最終更新日:2004年03月31日

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「従軍慰安婦」回想記

菊池義邦


軍司令部専用高級慰安婦

 私の原隊は、北支那派遣軍第12軍第59師団第54四旅団独立歩兵第111大隊機関銃中隊であるが、昭和19年(1944)1月に山東省済南の第12軍司令部直轄警備中隊に分遣を命じられた(当時陸軍軍曹)。

 そこでの私の任務は、軍司令官、参謀長、各参謀の他高級将校の身辺護衛と司令部建物や諸施設の警戒のための衛兵司令、重機関銃分隊長、内務班長等々であった。私が着任してから一週間ほどして、関東軍より内山英太郎中将が第12軍司令官として済南に到着した。そして着任するや間もなく彼は河南方面作戦軍の最高司令官に任命された。この「中国大陸縦貫第一号作戦」なるものは、南方海域作戦軍、特にインド、ビルマ方面派遣軍への補給路を打開するのがその目的だった。この大作戦を準備するため、戦闘司令所先遣隊は、河南省新郷の北支那派遣軍独立歩兵第4旅団司令部建物内に、「第12軍出張所」を開設したが、私も先遣隊要員の一人としてこれに加わった。

 この「中国大陸縦貫第一号作戦」は、内山司令官の指揮下で多くの犠牲者の尊い鮮血の中で、順調に展開し、第一の堅塁鄭州城、第二の堅塁許州城を次々に攻略し、以後は国民党軍との激しい戦闘を交えながら洛陽城を包囲し、5月25日同県城を占領して、その第一段階の終了が命令された。

 私がこれから記そうとする回想の記は、その当時のことである。

 そのころ、第12軍の戦闘司令所は鄭州にあり、その宿舎は3ヵ月前までは蒋介石総統の直系である湯温伯将軍の司令部跡であったが、ここを軍司令官内山英太郎中将以下高級将校の一団が思うように使用していた。当時軍司令官、参謀長、各参謀など高級将校の身辺警護と宿舎施設周辺の警戒を主要な任務としていた私たちは、どんな施設が作られているのかほぼ掌握し、巡察の経路も定められていた。

 藁半紙大の白い厚表紙に、黒の閉じ紐の書類綴の表書きには、「昭和19年6月、命令回報伝達簿、第12軍直轄警備中隊」と墨書されている。閲覧は下士官以上で、読み終わった者は指定欄に押印が義務づけられている。表紙をめくって当日の伝達要旨を読んでいた私の目に飛び込んできたものは、当日の部隊会報で、陸軍軍用罫紙に筆録されている次の一文だった。

会 報

郡山准尉の引率する女子挺身隊百名は昨夕鄭州市に到着せり。
下士官、共用慰安所は近日開設の予定なり。

 読み終わった私は、この不可解千万な文意に、思わず、「うーん、何だ、これは?」と頭の中が混乱した。わが警備中隊所属の郡山准尉が、ここ河南省鄭州市から山東省済南市にある第12軍直轄兵站宿舎にいる「女子挺身隊」(朝鮮人従軍慰安婦)を引き取りに出張したということは、10日ほど前に聞いていた。もうとっくに慰安所が開設されて、下士官、兵たちの施設利用開始の公示と共に利用可能の状態になっているのだろうと考えていただけに、私にはこの一文が気に食わなかった。

 あの高齢のA高級副官が、下士官、兵用は今しばらく侍てという御触れを出したのだと直感すると、腹の虫が収まらなかった。

 「よーし、現場確認だ!」

 こう私は決心すると、小隊長には巡察と報告をし、前から目をつけていたそれらしい建物へ向かって足を運んだ。それは湯温伯司令部の将校集会所と思われる二階建ての壮大な洋風建物だった。

 およそ一ケ月前、進攻兵団は古都洛陽城を攻略し、内山車司令官の入城式を終了すると、5月下旬以降、第12軍司令部は龍海戦沿いに逐次移動東進し、鄭州市に到達したのだが、それまでの間、後方兵站部隊は懸命に司令部の建物を整備し、慰安所施設を用意し、一刻も早く慰安婦を掌握してその筋からの要求に応えようとしていたのだった。

 私の予感は的中した。建物の二階には、既におおむね20畳敷程度の部屋が2室、敷物も畳表が敷かれていた。驚いたことにこの2部屋の隅には、100個入とも200個入ともそれとも10ダース入りか20ダース入りか見当もつかないほどの衛生ゴムが、真四角な薄型小箱にきっちり詰められており、「突撃一番」の文字も鮮やかに準備されていた。

