最終更新日:2004年03月31日

○ 更新履歴 ○

○ 中文(簡体字)簡介 ○

○ お問い合わせ ○


 中国帰還者連絡会とは?
 中帰連関連文献集
  バックナンバー
 
定期購読はこちら
 季刊『中帰連』の発刊趣旨

 戦場で何をしたのか
 戦犯管理所で何があったのか 
 お知らせ・活動紹介
 証言集会を開催します
 受け継ぐ会へ入会はこちら
 受け継ぐMLへのご登録

 


表紙 > バックナンバー > 第7号 > 731部隊の簡単な歴史


七三一部隊の簡単な歴史

常石敬一


 

防疫研究室

 七三一部隊は旧日本陸軍の、医学者・医者を中心として構成されていた部隊だ。その発足から日本の敗戦によってその活動を終えるまでの十年くらいの間に約三千人の人々を生物兵器開発のための人体実験で殺していた。部隊の本部は中国ハルビンの郊外平房に置かれていた。

 七三一部隊の発祥の地は東京だった。その母体となったのは陸軍軍医学校防疫研究室だった。防疫研究室は創設者の石井四郎(当時軍医大尉)が二年間の欧米視察旅行を終えて帰国した二年後、一九三二年八月に発足した。発足までの経過は一九三六年に陸軍軍医学校が出版した『陸軍軍医学校五十年史』によれば次の通りだ。


 防疫研究室は国軍防疫上作戦業務に関する研究機関として陸軍軍医学校内に新設せられたるものなり。此新設に関しては昭和三年海外研究員として滞欧中なりし陸軍一等軍医石井四郎が各国の情勢を察知し我国に之が対応施設なく、国防上一大欠陥ある事を痛感し、昭和五年欧米視察を終え帰朝するや、前記国防上の欠陥を指摘し之が研究整備の急を要する件を上司に意見具申せり。爾来陸軍軍医学校教官として学生指導の傍ら余暇を割き日夜実験研究を重ねつつありしが、昭和七年小泉教官の絶大なる支援の下に上司の認むる処となり、軍医学校内に同軍医正を首班とする研究室の新設を見るに至りしものなり。昭和七年八月陸年軍医学校に石井軍医正以下五名の軍医を新に配属せられ防疫研究室を開設す。

 防疫研究室を設けた理由は、諸外国には既に存在しているが、「我国に之が対応施設」がないためだとしている。しかし当時、軍医学校には防疫研究室と似た名前の組織として防疫学教室と防疫部があった。防疫学教室は大学の医学部などでの細菌学教室に相当しており、また防疫部はワクチンの生産を受け持っていた。名前は別だったが防疫学教室と防疫部は通常、防疫学教室・防疫部と表示されており、石井が帰国後配属されたのもここだった。その時この部門を統括していたのが梶塚隆二だった。梶塚は敗戦時、関東軍軍医部長であり、七三一部隊を監督する立場にあった。梶塚は敗戦後ソ連の捕虜となり、一九四九年末にハバロフスクで裁判を受け、懲役二五年の判決を受け、服役した。

 防疫研究室は発足翌年の一九三三年八月には、軍医(研究者)七人、その他の要員三五人の大所帯になっていた(「防疫学教室・防疫部現況報告」一九三三年)。防疫研究室はこんな大所帯で何をするのか。石井の研究室について「状況報告」はその人員数を明らかにしているだけで、その他については「石井軍医正を主任として一切を挙げて其の裁量に委ねつつあり(細部に関しては直接同官をして報告せしむ)」としている。このことから、石井の防疫研究室と、従来からあった防疫学教室・防疫部とは名前は似ていても、任務は大分違うと想像できる。


中国出張

 石井の防疫研究室が発足した一九三二年八月の五ケ月前の三月に日本の傀儡国家「満州国」が発足していた。『五十年史』によれば一九三二年八月から一九三四年三月の約一年半の間に、防疫研究室の軍医六人全員が中国東北部に出張している。さらに『五十年史』は「石井軍医正の業務援助の為嘱託四名、雇員四名、傭人二七名満州国へ出張す」と書いている。軍医以外に三五人が中国に出張している。これは数字的には防疫研究室の全員が一九三二年から三四年にかけて中国東北部に出張している、ということだ。防疫研究室の発足当初から部屋をあげて中国東北部で活動したことが分かる。何をやったのか。一九三二年八月に関東軍作戦参謀に就任し、その翌年に何回か石井たちの活動を視察した遠藤三郎(当時中佐)は、翌年十二月八日の日記に次のように書いている。


