|
「兎狩り作戦」は実在した
田辺敏雄氏の反論に答える
小島隆男
田辺敏雄氏は『正論』9月号に「中国人8000人連行のウソ」という見出しで、またまた私の証言について、「実存しない、ウソである」と論じている。1942年9月、衛河の堤防を決壊した本人が、「こうした段取りで実行し、結果はこうなった」と告白しているのに、「お前の言っているのは全部ウソだ」と言われると、馬鹿らしいが、反論しないわけにもいかない。
特に第44大隊の第5中隊は、衛河左岸の決壊地点から直距離にして300メートルも離れていない右岸の地点に「駐屯」していたのに、衛河決壊のあれだけの事件を「知らなかった」と言い切れるものではない。これこそ、戦友会の皆が一様に口裏を合わせ隠蔽しているとしか考えられない。
戦犯時代の小島氏
|
1989年7月、私たちがNHKの取材で臨清に行った時は、すでに私たちの知っている臨清ではなかった。城内の中央を大通りが衛河に向かって走り、そのまま市街を通り抜けると、立派な鉄橋が対岸まで数百メートル延びていて、その上を大型トラックが頻繁に走っていた。河原に降りて雨でぬかるみのできた小道を決壊した場所まで行ったが、昔のあの頑丈な堤防の面影は既になく、わずかに士が盛り上がった形でしか残っていなかった。
中国側で呼んでくれていた当時を知る証人が、我々の質問に答えながら丁寧に説明してくれた。私は、この衛河決壊の件では17の部落から告訴され、そのいずれの告訴状にも「小島中尉を厳重に処刑してくれ」と書かれていた。
私に丁寧に説明してくれたこの証人は、被害にあった部落の住人だった。私は改めてこの人に心から謝罪した。
私は1942年4月に第59師団が編成された時、第32師団より第59師団に転属したが、同時に第12軍が予備中隊として完全一ヶ中隊を編成した際に、その機関銃小隊長となった。第12軍幹部教育隊(済南)に「駐屯」し、作戦参謀千葉中佐の指揮下に入った。第12軍の作戦には必ず出動したが、出発に先立ち、参謀より将校に対して作戦の目的や注意すべき点など細かい指示があったし、帰隊すると当日の行動についての批評がなされた。
千葉中佐の言うことは、侵略軍の参謀らしく極めて歯切れがよかった。例を挙げると、1942年の4月の「第二次冀南作戦」(第一二号作戦)では、「敵は日本軍が行動を起こしたことを知ると便衣に着替える。そのため軍人か百姓かの見分けがつかなくなるから、作戦地に入ったら男は全部殺せ」と言い、また同じ年の「章邱剔抉作戦」(しょうきゅうてっけつ)では、「君たちは剔抉という言葉の意味がわかるか?
剔抉とはえぐりとることである。拷問し、痛めつけ、徹底的にえぐり取る(略奪する)ことである」と言った。
また我々の戦闘についてもこういうことがあった。1942年夏、魯西地区での作戦中、坪井部隊は敵を捕捉しながらも苦戦していたので、これを応援せよとの命令を受けて出動した。坪井部隊は何回か突撃を加えたが成功せず、夜間に入りやっと部落に突入したが、部落はすでにもぬけの殻だった。部隊はこの戦闘で100名近い戦死傷者を出した。この時千葉参謀は「他部隊の戦闘に口を出すのは申し訳ないが、私なら部落に火をつける」と言った。我々が「この日照りのなか、燃やすものは何もありません」と答えると、「君たちは襦袢を着ているだろう、袴下も履いているはずだ。これを燃やせば燃やすものはいくらでもある。敵を動揺させることだ」と言った。場所は魯西の東平湖の西方で、北陽堡という大きな部落であった。
本題に入る前にもう一言つけ加えたい。私は証言者として各地でずいぶん発言してきた。その際、多くの主催者は、私に録音や録画の許可を求めてきた。私は一人でも多くの人に証言の事実を知ってもらえることを考え、無条件に同意してきた。しかし、主催者側のほとんどの人は戦争の経験がなく、我々が使う軍隊用語などについてできるだけ説明を加えても、なかなか分かりづらいようだった。でき上がった原稿は、時には校正を求めてくる場合もあるが、たいていは主催者側に任せた。すると、軍隊の階級・職務や中国の地名など、とんでもない言葉で表現されていることがある。
これは田辺氏も例外ではない。第44大隊の戦友会長千葉氏とは同年配であることは承知だが、前記の証言の会で作成した記録集の中から、私の都合の悪い表現を集めて攻撃材料にしている。たとえば、私は中尉であるのに、関東軍司令部では大尉になっており、先の『正論』の105頁では、戦車中隊長になっている。また有名な天然の河である衛河を運河の名であるとしている。以上のような間違いは笑って過ごせるとしても、見過ごせないのは、これらの間違いを自分に都合よく組み合わせて、「彼の言うことはウソだ」ときめつけている点である。
「兎狩り作戦」について
今年7月の終わり頃のある夜、サンケイ新聞の記者と名乗る男から電話があったが、私が電話に出るといきなりこう言った。「『北支の治安戦』(防衛庁防衛研究所戦史室著)を見ても「兎狩り作戦」という言葉は書かれていない。あの作戦は、実在しない嘘のものではないか?」と。私は「どこの国に自分の悪業を自ら戦史に残すものがいるか!