 「これはこれはとばかり花の吉野山じゃなくて、これはこれはとばかり突撃一番ゴムサックか!」と口の中でブツブツつぶやいていたが、私の驚きは突然八路軍の遊撃兵に遭遇したような衝撃を受けた。見れば入口には、「尉官以下立入禁止!」の警告文が、墨痕鮮やかに貼られているではないか。根性曲がりの私にはこの文字が突発的な行動への発火点となった。

 「尉官以下立入禁止とは何事だ! 読めたぞ、あの部下の信頼の厚い参謀部のK大尉が『佐官クラスはでたらめだ』とこぼしていたことが」
「よし、こうなったら俺が少しばかり現役下士官の意地を見せてやるか!」

 幸い、この建物には誰も来ていない。階段を下りて、司令部敷地内の緑したたる大樹の間の通路に出ると、これも私の予感が的中し、20名余りの朝鮮人慰安婦が立ったまま一団となって、不安そうな面持ちで建物を見つめていた。

 「ようし、将軍様の一物と俺様の一物とどっちが立派か見せてやろうか?」
「どうせ俺たちの手の届かぬ高嶺の花なら、今のうち俺様のご本尊を拝ませようじゃないか?」

 こう決心した私は、軍袴のボタンを全開し、股間からいきり立った砲身を取り出した。仰角既に百二十度を超え、対空射撃の態勢にあった。真っ黒い偽装網に覆われた精嚢の二個のマガタマは野砲の両輪のごとくしっかり砲身を支えていた。

「オーイ、よく見ろよォ!」
 叫ぶともなく、私は一歩一歩彼女たちの一団に近付いた。左手は左腰角に吊した三十年式銃剣の剣鞘を握り、右手は右腰に吊した十四年式拳銃嚢を抑えながら、眼光は燃えるような鋭さだった。

 私のデカブツを目にした時、「キャー!」という驚声と共に年若い17−8歳位の10名ほどの慰安婦が、一団となって反対方向に逃げ出した。残る10名ほどの女たちは、その場にすくみ込み、両手で顔を抑えて動かなかった。数メートルの距離に近付いた時だった。24−5歳ぐらいになるだろうか、番長格らしい2名の慰安婦が両足をふんばり立ち上がると、ものすごい見幕で目をつり上げ、私を睨みつけてこう言った。

「チョウセンピー、チョウセンピーって、バカスルナァ!テンノヘイカ、ヒトツトォ!」

 またまた追い討ちをかけるように憤り声が私の鼓膜を震わす。

 「おまえの格好は何たるざまだ。それでも皇軍か?それでも神州男児か?この馬鹿野郎!」

 その憤りに満ちた罵声は、私に衝撃を与えた。この3年来、私は上級者以外誰からも正面切って面罵されたこともないし、反抗されたこともなかった。だが、この2人の慰安婦の態度は余りにも毅然としていた。「お前のような奴には、この娘たちは指一本も触れさせやしないぞ!斬るなら斬ってみろ!撃つなら撃ってみろ!」と言わんばかりだった。

 「分かった!分かったよ!」

 こうして、勝負は一瞬にして決まった。私は心の中でこう答えると、大急ぎで無様な一物を股間にしまいこんだ。巨砲は既に影をひそめ、海綿体は萎縮して見るも哀れだった。軍衣、軍袴を整え、敗北の色を隠しながら歩き出した。先程先を争って逃げ出した年若い娘たちの一団は、樹齢2−300年もあろう大樹の幹に身を隠しながら、私の通り過ぎるのを盗み見していた。

 「うーん、ヤレヤレ、驚いたよ。芝女郎(野天で性を売る女性)や川原乞食同様に思っていた慰安婦たちにあれほどのど根性があるとはなぁ」
 こう思いながら、私は長嘆息を禁じ得なかった。
 「まァ、まァ、軍司令官専属の憲兵軍曹に見つからないだけ良かったさ」
 私は、首をすくめながら宿泊場所に向かって足を進めた。

 途中管理部宿舎の出入り口に差しかかった時、大きな四斗樽に氷をぶち込んだ冷水の中に3−40本のキリンビールの大びんが投げこまれているのが目に入った。私も中国大陸への侵略兵団の一員として、今年で3回目の夏を迎えるが、こんなに大量のキリンビールにはついぞお目にかからなかったし、またあの慰安部屋の2階に置かれた大量のゴムサックも生まれて始めて見たことだった。私のような貧乏下士官にとって、本土の佐倉連隊に服役中には、ゴムサック一個買うにも容易ではなかった。今夜催されるだろうその豪勢な大饗宴は、俺たちの想像に余りあるものがあるだろう。