十二月八日(金、降雪)

午前十時十五分拉林着。石井及伊達氏に迎えられ、背陰河の細菌試験所を視察す。六〇〇メーター平方の大兵営にして、一見要塞を見るが如し。一同の努力の跡歴然たり。二〇数万円の経費亦止むを得ざりしか。

 遠藤はこの視察について、四十年後に発表した『日中十五年戦争と私』に次のように書いている。


 被験者を一人一人厳重な檻に監禁し各種病原菌を生体に植え付けて病勢の変化を検査しておりました。如何に死刑囚とはいえまた国防のためとは申せ見るに忍びない残酷なものでありました。死亡した者は高圧の電気炉で痕跡も残さないように焼くとのことでありました。


東郷部隊

 石井たちの活動の拠点、背陰河はハルビンの南方約七〇キロに位置していた。また部隊名は東郷部隊だった。隊員の一人、北條円了は戦友会の会誌(『東郷会誌』)に次のような回想文を寄せている。


 背陰河は匪賊の根拠地であったとかでほんとに寂しい所で十数軒の満州家屋のある小部落でした。関東軍司令部の選んでくれた此所に石井大佐を始め軍医学校防疫研究室附の軍医数名、雇員若千名と共に満州出張の形で背陰河に行き某所の住民を隣村に立ちのかせ部落の内で大きな数軒を選んで家内を改造し、軍医学校の防疫研究室に似た研究室に改造したのでした。此の当時石井部隊は機密保持上皆氏名を変更して石井さんは東郷大佐、私は大山少佐でした。……昭和十五年夏頃でしたが、此の研究室は余りに不便で非常に狭くて十分な研究が出来ないので、石井部隊長は陸軍省に意見具申してもっと大きな研究所に改装する事になった。

 現地の人々の財産を収奪してそれを部隊の施設とするというのは、その後も繰り返される。改装され大きくなった研究所が平房の関東軍防疫部、満州第七三一部隊だった。一九三二年から四年間の石井たちの活動を『五十年史』は次のように書いている。


防疫研究の基礎進むに随い、防疫の実地応用に関し石井軍医正は万難を排し挺身満州に赴き、防疫機関の建設に関して盡瘁せり。而して該研究の実績挙るや、内地と不可分の関係に在る在満各部隊の防疫上行軍作戦の要求を満たす必要上、昭和十一年遂に防疫機関の新設を見るに至れり。同機関は内地防疫研究室と相呼応して皇軍防疫の中枢となるは勿論、防疫に関し駐屯地作戦上重要なる使命を達成せん事に邁進しつつあり。

 「防疫の実地応用」とは遠藤が書いている「病原菌を生体に植え付けて病勢の変化を検査」すること、すなわち生物兵器の研究・開発だった。防疫学教室および防疫部に加えて、新に設立された防疫研究室の任務は生物兵器の研究開発だった。一九三二年に防疫研究室が作られるまで、日本には生物兵器の研究開発をする部門はなかった。その意味で、一九三二年八月から日本は生物兵器の研究開発に取り組み始めた、と言うことができる。

 石井は軍医学校の防疫研究室での研究と、「満州国」での人体実験とを不可分のものと考えていた。場所は人体実験ができる所なら「満州国」でなくとも良かった。

 石井が生物兵器開発の当初から人体実験を不可欠のものとしていたのは、彼が考えていた生物兵器の攻撃対象が人間だったためだ。人体実験ができれば開発した兵器が有効かどうかの判定が早くまたより確実になる。またその兵器を使用するためには、そこで使われている病原体に対するワクチンを開発する必要がある。この時も、人体実験ができればその開発の速度は飛躍的に上がる。日本の傀儡国家が防疫研究室発足の数ケ月前に作られていたことは、石井にとっては願ってもないことだった。

