最終更新日:2004年03月31日

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表紙 > バックナンバー > 第8号 > 特攻とは何か

 

小林よしのり『戦争論』を考える

上杉聰


 

若者に届く批判は可能か

 小林よしのり『戦争論』が評判という。日本の侵略戦争を肯定し、「戦って破れてなお我に正義はあったのだ!」(312頁)と言い切る400頁近い大作漫画である。この本が大量に売れているらしいということで、いくつかの雑誌が特集を組み、「朝まで生テレビ7!」も討論のテーマに取り上げた。いずれも内容ある主張や批判が多かったが、若者にむつかし過ぎ、そこに届いていないように思われる。

 彼の読者にはかなり中高生が含まれている(これはさまざまなデータが裏付けている)。小林よしのり氏は、こうしたまったく戦争を知らない「戦争白紙世代」−しかも恐ろしいのは、戦争に行き、死ぬのは当の若い世代である−に戦争に関する真剣な言説をマンガの力を借りて持ち込んだことである。戦争を批判しようとする者は、すでに議論の舞台そのものが新しい世代に移ってしまっていることを考えに入れるべきだろう。

 ナショナリズムは三つの段階で浸透していくと言われる。「支配者」から「文化人」、そして「大衆」である。日本の場合、一九八〇年代に「支配者」が右傾化し、九〇年代の今は、「知識人」が右傾化しているという。次は「大衆」であるが、何よりもその担い手は若者となる。今は漫画を読み、迷彩服スタイルで戦争気分に酔っているだけであっても、多感な年代に強烈な漫画でイメージを植え付けられた彼らが、五年後、一〇年後に学生や社会人となり、発言権を得ていくときどうなるかという保証は誰にもない。

 戦争体験を持つ方々の話によると、若い時代に漫画『のらくろ』や『冒険ダン吉』で戦意を高揚させた体験を持つという。人々は高尚な思想で戦争するのではない。漫画や映画、教育や儀式、遊びなどを通じた単純な世界観の注入と順化が人々を作り変えるのである。

 漫画という媒体と対抗するために、どのような方法がありうるのだろうか。まず批判をする場合、漫画の引用ができなければならない。批判するに、その対象を明示できないでは論争にならないという問題がそこにある。漫画の主張は、絵を含めて行われている以上、批判のための引用も認められるべきなのである。

 私は、かつて小林氏の漫画を絵を含めコマ単位で引用、批判して『脱ゴーマニズム宣言』(東方出版)を出版した。これは、大変に分かりやすいという評判をいただいた。ところが、小林氏から著作権をめぐって訴訟が起こされ、現在係争中である。右の雑誌の『戦争論』批判特集で一つも漫画の引用は行わなれなかったが、もし引用されていたら、もっと分かりやすい批判となっていただろう。

 ただ、漫画の絵の引用が法的に可能かどうかの判例がまったくないため、おそらく、この裁判の判決が出るまで行方を見守ろうということだろう。かくいう私もここで彼の漫画を引用して批判を書きたいが、弁護士から自重するよう言われている。今年末には判決が出るかもしれない裁判に当面力を注がざるを得ない。

 第二に、漫画に対抗するには、私たちの表現形式や媒体を工夫する必要がある。ただし−これが一番重要なことなのだが−表現の形式以前の問題として、シナリオやモチーフに当たるものこそが重要である。画像化すれば人々、とくに若い人の心に自動的に染み込むとは限らない。加害責任を問う連動は、残念ながら、まだ深い思想を成熟させていない。私たちが次の世代に伝えるモチーフを、右派勢力との格闘の中で明確にしていかなければならない段階にある。そうした努力の中で表現上の工夫の試みを広げなければならないだろう。


小林漫画のシナリオ・ライター

 小林『戦争論』を読んだ若者に対して、まず言わねばならないことがある。それは、「これがウヨク」ということだ。ウヨクというのは、何も宣伝カーを走らせている人たちばかりではない。たとえば自民党にもそうした議員が相当数いる。その代表選手の一人である板垣正参議院議員(昨年引退)は、小林氏とそっくりに次のように書いている。