人間を強制的に捕らえて連行し、強制労働でこき使ったことを公然と公表し、戦史に書き残す馬鹿があるか!」と反論した。
また田辺氏によれば、「元44大隊の誰に聞いても、そういう作戦はやったこともなければ聞いたこともないとの回答であり、ウソだ」というのである。
1942年に入って太平洋戦争が激化し、日本国内の労働力が不足して生産に支障を来たしたので、中国大陸から労働力として使える頑強な人間を捕らえて、日本に強制連行しようということで、「華人労務者の内地移入に関する件」という閣議決定がなされた。各企業は、これより遥か以前からこのことを軍部に申請しており、正式に閣議決定した時には、すでに第12軍では十分な準備を終わっていたと言える。
1942年8月頃、我々予備隊は、千葉参謀より前記の趣旨を説明されたうえ、どのようにしたら体力のある中国人を効率よく捕らえられることができるのかの訓練課題を言い渡された。課題として出されたことは、一ヶ中隊を幅4キロの横広に展開(各中隊の各分隊は一列縦隊)し、各大隊はいずれもこのように中隊を並列させて、担当する正面の網の中へ中国人を追い込むという方式である。ちょうど兎を捕る時、大きな円を描くように包囲網を作り、各人が石をたたき、缶をたたいて包囲を圧縮しながら、あらかじめ仕掛けた網に追い込んでからめ捕るのと同じ方法である。
幹部教育隊は連日、教育隊長・金山中佐、教育主任・出口少佐、宮原大尉等が集まり、千葉参謀の指導で協議を行った。もちろん我々予備隊の将校も同席したし、場合によっては意見を求められたりした。
時期はすでに8月で高粱の背丈も伸び、500メートル近く離れた隣分隊との連絡は並大抵ではなかった。実際にいろいろと試した結果、分隊は日章旗一本を、小隊長所在点には日章旗二枚をつなぎ、中隊長の位置を示すには日章旗三枚を縦につないで、それぞれの標識とし、前進停止は旗の振り方で規制した。広い正面の展開であるため、我々がその通り実施しても、よほどの距離を前進しないと、中隊の隊形が変化する過程はわからなかった。何回も実施した。最初は図上戦術、兵棋戦術へと続き、一ヶ月以上かかって一応の形ができた。
この間、土橋第12軍司令官もしばしば顔を見せていた。教育隊には飛行隊も駐屯しており、南側に隣接して飛行場があった。この外れの一角に小高い丘があったが、軍司令官はこの丘に第12軍全軍の大隊長以上を集め、私たち予備隊が今までの訓練での取り決めを小刻みに実施する演習を見学させた。
こうして準備は終わったが、少し補足すると、包囲網の上空を飛行機を飛ばして包囲網の凸凹をなくしたり、頑強な「敵」に遭遇した時のため、軽戦車中隊を配置した。また捕らえた中国人を選別するため、各部隊に憲兵一ケ分隊を配属した。いよいよ準備が整い作戦が始まるわけだが、この続きは先に出た著書『北支の治安戦』の中から引用することにする。
「作戦準備。第一二軍は年度粛正計画に基づき、魯西根拠地を徹底的に覆滅するため早くから準備を進めていた。
特に土橋軍司令官ら自ら統裁した兵団長以下主要幹部の図上戦術、兵棋教育、実兵指揮の研究を行い、作戦参加諸隊は厳に企図を秘匿しつつ対共戦法を訓練した。
その作戦構想は、軍は歩兵約一〇大隊をもって範県付近及び東平湖西方の中共軍根拠地を完全包囲急襲して、これを徹底的に覆滅しようとするものである。−略−作戦第一日を九月二七日と予定した。
(注)土橋軍司令官は、かねての研究と冀南作戦の経験により、完全包囲による討匪戦法の普及徹底を図った。その構想の基礎となる機動行程を「集結地」から「展開線」(包囲圏の形成)までを約四〇キロ(自動車による夜間機動距離)、「展開線」から「敵根拠地」(目標の中心点)までを約二四キロ(徒歩による昼間攻撃距離)と算定した。展開正面は一ヶ分隊の間隔を三〇〇−五〇〇メートルとして包囲圏の全周を算定し、横方向の連絡に特に留意し、各隊若干の予備隊を控置させた。包囲圏圧縮後の偵諜剔抉の尋問部隊として政治工作隊、特務工作隊(憲兵)を編成した。これは大平原地で逃避四散を事とする中共軍に対する特別戦法であり、地形、敵戦力が異なれば通用しがたい。」(同書237頁)
我々12軍の予備中隊は、第32師団の石田隊に配属され、南から包囲線を圧縮することになった。ここでまた「北支治安戦」の記述を取り上げよう。
『東平湖西方剿共作戦』(り号作戦)(9・27〜10・5)