 ふと、こんなことが思い出された。それは、先日内山軍司令官が、高級副官A大佐に向かって、「鄭州の水はまずいなぁ。うまい水が飲みたいのう」と言うと、大佐は即座に「早速準備致します」と言う返答をしたことを、軍司令官前の立哨兵から聞いたことを思い出した。

 副官はただちに、京漢線黄河大鉄橋北方の新郷陸軍飛行場の航空四四戦隊長に、天然の湧水の補給を要請した。航空戦隊長はただちに四八式直協機を利用し、山東省済南近郊の名県から透き通るような湧水を、司令部内に持ち込んだという。内山司令官は、大喜びでこの水を飲みほし、「満足!満足!」を連発し、副官も将軍の要求を満足させることができて上機嫌だったという。

「うん、大したものよ。地上戦の突撃一番乗りを強要されるのは下士官、兵隊で、年若い慰安婦への肉布団攻撃は将軍様を先頭に各参謀、佐官クラスのお偉方か。あれだけの慰安婦の数なら一人一人が筆おろしで、こりゃあこたえられないなあ・・・・」

 あらぬ推量をめぐらしながら、分隊員と寝食を共にする宿舎に辿り着いた。小隊長には、「巡察中異常なし!」と報告する。小隊長からは「おお、ご苦労様!」と慰労の言葉を受けて、私のこの日の特別巡察は終った。

分屯隊専用「住込み慰安婦」

 1942年5月、大本営は揚子江南北両岸地域を占領中の中支那派遣軍に対して、対峙する顧祝同指揮する国民党直系軍の殲滅、浙かん鉄道の打通、沿線要域の占領確保、及び浙江省内の在アメリカ空軍基地の覆滅を命令した。このため中支那派遣軍は、揚子江東部地域の隷下第十一軍、第13軍より6個師団を基幹とする侵攻軍を編成し、5月15日、一斉に侵攻作戦を開始した。この作戦は「浙かん作戦」と呼称され、8月下旬まで続行された。

 北支那派遣軍は、この作戦を支援するため、河南省開封市一帯を占拠中の第35師団を派遣した。そして、この師団が担当していた地域を確保し警戒するために、山東省泰安市一帯を占拠中の第59師団から歩兵一ケ大隊を抽出編成し、岡田利万大尉を大隊長とする集成大隊が編成された。私の所属する54旅団第111大隊からは、機関銃中隊編成要員として小川義衛少尉の指揮する1個小隊が抽出された。私はこの機関銃小隊の第1分隊長を務めた。

 貨車輸送により、開封市、商邱市、夏邑県、永城県、虞城県などに展開した大隊は、小関中尉を長とする70余名の兵力を虞城県に配置した。私の分隊は小川小隊長の指揮下を離れて、この小関中尉の指揮下に入った。小関中尉は、自動貨車で虞城に着くとただちに、県城より30キロメートルほど離れた侯廟分屯隊望楼に三輪伍長以下20名を配置した。

 ここの望楼は、堅固な煉瓦造りで、日本軍設営隊によって作られ、周囲は幅広の、深い濠と幾重もの鉄条網によって防備され敵襲に備えられていた。対峙する中国軍は、李仙州将軍の指揮する国民党軍、更に第七路軍で、情勢は急迫していた。この分屯隊には、申し送りで、中国人慰安帰一名が「住込み慰安婦」として兵隊と起居寝食を共にしていた。

 虞城県城内の警備隊本部には、第35師団残留兵員として、無線暗号斑5名、古参衛生軍曹1名、華語教育を受け通訳を勤める古参上等兵1名が残留していて、私たちを出迎えた。県城の東西北の三門は閉鎖され、南門の出入門には分哨を配置して、出入者の厳重な監視が行われていた。更に警備隊本部には十余名の衛兵を配置して警戒に当たっていた。

 虞城県城内には、40歳前後の朝鮮族夫婦が経営する日本軍専用の慰安所が一軒あった。そこには、人身売買により近郊から連行された20歳から23、4歳の中国人女性6−7名がおり、性行為を強要されていた。その値段は30分1円であり、日本軍の衛生軍曹が定期的に性病検査を実施していた。また、この慰安所の中の1名は、現在出撃中の35師団警備隊長の命令で、侯廟分屯隊専用の「住込み慰安婦」(一ヶ月交代)として送り込まれていた。

 1942年7月下旬のある朝、食後間もなく、小関警備隊長の当番兵が来て私に「隊長殿がお呼びです」と伝えた。身支度をして隊長室に行くと、小関中尉は隊長机を前にドカッと腰を下ろし、私の来るのを待ち構えていたようだった。隊長の背後には、前任隊長から保管を依頼されたという豪勢な書幅が褐げられ、大文字で「虞城県民拾参万生殺与奪の権限我が手中に在り」と書かれていた。

