%(99年は28%)しか知らない。つまり、ガラクタ知識はあっても、多大な迷惑をかけた戦争で基本的なことは正しく教えられていないのである。

 もちろん、こんな青年を一朝一夕に学校教育だけでつくり出すことは出来ない。1.政府自身が長年にわたり15年戦争が侵略戦争であることを否定し続け、長年の教科書検定もその意向にそったものであった。2.マスコミの戦争報道ももっぱら「8・15」に集中・偏向し、3.日本の歴史教育は、ドイツとは対照的な近・現代史軽視の受験対策教育に歪められ、4.「平和教育」も日本人の被害体験の教育に偏向し、加害意識と戦争責任意識を決定的に欠如してきた。そのため、5.日本では「南京がなければ、ヒロシマはない」という単純明快なことが未だに分からず、6.明治以来の近代化の道のりが「脱亜入欧」路線であったことから、日本人の目は一貫してアジアに向いてこなかった。これだけ多くの複合的な要因によって、日本の学生の右記のような歴史認識は形成されているのである。

 つぎに、「日の丸・君が代」にかかわる調査の中で最も衝撃的な数字は、99年の《第2次世界大戦で日本と一緒に「侵略戦争」を行った旧枢軸国のドイツとイタリアでは、戦後、国旗と国家を見直している事実を教えられたことがありますか?》の結果である。この問題は、戦後日本が戦争責任の問題と真剣に取り組んでこなかったことにかかわる象徴的な事実であり、広島の校長の自殺事件を含めて、未だに日本で「日の丸・君が代」問題が続いている事実を若者が理解する上での大事な知識であるのに、教えられたことのある学生はわずか3%であった。同様に99年の後期の受講生を対象に(国旗・国家の法制化が問題になるまで、多くの学生は「日の丸」が日本の国旗であり、「君が代」が国歌であると思っていたようですが、あなたは?》と問うたのに対し、「そう思っていました」を選んだ学生が89%、つまり9割近い青年がウソの教育に騙されてきていたのである。

 私の新入生アンケートは沢山の設問を用意したもので、92年からは「朝日」「毎日」「読売」「中日」などの新聞が毎年調査結果の報道を続けているが、その見出しは「敗戦日知らぬ3割も」「驚くべき歴史への無知」「憲法改定を47%」「時代の変化に鈍感とは」「ミスコンは差別でない!?」「意見ちぐはぐ大学生」「保守・伝統への回帰では」「現代っ子は神秘が大好き」「4人に一人超能力信じる」「男女平等意識ことしも希薄」「制服着用は前向き」等と一貫して否定的・批判的なものとなっている。

 この中で次の「四」の記述との関わりでとりわけ私が不安なのは、九割の学生が日本の「学校は収容所のよう」と答えながら、中学・高校の制服着用については約八割が「制服が自然」「制服はあってよい」と答えている事実である。これについては、今年一月の「中日新聞」連載〈ギャップ討論〉でも、「没個性の象徴とも言える〈中学・高校の制服〉について・・・予想外だったのは40台を中心とする大人の側からは『制服は不必要』という意見が大半を占めるのに対し、当の中高生をはじめ若い世代の意見は『必要』というものがほとんどだったことだ。」と報道されており、彼らは管理主義教育によって自分が集団の中に個を埋没して安心する「みんな一緒病」の未熟な青年につくられていることが自覚できないのである。


4,なにが求められているのか −戦争責任意識と「人道に対する罪」−

 「日の丸・君が代」問題の本質は、戦後日本の社会と国民がかつての侵略戦争・植民地支配の戦争責任と、誠実・真剣に取り組んでこなかった事実と不徹底な戦後民主主義が差別の総元締めの象徴天皇制を許容・放置してきた事実の象徴そのものである。教育による「日の丸・君が代」強制に新たな根拠を与える法制化の実現は、戦争責任問題の凍結・封印を促し、戦後民主主義をさらに希釈化する危険がある。こうした事態に私たちはどう立ち向かい、どうあることを求められているのか。