 「戦後、占領政策と左翼偏向に基づく教育の影響力の大きさを思い知らされる……次代の青年や子供達に自国の歴史に対する誇りも、日本人として生きる喜びももたらすことの出来ない教育は、間違っているといわなければならない。まして、一方的に日本を断罪し、自虐的な歴史認識を押しつけるに至っては、犯罪行為と言っても過言ではない」(歴史・検討委員会編『大東亜戦争の総括』展転社)。

 板垣氏は、A級戦犯として絞首刑に処された板垣征四郎・元陸軍大将の息子である。右の「誇り」「自虐」「断罪」などの語は、小林氏が漫画によく使う言葉だ。板垣氏が中心となって呼びかけて開かれた自民党の「歴史・検討委員会」(右に引用した本は、そのまとめ。1993年10月−95年2月)に文化人として招かれて参加した人々に、江藤淳・小堀桂一郎・西部邁・西尾幹二・高橋史朗・田中正明・上杉千年・中村粲・長谷川三千子などの各氏がいる。今、小林氏は彼らと一緒に活動している。

 彼ら右派文化人を陰であやつるもう一人の政治家に奥野誠亮・衆議院議員がいる。彼も「戦後、占領政策ならびに左翼勢力によって歪められた自虐的な歴史認識を見直し、公正な史実に立って、自らの歴史を取り戻し、日本人の名誉と誇りを回復する契機とする」(戦後五〇周年国会議員連盟の活動方針)と主張している。これも小林氏とそっくりの主張だ。

 奥野・板垣両氏は、1996年6月になると、教科書への「慰安婦」記述を削除しようと、明るい日本・国会議員連盟(自民党国会議員116人、会長・奥野氏、事務局長・板垣氏)を発足させた。これに応えて、自由主義史観研究会の藤岡信勝氏は翌7月から「慰安婦」問題への関わりを始め、小林よしのり氏も跡を追って翌8月から『SAPIO』に「慰安婦」問題を描き始めた。小林氏がその時描いた中身は、先の上杉千年氏など右派文化人の力を借りたものである。

 こうしたウヨク政治家と、それに踊らされる文化人という構造がまずある。そしてそれらを下から支えているのが日本会議や日本遺族会など戦争賛美団体、また神社本庁・生長の家などの宗教団体、そして右翼団体である。これら全体は、首都で2000−3000人を集会に動員したり、本ならば10万−20万冊を組織買いできる力を持っている。たとえば小林氏などが呼びかけて作った「新しい歴史教科書をつくる会」が今年夏に出版する予定の『国民の歴史』は、一年前にもう10万冊の予約注文を受けているが、全体わずか10人によるもので、そのうち一人は5万冊を注文している(『季刊・戦争責任研究』第22号)。その半年後に、予約は23万部を突破したという。

 小林氏は、こうした組織が動員した集会に出席し、実態を知らないで、「流れが変わり始めているな!」(『SAPI0』1998年7月8日号)と喜んでいる。『戦争論』も、当然かなりを彼らが購入していると考えられる。

 こうして小林氏は右派政治家や文化人、右翼組織や団体に支えられ、彼らの考えと立場をやさしく大衆に宣伝する広告塔となっている(なぜ彼がそうなったかは拙著『脱コーマニズム宣言』をご覧いただきたい)。「作・右翼文化人/絵・小林よしのり」という形が今の彼の漫画の実態なのだ。少なからずの若者がこうした事情を知らないまま、彼らの集会に引き付けられるに至っている。首都でその数はもう500人を超えていると推測する。


小林批判の核心とは

 小林『戦争論』に描かれている主張のほとんどは、このような旧態依然とした右翼思想のオン・パレードである。元右翼である私の知人によると、「まだ同じ事をやってる−っ!」というのが感想である。したがって、彼の個々の主張への批判は、そうした右翼の論調全体を批判する射程の中で行われる必要がある。そこは他の筆者がやってくださると思うので、ここで私は彼の主張の根幹に当たる部分を批判しておきたい。