 東郷部隊は陸軍の正式の部隊ではなかったが、関東軍参謀部の下で活動していた。隊員数は数十人で、うち医者は十人以下で全員軍医だった。軍医全員が秘匿名を使用していたのは、この段階では失敗の可能性も考えていたということだ。それ故に陸軍の公式の部隊とせず、関東軍参謀部の下に置かれた秘密部隊とし、失敗すればその存在を跡形もなく消し去るつもりだったのだ。

 こう見ると東郷部隊は人体実験の実行可能性を調べるための部隊だったことが分かる。数年間にわたる東郷部隊での人体実験の実行によって確認しようとしたのは以下のような点だっただろう。医学者・医者は人体実験を行うことに躊躇しないかどうか。憲兵の協力の下で人体実験の犠牲者を集めることは可能かどうか。人体実験によって医学上の正確な結論が容易にまた迅速に得られるかどうか。そして最終的には人体実験を組織的に実行することに意味がありまた可能かどうかを確認しただろう。その結果として、東郷部隊は陸軍の正式な部隊、関東軍防疫部として一九三六年に発足した。


部隊正式発足

 部隊の正式発足は、防衛庁の戦史資料室が保管している「陸満密大日記」の中の、一九三六年四月二三日付の「在満兵備充実に関する意見」という関東軍参謀長から陸軍次官に宛てた文書で提案されている。それから一ケ月後、五月二一日付けで参謀本部第一課が起案した上奏文という、天皇に命令を出してもらうための申告文の綴りの中に部隊の発足を認めるよう申請することを示した文書が残っている。その文書は「密大日記」の中の「在満兵備」改善に関する上奏文で、その十項目目に「防疫に関する部隊−人、馬の防疫に関する部隊各一個を新設す」と書かれている。この文書も戦史資料室が保管している。

 関東軍防疫部は軍令「陸甲第七号」によって正式発足した。軍令は勅令と並んで天皇が発する命令だが、勅令と違って「公布」されるものではない。軍令は、「帷幄上奏」という閣議を経ないで参謀総長(陸軍)あるいは軍令部総長(海軍)による天皇への直接の申告に基づいた天皇の命令を言う。

 天皇の命令が出るのは五月二一日以降だが、厚生省が一九八二年になって公表した部隊の記録は「昭和十一年十二月以前については省略」として「十二月五日、ハルビンで第二次編成改正完結」となっている。このことは「陸甲第七号」によって命じられた編成改正が十二月五日に完結し、それは第二次の編成だった、と読むべきだろう。この第二次云々ということから、七三一部隊は天皇の承認を得る前から、半ば公的に活動していたと考えるべきだろう。つまり東郷部隊の活動は、関東軍の参謀部の下での活動であり、石井らの出張は軍医学校の公式のものであり、天皇の承認は受けてはいないが、実質的には陸軍として公的なものだった、ということだ。これによって、形式的には東郷部隊は存在しておらず、その一番の任務だった人体実験の実行可能性の確認が失敗しても、天皇は知らされておらず、責任を問われることはありえない。と同時に非公式な活動であり、石井その他も責任を問われないということだ。

 東郷部隊と七三一部隊とでは規模が全く違うが、それ以上に質的な違いとして大きいのは、研究の主力が一軍医から大学の教員など民間からリクルートした研究者に移ったことだった。七三一部隊への研究者集めは、一九三三年頃から開始されたという。それは石井が中国から一時日本に戻っていた一九三二年九月から翌三三年九月までの一年間に開始されたことを意味するだろう。研究者集めは大学医学部の若手教員を対象に行われた。研究者の第一陣は京都帝国大学からの八人で、彼らの部隊到着は一九三八年春だった。

 七三一部隊が正式発足した翌年、一九三七年日本が中国での戦争を中国全土に広げた。全土とは言っても主に沿岸部で、中国を東西で見た時はせいぜい東側の三分の一程度の地域で戦争をしていた。これは現在日本のビジネスマンが中国で仕事している地域と、全くの偶然だが、ほぼ一致している。いわばわざわざ対日感情の悪いところで商売しているということだ。


ネットワークの広がり

 日本の支配地域の拡大によって石井は七三一部隊の姉妹部隊を中国北部から南部にかけてのいくつかの都市に作ることができた。これら部隊の設立については、防疫研究室が月に数回の割合で刊行していた「防研二部」の第九九号が次のように述べている。