 国民の戦争責任を問うということは(戦争責任の重さに位相的な差異のあることは自明の前提である)、国民が歴史と社会と教育を主体的に担う自己責任意識に目覚め、時代や社会や教育に流されっぱなしの人生から、民主主義社会の主権者としての地位に目覚め、その地位を確立することを意味する。戦争中や戦争への道のりにおける国民の「不作為の責任」も同じ問題である。88年の「水晶の夜」(ユダヤ人迫害忌念日)のドイツ保守党のコール首相の「大多数のドイツ国民がユダヤ人迫害に(当時)沈黙を守っていたことを、我々はいまだに苦痛とし、恥とする」「この迫害を記憶にとどめることは、我々の子や孫に対する責任でもある」というスピーチは、それを語ったものである。

 壺井栄『二十四の瞳』の大石先生は、「歴史を空行く雲のように眺めている」」だけの職業人であったために、愛する12人の子どもたちを守ることができなかった。支配的な学校教育が現状への適応や順応を説くばかりで「希望を語」ってくれず、学習が「誠を胸に刻むこと」につながらない近代社会において、私たちが戦争責任の主体としての自己責任意識に目覚め、(権力者の望む)時代と社会と教育に流されっぱなしの漂流する人生ではなく、「歴史に働きかける力」(宮本百合子)をもった真の主権者・デモクラットとしての自己を確立することは、絶望的なまでになお困難な問題である。その道のりにつながると推測される私たちの生き方を、「人道に対する罪」を手がかりにして考察してみよう。 私が93年の「ノーモア731部隊・展」を手伝ったときの経験で一番印象に残ったのは、証言コーナーに登場した中帰連会員が、こともなげに「戦争には組織者と命令者と実行者が必要であり、私は実行者の一人として、マルタ731部隊に送った責任がある」と語ったことである。渡した国民自身の戦争責任を問題にすることに対して、それは「一億総懺悔」論と同じであるという的外れな反発を革新陣営からまで受けていただけに、印象的な話であった。中国の戦犯政策が教えたこの戦争責任論は、そのまま第2次世界大戦後の国際軍事裁判所が新設した「人道に対する罪」の考えと同じであり、上官の命令に基づく戦争犯罪行為の免責を認めないというのが世界史の現在なのである。

 近年の判例の場合では、「ベルリンの壁」が存在していた当時の東独国境警備兵の職務としての射殺行為が「壁」の崩壊後に裁かれた際、「法と命令に従っただけ」という被告弁護側の主張はとおらず、「上からの指示で人の命を奪う状況に直面した場合、良心を放棄することは、20世紀も終わりを迎えたいま、もはや許されない」という判決であった。つい先日のNHKのETV特集「アイヒマン裁判と現代」も、社会にうまく適応し、組織の一員として命令に忠実に「ユダヤ人輸送」の職務を遂行した有能な官僚・アイヒマンの犯罪の意味を今日に蘇らせたものであった。政治的国家と市民社会が分裂する近代社会では、生活のために組織の有能な歯車となって、職務の目的の脇において有効な手段・打開策を工夫しながら、場合によっては人一倍働く私たちは、常に「潜在的アイヒマン」となる可能性・必然性をもっているのである。どんな状況においても、私たちは自分の行為・行動とそれがもたらす結果を正しく考え判断する力(一般教養)をもつことを求められていることを伝える貴重な番組であった。出演した監督自身がイスラエルに反逆して兵役を拒否した不服従の人であるだけに、説得力があった。

 国旗・国家が法制化されたことにより、小・中・高等学校の教員は「日の丸・君が代」は国旗・国家なのだからという重圧と、場合によっては管理職の職務命令によって、国旗・国家の掲揚・斉唱の職務遂行を求められることになる。しかし「上からの指示で」、子どもの権利条約の「思想・良心・宗教の自由」「意見表明権」を蹂躙する「状況に直面した場合、良心を放棄することは20世紀も終わりを迎えた」いま、教員はそれを許されるのか。子どもの思想・良心の蹂躙の意味を「在日」の生徒の特例等と考えてはならない。