 私が室内敬礼を行い、「菊池参りました」というと、隊長は、「菊池班長、ジャングイが話したいことがあるそうだから、話を聞いてやってくれ。午前11時少し前に衛兵所に来ることになっているから」と言う。用件はそれだけだったが、「ジャングイ」とは慰安所の親父のことで、兵隊全員がそう呼んでいた。

 午前11時少し前、衛兵所から伝令が来てジャングイの来所を告げたので、隊内に呼び入れ彼の話を聞いた。彼は私を「副隊長」と呼んでいた。私が隊内の最古参で副分任官(中隊などで会計を専任する役職。分任官は部隊主計官が当たる)を担当し、下士官・兵への給料(軍票)の授受、兵器、弾薬、被服、糧株、ガソリンなどの受領・支給の仕事を担当していることを、彼はよく知っていたためだった。彼は、中国語と日本語とのごっちやまぜの言葉で、私にこう話した。

 「今度きれいな生娘を慰安婦として買い込んで来た。この姑娘への初乗りを警備隊長が、2番乗りを副隊長がやってもらいたい。そして、隊長の初乗り代金として70円(軍票)を払って下さい。これは隊長も了解済みです。副隊長の2番乗りの玉代は勿論不要ですよ」

 先程の隊長室の隊長の顔色や口調から、嘘ではないなと直感したので、私は「よし分かった。帰れ」と言って、彼を衛門外に連れ出した。

 さて引き受けたものの、軍票70円は大金である。将校3ヶ月分、下士官半年分、兵隊1年分に相当するこの大金をどうして算段するか?機関銃弾1発1円で、70発を「和平皇協部隊」に売り飛ばすか?それともどんな方法があるだろうか、と頭を悩ましていた時だった。

 突如情報が入り、警備隊主力を私が指揮して非常出撃し小戦闘を行った。そして幸い「土匪」15名を捕虜とし、小銃五を捕獲するという戦果を上げ、兵站基地予東地区旅団司令部より、「ショセンノタイショウヲシュクス」という賀電を受けた。早速この捕虜15名を「満州苦力」として100円で売却することができた。この金で、隊長の「初乗り代金70円」をジャングイに約束通り支払うことができた。

 それから2日後のこと、私は小関隊長から、「侯廟分屯隊内に住込んでいる中国人慰安婦を県城内に連れ戻しに行け」という命令を受けた。早速トラック1台に分乗し、小銃手1ヶ分隊、和平皇協部隊(日本軍占領地で日本軍に協力する各種の中国武装部隊)20名を護衛として出発し、1ヶ月間分屯隊内に住み込んでいた中国人慰安帰1名を無事取戻し、ジャングイに引き渡した。だが、この慰安婦の交代に送り込まれた中国人慰安婦は、私の2番乗りが予約済の例の慰安婦だった。その引率責任者は、古参衛生軍曹だった。

 私が分屯隊から連れ戻した中国人慰安婦は、その晩私を城内の街頭料理店に連れて行き、中国料理や中国酒で私を歓待してくれた。私への謝礼の酒宴であったろうが、それも隊長とジャングイの指図によるものであることは推察できた。この夜は明るい月夜で、美しい星や月を眺めるだけでも、危険な大陸の戦場にいることを忘れることができた。

 侯廟分屯隊から連れ戻したあの時の彼女の服装を思い出すと、分屯隊員の給料のほとんどは、彼女の玉代収入になってしまっていたのだろう。彼女は三つ折りにしたり二つ折りにしたりした軍票を、長い両足のストッキングの中に詰め込み、また薄物の夏衣を通しても体中が軍票で埋めつくされているのが分かった。そして、彼女のこの異様な姿は、ジャングイや同僚への自分の稼ぎ高の誇示でもあったようにも思われた。

 今から50余年前のことですが、この中国人慰安婦たちの強いられた境遇とその心情を思う時、私は心からの贖罪の念を禁じ得ないし、また慙愧の思いで胸迫るものがあります。

(きくち よしくに 中国帰還者連絡会会員)

【略歴】

1918年 千葉県生まれ。高等小学校卒。
1938年 徴兵令、佐倉歩兵五七連隊留守隊入隊、下士官志願。
1940年 盛岡陸軍予備士官学校教導隊卒業
1942年 衣兵団(第五九師団)重機関銃分隊長として中国山東省泰安県に侵略、以降1945年8月まで、山東省、河南省、河北省の作戦に参加。敗戦時は59師団54旅団独立歩兵111大隊本部指揮班長。

【編集部註】
1943年2月中旬は59師団長は柳川中将であり、旅団長は長島勤、田坂八十八少将でした。

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