……北支には石井大佐が事変勃発当初、支那側細菌工作の中心たりし、北京天壇中央防疫所を占拠して始め、現陸軍軍医学校教官菊池大佐を長とする北支那防疫給水部を、中支那南京中央病院には昭和一四年五月中支那防疫給水部を、南支那には同年同月広東中山大学内に田中巌大佐を長とする南支那防疫給水部等が新設せられ、各々支部、出張所を有して居ります。

 現地の人々の病院や保健所を奪い取り、現地の人々を攻撃するための生物戦の基地とする、これこそ侵略戦争の実態だった。さらに一九四二年二月に日本がシンガポールを占領すると、それまでイギリスが運営していたエドワード七世医科大学を占領し、南方軍防疫給水部(本部)とした。

 一九三六年から六年掛かりで北はハルビンから南はシンガポールまで、南北に長い日本の占領地の大部分をカバーする防疫給水体制ができたことになる。ハルビン、北京、南京、広州、それにシンガポールの部隊は部隊の本部であり、主な活動は防疫研究室と呼応しての人体実験であり、細菌の大量生産であり、濾水機の製造などだった。五つの部隊の部隊員の合計は約五五〇〇人だった。このうち人体実験の実行が確認されているのはハルビン、南京それに広州の部隊におけるそれだ。また細菌の大量生産の目的は、その生産時期から判断すると、特に流行時期に先立って生産量が増えているという事実がないことから、ワクチン目的ではなく、兵器目的のものと考えるべきだ。

 中国での戦線の拡大に伴って一九三八年七月二九日、軍令「陸甲第五〇号」によってそれぞれ構成人員二二五人の十八の防疫給水部隊が作られた。この防疫給水部隊は戦場に派遣された師団に配属され、師団とともに戦場を移動した。この時、シンガポールの部隊は未だ発足していないが、防疫研究室を頂点とした防疫給水部および防疫給水部隊のネットワーク(陸軍では石井機関と呼ばれていた)の人員は一万四五人に上っている。


戦場の防疫給水部

 前線に派遣された防疫給水部隊は本部にとって各地の病気の流行状態を探ったり、流行が予想される病気の情報を集めたり、生物兵器を使用することを考えている地域での「これこれの病気がはやり始めている」というデマを流す情報操作などを受け持っていた。もちろん時に、日本兵の間で流行病が発生すれば、検便・検痰その他の患者を診断する行為も行った。また何らかの病気が流行している地域では、石井四郎が発明し特許を取っている濾水機による汚染されていない水の供給も行った。

 検便・検痰というのは便あるいは痰を採り、その中に病気の原因である病原体を探すことだ。一般的には一部を採りそれを特定の病原体を増やすように作られた培地(培養基)に植える。例えば便を赤痢用の培地に植えてみて、培地上に短時問で赤痢菌が広がれば患者は赤痢に感染している、ということになる。この場合部隊員は便の一部を採り培地に植えた時に、赤痢菌を扱っている。

 石井が発明した濾水機は一定時間毎に濾水管の内部に着いた病原体を含んだヘドロを取り除く必要があった。この作業をしないと濾水管が詰まって、水を濾過できなくなった。取り除いたヘドロの中にはそこで流行していた各種の病気の病原体が混じっていたはずだ。この作業でも部隊員は病原体を扱っている。

 どちらの作業でも、病原体を扱い、病原体を集めることになる。また時に、特に濾水管の清掃作業では、部隊員は未知の病原体と出会うということがある。未知の病原体との出会いの可能性が高いということは、それだけ危険であり、経験を積んだ人間でないとできない作業だ。しかしどんな培地も受け付けない病気の流行や、雑多な病原体の交じり合ったへドロは生物兵器の開発にとって、特に流行現地での生物兵器の開発にとっては、またとない機会だった。この時に発見した病原体を大量生産してその地方にまいて、病気を流行させてもそれが人為的なものだと見抜くことは困難だ。

 このような意味で、支部や師団とともに移動する防疫給水部隊では人体実験などは行われていなかったが、生物戦の実行という点では本部と比べるとはるかに前線で仕事をしていた、と言えるだろう。