 分厚い小林『戦争論』だが、その中に一コマも描かれていないものがある。むしろその方が問題なのである。それは、日本軍によって傷つけられ、殺されていった「アジアの人々の思い」や、日本軍に立ち向かった人々の「考え」である。全編、日本人がどのように戦ったのか、その姿と一方的な思いだけを描いたのが小林『戦争論』である。「戦争論」と銘打つためには、少なくとも今となっては、戦った相手が当時どのように思い、何を考えていたかを描き、それと照らし合わせて自己の思いを整理して描かなければならない。たとえば彼は「戦争には痛快な面もあった」と描くが、日本が痛快に勝っているときは、負けて「惨め」な思いを抱いている相手がいるという、きわめて単純な事実が分からない。これは、「相手のいない戦争」論なのである。

 「わしが『戦争論』を描いた理由」(日本会議『日本の息吹』1998年8月号)と題したインタビューで、彼は「わしが人情を寄せる相手というのは基本的には日本人です。だから『ハルモニ』(「慰安婦」)とかには情が沸かないんです……わしはそこまでは自分の共感の意識は伸びていかない。共感できる範囲は日本人までが限度です」と、公然と語っている。

 こうして彼の漫画には、あの戦争で日本人によって殺された2000万人を超すアジアの死者(少なくとも日本人の死者の約7倍以上。江沢民氏は中国だけで3500万人と来日時に述べた)が描かれていない。日本人が侵略するはるか以前から東南アジアに広がっていた独立運動の主体である人々の姿も描かれていない。だから、日本に抵抗したり妥協したりして独立運動を進め、戦後目的を果たしたアジアの人々の実態が見えてこない。こうして「日本軍が行ったのはアジア解放戦争であった」という、こっけいな井の中のカワズのような雄叫びが漫画全編に響きわたる。

 この考えを「自慰史観」とでも銘打って大いに茶化したい。だが、こうした傾向は何も彼だけの特性ではないことに注意すべきだろう。日本人は天皇制によって、その共感できる範囲を自国内に縛られてきた歴史を持っているが、彼の感覚は実に平均的で典型的な日本人そのものである。そして、今の若者も例外でないことに注意したい。

 また彼は、「国の範囲で公共性というものを考えなければ」(同左)ならないとも言う。「公」を「国」の範囲に限定するこの偏狭な立場も、右の自慰史観からくるのだが、これは現在の国家が、経済・環境・情報や人口などの相互乗り入れを止めようがない現実の中ではとても成り立たない主張となる。「公的空間は日本国家の範囲」とするならば、今起こっている問題は何一つ解決もしないし進展もしない。うっとうしい問題は避けて一人だけの部屋に閉じこもりたいという願望は理解できても、そこはもう「公」ではなく「私」的空間に過ぎなくなる状況が日々進んでいる。

 こうした現実に目を覆い、自閉する傾向は、テレビゲームに育てられた若者に共通するものかもしれないが、ますますボーダーレス化する現実の社会で、正面からそれに向かって生きて行こうとする多数の健康な若者には、幼児への退行と映り、無邪気で非現実的な主張と感じる者も多いのではないか。


「個」の不安を「国家」で解消

 ただ元右翼の知人に言わせると、小林漫画や「新しい歴史教科書をつくる会」の動きには、古さとともに、それとは違った熱狂的な匂いも感じるという。つまり、伝統的な右翼思想に、現在特有の新しい側面がそこにつけ加わっている。

 テッサ・モーリス=鈴木氏は「グローバルな記憶・ナショナルな記述」(『思想』1998年8月号)で、今ナショナリズムが世界各国で起こっており、これを「ナショナリズムのグローバル化」と呼び、日本でもそうした動きがあるとする。

 それらの背景の一つは、経済・人口・環境問題・通信・スポーツなどの地球規模化・ボーダーレス化であり、もう一つは国内の伝統的な家族・共同体などの変質や解体である。戦後半世紀間に進んだこうした内外からの「国家の溶解」の事態に、不適応の症状を呈したものとしてネオ・ナショナリズムが各国で起きているというのだ。それらは、何か積極的な目新しい右翼思想を持っているわけではなく、いずこも古臭い思想を倉庫から出してきている点で共通している。他国と複雑に連動する国内経済、流入する無数の外国人、すでに一国の手に負えなくなってしまった環境問題、インターネットの中を飛び交う世界の情報、多国籍人が繰り広げるスポーツ・娯楽、そこに日本ならば戦争に関するアジア諸国からの非難や、家族・企業における男女の役割分担の崩壊などが重なる。