 そもそも、教育論から考えて、両者が侵略戦争のシンボルや天皇治世の賛美であるという許容しがたい意味を脇においたとしても、一斉に「日の丸」の布きれに頭を下げたり、掲揚中に直立不動を求めたり、日本古歌をお経のように歌わせることは教育の営みといえるのか。半世紀前の「教育勅語」奉読のマインドコントロールとどこが本質的に異なるのか。教育=学習とは、マルクスが社会「環境そのものがまさに人間によってこそ変えられる」と強調したように、現在の社会のあり方や常識に学習者が疑問や批判をもって、社会や慣習・常識自体を改めていくよう志向したり努力することを励ますことで、「教えとは希望を人に語る」可能性をもつものである。生徒を日本人に限定しても試合を「戦う前に歌う歌じゃない」というサッカーの中田英寿ならずとも、多様な感性・感覚を持った子どもたちに、57%もの国民が法制化に反対していた歌が法制化されたからといって、低学年児童には意味不明の歌を、一律・画一的に斉唱させることは教育ではない。子どもの疑問や反発を頭から押さえ込み彼らの思想・良心の自由な発動を抑圧する教育実践は、家畜の調教そのものである。

 「日本の学校は捕虜収容所だ−遅刻で殺され砂浜で生き埋め」(イギリス紙)と世界に報道されるように、(地震でもないのに、常時)「気をつけ!」(ること)を求め、教育としては最悪の「右へならえ!」「前へならえ!」という号令にはじまって、標準服というなの制服強要を代表格として、程度の差はあっても個の人格と個性を圧殺する集団訓練・教育がクラスや学校としての「まとまり」という名のもとに、なお日本の学校にはまかり通っている。「教育基本法」にある通り、教育は個人の価値をたっとび、「右(前)へなら」わない。「自主的精神に充ちた心身」をこそ伸ばす仕事である。生徒が自分で物事を考え、自分で判断し、だからこそその結果に責任を持つように励ます仕事である。つまり、国旗・国旗の掲揚・斉唱の教育実践は、日本の悪しき集団主義を解体するのではなく、逆に集団同調の強化さえもたらし、日本の生徒が社会や組織に順応に適応し、組織の一員として手段に埋没して行動する訓練を無意識的に積み重ねることを意味する。その教育は、子どもが主権者意識や独立した人格に目覚めることを確実に遅らせ、日本の青年が再び「人道に対する罪」を犯すようになることを励ます「潜在的アイヒマン」育成の教育そのものである。

 教育とは、子どもたちが回り道をしながらも思想・良心・信仰の自由の主体として成長・発達することを励ます仕事であり、ひたすら適応と我慢を教える受験競争教育体制の画一強制教育によって、彼らが自分なりの感性、ものの見方・考え方、思想・信念を持った人間そのものとして成長・発達することを妨げることは教育犯罪そのものであり、戦前同様に再び日本の教育が巨大な戦争責任を背負い込む道である。

 「思想・良心・信仰の自由」は民主主義社会と近代国家における最大の基本的人権であり、近代人の主体性と個人の尊厳の最大の拠り所である。アメリカの国旗敬礼拒否(二千名の児童が退学処分)の1943年のバーネット事件の最高裁違憲判決や、国旗保護法の違憲判決をもたらした89年の星条旗焼却事件の経緯を見ると、国民の権利は、それを侵害するものとのたたかいの積み重ねによってはじめて確立していくものである。蓆、国旗・国家の強制とのたたかいを通して、日本の民主主義緒はこれからようやく鍛えられ成熟のみとを歩むチャンスを迎えていると考えたい。守勢ではなく、攻勢的に考えたい。

 「1」で論及した五十嵐顕は、死の前年になる最晩年の書簡において、自己批判の思いをこめて、日本の思想に「もっとも欠けているものは、良心にしたがって立ちあがる抵抗の精神です」と書き、戦前の知識人と日本の文化と教養が著しくそうであったと批判した。これは翌1995年12月の《アジアに対する日本の戦争責任を問う民衆法廷》の判決文の結語「私たちは、国家の不条理な命令、指示、指導に抗し、従わず、協力しない「不服従」「抗命」の権利と義務が、基本的人権の一つであることをここに宣言する」の精神を見事に先取りしたものと言えよう。


(やすかわ じゅのすけ・日本戦没学生記念会事務局長)

 

表紙 > バックナンバー > 第12号 >  「日の丸・君が代」法制化と戦後民主主義教育

 

●このサイトに収録されている文章・画像・音声などの著作権はすべて季刊『中帰連』発行所に属します。
 無断転載を禁じます。
●ご意見・ご感想は
tyuukiren(アットマーク)yahoo.co.jpまでお寄せください。
●迷惑メールを防ぐため、上記「(アットマーク)」部分を「@」に変えて送信してください。