BW作戦

 生物兵器の使用は一九二五年に締結されたジュネーブ議定書によって禁止されており、その事実を文書で確認するのはちょっとした想像力が必要だ。

 一九四〇年五月二三日の『朝日新聞』は、七三一部隊に「ノモンハン事件」に関連して軍司令官から感状が与えられたことを、部隊長の石井だけではなく娘の春海の写真まで掲載して伝えている。これは普通ではない。

 日本はノモンハンでの戦争の大敗北を通じて、航空機、戦車その他全ての戦力においてソ連に、そして欧米諸国に太刀打ちできないことを認識した。この時諸外国との戦争においては、従来とは違う新しい兵器を持つ必要を痛感した。石井が提唱していた生物兵器はその一つと考えられた。石井はノモンハンでの戦争の末期に戦場の河に細菌をまいたのだった。感状が与えられたことと、その事実が新聞で娘の写真まで掲載して報道されたことは、陸軍の首脳部が生物兵器を有望な兵器と判断したことを示している。その推測は翌年以降、中国で航空機を使用した生物兵器の試用が裏付けている。

 翌年、一九四〇年秋になって石井たちは中国中部の寧波その他を、さらに一九四二年まで中国中部の各地で生物兵器の実戦試用を行った。中国政府は一九四二年三月三一日、中国保健省金長官名で「中国における日本による細菌戦の企て」という、日本の生物兵器の使用を非難する声明を発表し、重慶駐在の各国大使館に送り付けている。この文書は在重慶の米国大使館からワシントンの国務省に送られた電報の同封文書として米国国立公文書館に保管されている。日本が中国各地で生物兵器を使用しているという中国の主張に対して、当初米国は「根拠のない申し立て」として取り扱っていた。しかしその後一九四四年の末になると米国も捕虜とした日本兵の尋問を通じて、日本による生物兵器の実戦試用を確認する。

 日本は一九四二年の秋以降、中国での生物兵器の実戦試用を中止する。それは中国側に生物兵器の使用を見破られたためではなく、その年の中国中部での試用で日本軍が汚染地域に入り、一七〇〇人以上の死者を出すという、大失敗をし、陸軍首脳部の信頼を失ったためだ。この死者一七〇〇人以上という数字は、前記の日本人捕虜が尋問で米国側に答えているものだ。

 一九四〇年から四二年にかけての日本軍による中国中部地区への生物兵器の実戦試用によって本人または家族が被害を受けたという中国人が、日本政府による補償を求めて、一九九六年になって日本で裁判を起こし、現在東京地方裁判所で審理が進んでいる。生物兵器の実戦試用は、屋外での都市を対象とした人体実験だった。


敗戦

 米国による日本の生物兵器研究開発の調査は、日本が降伏文書に署名した一九四五年九月二日前後から始まっていた。その調査が一段落したと米国が考えていた一九四六年十二月、ソ連は米国に対して七三一部隊長、石井その他を人体実験と生物兵器の使用について裁判にかけるべきだと要求した。これは米国の調査担当者にとっては晴天の霹靂だった。実はその頃米国陸軍の法務部は投書などから、七三一部隊における人体実験の事実をほぼ突き止めていた。その内容については、石井ら当事者の証言が得られないため、ハバロフスクの裁判記録を越えるものではない。この法務部とソ連との「同時発見」は、通常の聞き取り調査などで人体実験や生物兵器の使用などの事実を明らかにするには、一年半程度は必要ということを示しているだろう。

 一九四七年一月二四日、法務部は防疫研究室を石井に代わって取り仕切っていた内藤良一を尋問している。以下はそのときの記録の一部だ。

内藤にはハルビンの石井の研究と連携して軍医学校で行われていた研究について尋問した。内藤は、石井は濾水という防御的な研究を隠れみのにして、細菌戦の実験を行なっていた、と述べている。……石井は一九三二年に何度かハルビンに行き、細菌戦の研究を発足させた。さらに内藤は、細菌戦の考えは石井だけのものであり、彼は一九三〇年にヨーロッパ旅行から帰国して以後、このプロジェクトの
ための資金獲得の努力を始めた、と述べている……内藤はまた次のように述べている。すなわち日本の細菌学者はみな石井となんらかのつながりがあり、彼らのあいだではハルビンの施設で人間が実験に使われていたことは広く知られていたことであった。