 これら押し寄せる人・物・情報や人間関係の改変の中で、とくに若い世代がアイデンティティ・クライシス(自己同一性の危機)を感じていることが事態の根底にある。古い世代は、これらに対して鈍感でいられるし、出来あがってしまった自我は簡単に揺らがない。しかし、一部の右翼的な思想(国家主義)を持つ人々や、グローバル化について行けない人々、あるいは進行する変化の中で自己を確立する処方箋を与えられていない若い人々が、危機感や不安をもって「国家の溶解」を阻止しようとし、あるいは国家に擦り寄ることによって「自己の確立」を実現しようとする。右翼思想と若者が出会う場がここに出来上がっている。

 現に小林『戦争論』には、対外的な戦争とは別に、日本社会内部の問題点に目をやることから国家主義へと至る展開がかなりを占めている。漫画のあちこちに散りばめられたその論理をつないでみると、まず「共同体が崩壊し自由になった個」「『公』の制約なき自由な『個』」が、「個をぐらつかせ」「浮遊する個」となっているという現状認識を述べる。そして「公を離脱する個は獣をしみ出す」として、現代の少年事件や援助交際などの弊害が生まれる原因を強引に「説明」する。そこから、彼は「関係性の中で人は人になる」という一般的には正しい命題を根拠にしつつ、さらに論理を飛躍させ、「『個』は『公』という制約の中で育まれる」「『公』とは『国』のことなのだ」「ちゃんと個人を考えるなら『国』を考えるべきなのだ」と短絡させる。こうして、特攻隊を「公のためあえて個を捨てたのだ!」とし、国のために死ねる者こそ個を超越できる、と結論付ける。

 この論理には、大きな誤りと飛躍がある。「人が人となる関係性」とは「個と個の関係」が基本だが、それを「個と公の関係」とすり替える誤りは重大だ。そこから「個」と「公=国」を直結させる所へと飛び上がるのだが、「個」は「公」に直結するものではない。「個と個の関係」の中にこそ「公」が芽生えるのであり、その関係性の全体が「公」なのである。また「公」に矛盾するとき、「国」のあり方も改変させられる必要がある。「公」は「国」と同じでもなければ、「国」の範囲に閉じ込められるものでもない。

 とはいえ、ここには、「個」を抱えて不安を感じている現代の若者をとらえる彼の独自の目があるというべきだろう。外圧にさらされるのみならず、日本社会の内部で共同体が崩壊することによるアイデンティティ・クライシスに脅かされた若者を彼は見つめている。彼が単なる古い右翼思想のオウム返してない独自性は、唯一ここにあると言って良いかも知れない。彼は「個を安定させるには、いろんな角度からの『しばり』がいる」と個の自立を否定し、「歴史を失って個をふらつかせる日本の若者」を歴史のタテ軸でしばるとともに「共同体のヨコ軸」でしばらねばならない(『新ゴーマニズム宣言』第4巻「あとがき」)とする。これが、学校という「公」のしばりによって「個」を育てられてこなかった現代の青年を新たに国家という公に新たにしばり直す彼の国家主義思想である。

 しかし、本来ならば、ここで彼が提出しなければならないのは、失われていく共同体の代替物をさがすことではない。先に述べた「国家の溶解」という事態は、これからもつづく、後戻りできない現実である(たとえばEUの通貨統合を見よ)。ならば、私たちは個をいっそう充実させ、確立させるとともに、個と個を結び付ける新しい関係づくりの処方箋をこそ探るべきなのである。個と個が力を合わせて新たな公を不断に生み出す営みが歴史なのである。小林氏の言う「個をしばる」発想からは、歴史をわずかでも創造することはできない。小林『戦争論』は、若者を、右翼が作り上げた「国家と歴史」にしばりつけ、奴隷にしようとするものなのである。

(うえすぎさとし・日本の戦争責任資料センター事務局長)

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