第一期作戦(9・27〜29)。目標(攻撃の中心点)単堂(東平湖西方で黄河の左岸)。九月二五〜二六日の間に大熊支隊(五九師団)は東昌、辛県付近(北方)に、石田支隊(三九師)は鄲城、鉅野付近(西方)に、高原支隊は濮県付近に兵力を集結し、二六日の夜間機動により、二七日払暁までに予定展開線に進出した。その後、統制線により各隊の前進を指導しながら、逐次中心地区(単堂)に包囲線を圧縮した。各隊は小戦闘を交えつつ、一六時過ぎには単県を中心とする半径約三キロの地域内に前進した。(以下略)
第二期作戦(9・30〜10・5)。各隊主力は原駐地帰還をよそおいつつ、大熊支隊は東昌付近、石田支隊は鉅野付近、高原支隊は鄲城付近において次の作戦を準備し、一〇月一日行動を開始し、二日朝予定の包囲線に展開した後、東平湖西岸に圧縮するよう前進した。(以下略)」同書238頁)
これが兎狩り作戦の第1回目の作戦であるが、その「戦果」は遺棄死体1251、俘虜1350と「北支治安戦」(239頁)に出ている。
次に「兎狩り作戦」の第2回目として行われたのが、1942年2月の「第三次魯東作戦」(と号作戦)である。魯西の平原地区と異なり、山岳地帯であるため、円形の包囲網ではなく山東半島の付け根付近の青島‐芝ソウ間に参加部隊全部を横一線に展開させ東進した。その間、山を越え谷を越えて半島の突端まで前進する方法を採った。東平湖地区での作戦を「兎狩り作戦」というならば、これはちょうど網を引くような作戦だった。半島突端まで一週間を予定した。
わが予備隊は、魯西地区の作戦では、前進する正面の部落には機関銃を撃ち込んで部落民を中心部に追い込むとともに、通過する部落から食料、豚、鶏など徹底的に略奪した。今度の山東半島での作戦では、各面地区より遥かに裕福な部落が多かったので、略奪には更に拍車がかかった。予備隊の上陸地点の海岸から北へ小さな山を越すと、東から西へ遠浅の湾が開け、そこの塩田には20トン、30トンもあると見られる塩の山が見渡すかぎり積まれていた。わが予備隊は海軍と協力して、住民約2000名を集め、この山を崩して南海岸まで約四キロを運び、約4000トンの塩を略奪して船に積み込んだ。
この「第三次魯東作戦」の「戦果」については、『北支の治安戦』によると、「作戦開始以来12月8日までの戦果は、遺棄死体1183、俘虜8675」(同240頁)と書かれている。また済南帰隊後、千葉参謀は教育隊と予備隊の将校を集め、訓練を開始してからの各隊の努力を謝したが、その時「この作戦での捕虜は合計すると、8000名以上になる」と発表した。
こうして「兎狩り作戦」は終わった。第12軍が「兎狩り作戦」といったのはこの二回の作戦であったが、その後は12軍隷下の各師団でこの戦法を応用した作戦が、数多く実施された。
最後に田辺氏に一言申し上げる。田辺氏は、「第44大隊の誰に当たっても『兎狩り作戦』なんていう言葉は聞いたことも実行したこともない」と言う。現在なら、ひとつの問題を討論する場合、年齢、学歴、地位などに関係なく自由に参加できるが、当時の軍隊では、すべてが「命令」であり、命令系統がある。兵、下士官、時には中隊長でも、上級指揮官の意図を知る術もなく、知らないのが当たり前だった。田辺氏は「誰に聞いても知らない、聞いたことがない」と言うが、これらの人々は、この問題について証人としての資格のない人なのである。
また、前に述べたサンケイ新聞氏に一言付言する。『北支の治安戦』の160頁に、第41師団(北支那方面軍の直轄部隊)が、第12軍より早い4月中旬以降、「兎狩り作戦」(ただしここでは「兎追い戦法」と言う)を行なったことが出ている。この師団はそれまで山西の山地における経験は豊富だが、大平原の対共戦は未経験であるので、「兎追い方式」を接敵隊形の基本として研究し、訓練したと書かれている。これが、この本の文中に現れた唯一の「兎狩り作戦」についての記事である。
我々は、中国共産党と中国政府と中国人民の温かい指導によって、自己の良心に目覚め、我々が中国で行った戦闘行為はことごとく侵略であったことを深く反省させられた。「真理は必ず勝利する」という教えも確信することができた。私が誰も知らないと思って隠し通した罪行も、中国住民の告訴状と中国側の調査で暴露され、私は真実の前に頭を下げるしかなかった。
日本政府があれほど「そういう事実はない」と主張していた従軍慰安婦や強制連行も、証拠を突きつけられて、最後には認めざるを得なくなった。日本の軍隊が中国で行った非人道的な行為を、今さらもみ消そうとしても、終局的には隠しおおせるものではない。田辺氏は「真理は必ず勝利する」ということを、今の内に、よくよく噛み締めておくべきではないだろうか。
(こじま
たかお 中国帰還者連絡会会員 1998年2月没)
|