 この時の内藤の答えは、ほぼ事実に沿っている。しかし内藤は一切の責任を石井に押し付けることで、彼自身およびその他の石井の協力者への責任追及がなされないようにしている。

 ウィロビーの下にあったGHQ/SCAPのG−Uが人体実験や生物兵器の使用について石井たちを再度尋問したところ、石井たちは暗黙裏にその事実を認めた。以後G‐Uは七三一部隊についての人体実験や生物兵器の使用についての調査を再開するとともに、法務部によるそれを中止させた。

 G−Uが法務部の介入を嫌ったのは、一九四五年九月以来の戦犯免責を与えての調査で人体実験や生物兵器の使用の事実を明らかにできなかった失態を暴露されたくなかったためだろう。それはまた尋問担当者を東京に派遣したキャンプデトリックも同様だっただろう。再調査のためにキャンプデトリックは一九四七年四月にN・H・フェルを、さらに十月E・V・ヒルとJ・ヴィクターを派遣した。

 フェルは六月二〇日付で化学戦部隊長宛に「日本軍における細菌戦研究についての新情報の要約」と題する報告書を作成している。ヒルとヴィクターは十二月一二日付で同じく化学戦部隊長宛てに「細菌戦調査の概要報告」と題する報告書を作成している。

 ヒルは「細菌戦研究における重要人物十九人(重要な地位に就いていた何人かはすでに死亡している)が集まり、人間を使った細菌戦研究について六〇ページの英文のレポートを、ほぼ一ヵ月かけて作成した。このレポートは主に記憶に基づいて作成されたが、ある程度は記録が残っており、これがレポートの作成に役立った。このレポートの多岐にわたる内容の概略は後に記す」とした上で、調査の結果入手したデータについて、次のように評価した。

人体実験のデータは計り知れない価値を持つであろう。すなわちわれわれやわが同盟国では動物についてしかそうしたデータは得られないのだから。また人間の病気についての病理学的な研究やその他の情報は、現在進行中の炭疽、ペストそれに鼻疽に対して真に実効の上がるワクチンの開発計画にとって大きな助けとなるだろう。

 何故、当時米国で炭疽、ペストそれに鼻疽のワクチンの開発が行われていたのだろうか。これはそうした細菌を生物兵器として使用する努力が進行中だった、ということを意味しているだろう。

 ヒルとヴィクターの調査はフェルの調査を受けて、「細菌戦研究施設から日本に送られた、人間から得た病理標本の調査」など、人体実験についてより詳細な情報を入手することだった。彼らのレポートの結語は次の通りだ。

 
 今回の調査で集められた事実はこの分野におけるこれまでの見通しを大いに補いまた増強するものである。このデータは日本人科学者たちが巨額の費用と長い年月をかけて得たものである。情報は、人間について各病原体毎の感染に必要な各細菌の量に関するものである。こうした情報は人体実験に対するためらいがあり、我々の研究室で得ることはできない。これらデータを入手するのに今日までに要した費用は総額二五〇〇〇〇円で、これはこれら研究の実際の価値と比べれば取るに足らない額である。さらに、集められた病理標本はこれら実験の内容を示す唯一の物的証拠となっている。これら情報を自由意志によって提供してくれた人々がこのことで困ることのないよう、またこの情報が他に漏れることのないようあらゆる努力を払うよう望む。

 ヒルとヴィクターのレポートには二五種類の研究テーマについて、どんな人物にインタビューし、どんな情報を入手したかが明らかにされている。日本語の文献では数種類の事例についてしか分からない石井機関での人体実験が、この戦後の米国による調査、特にソ連による石井たちの身柄引き渡し要求後の調査、によって網羅的に知ることができる、というのは歴史の皮肉と片づけてはいけない。戦後日本のありようの問い直しを迫っていると理解するべきだ。

(つねいし けいいち 神奈川大学教授)

表紙 > バックナンバー > 第7号 > 731部隊の簡単な歴史

 

●このサイトに収録されている文章・画像・音声などの著作権はすべて季刊『中帰連』発行所に属します。
 無断転載を禁じます。
●ご意見・ご感想は
tyuukiren(アットマーク)yahoo.co.jpまでお寄せください。
●迷惑メールを防ぐため、上記「(アットマーク)」部分を「@」に変えて送信してください。