最終更新日:2004年04月01日

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表紙 > バックナンバー > 第4号 > 太行の麓をしのんで −生体解剖−


太行の麓をしのんで −生体解剖−

野田実

 


[略歴] 1915年岐阜県主まれ。1941年東京医専卒。軍医中尉。

 1945年4月のことであった。炭坑で名高いあの河南省焦作鎮に私の所属していた旧第117師団野戦病院が駐留していた。

 当時すでに1ヶ月ほど前から、周辺の部隊の主力は、「老河口作戦」のため動いていたし、私の病院からも、この作戦のために約三分の一の兵員が参加していた。

 また、一方、沖縄の戦局は、すでに決定的段階にはいったことが報ぜられており、この作戦が終ったら、師団は移動するだろうという噂さえ、どこからともなく伝えられていた。

 病院には、私を含めて院長以下5名の軍医が残留していたが、新しい入院患者もほとんどなく、病院はひっそりとしており、重苦しい不安な空気がただよっていた。連日連夜、将校倶楽部に入り浸り、酒と女で、官能がすでに麻痺されたように荒んでいた。私は、このような焦燥のなかで、もっと強い刺激を求めていたのだ。

 ちょうどこうした時期に、私は、突然、病院長軍医少佐丹保司平に呼ばれた。

「実は明日、軍医の教育をやりたいのだが、君は昨年10月鄭州の12軍司令部がおこなった軍医教育に直接参加して、経験済みだし、あの要領でやってくれればいいのだ。憲兵分遣隊から−どうせ殺すのだから、病院で何か試験に使って処分してくれてもよい−という話があり、いい機会だから、軍医たちの手術の練習のために教育をやろうと思っているのだ。戦地に来ている軍医は、内科だろうが、外科だろうが、救急の手術や盲腸の手術は、いつ、どこでもできるようにしておかねばならぬからなあ…」

 私は、病院長のこの話を聞いたとき、しめたとばかり、即座に「承知しました」と引きうけていた。というのは戦地に来て以来、噂に聞く「生体解剖」を一度やってみたいと思っていたが、去年鄭州のときは、傍で見学しでいただけで、自分でやれなかったのが残念でたまらなかったからである。

 私は、医務室に引きあげてくると、すぐ実施計画を作って、病院に提出した。そして、その日のうちに軍備を整え、とくに内科の新田軍医中尉と高岩軍医少尉には、あらかじめ手術書や解剖書を研究しておくように言っておいた。

 翌日午後、憲兵が一人の中国人を連行して来たことを、衛兵が知らせてくると、私は、外科の水谷見習士官に、手術室に入れておくように命じた。

 私は何食わぬ顔をして、手術室のドアを開けてはいった。中国服を着た男の一人が憲兵であることは、すぐわかった。彼は、水谷と顔見知りであるとみえ、何か話をしていたが、私がはいって行くと、「ご苦労さんです」と挨拶した。みると、彼の手に堅く捕縄が握られており、後手に縛られた、一人の黒い中国服を着けた、見るからに健康そうな中国人が、壁を背にして立っていた。

 一見した私の最初の印象では、25、6歳の淳朴な農民のように思われた。私はその人に気づかれぬように、ソッと彼の横顔を見た。丸顔の澄んだ瞳は、ガラス窓ごしに外へ注がれており、よく見ると、目の周辺はやや黒ずんで憔悴していたが、表情は、まったく平静であった。

 このとき、私はフト、この男は、いまここで殺されることを、気づいてはいないのだと直感した。すると、私も落ちつきを取り戻して来た。椅子を持ってこさせると、腰かけるように憲兵にうながした。憲兵は、もう、ここでは逃げないと思ったのであろうか、捕縄を解いて、その人を椅子に腰かけさせ、傍らに彼も腰かけた。が、ズボンのポケットに突っ込まれた彼の右の手の中には拳銃が握られていたのが外から見てもすぐわかった。

 私は緊張した気分をやわらげようとして、ポケットからタバコを出すと、二人に一本ずつ手渡し、相手に安心させようとして、みずからマッチをすって火を差し出した。

 やがて新田軍医と高岩軍医が手術室にはいって来た。つづいて森下衛生軍曹、衛生兵たち、最後に色白の、低い鼻の下にチョビ鬚を生やした病院長がつづいていた。病院長は、はいってくるや、いきなり「野田中尉、準備はできているか」と尋ねた。

 私はタバコをすてて振り返り、水谷に、全身麻酔の用意をしろと目で合図すると、傍らの憲兵に向かって、努めておだやかな口調で言った。

「おれは中国語が話せないから、君からよくわかるように言い聞かせてくれないか」

 あたりはサァーと緊張した空気に包まれていった。私は続いて、「体を診断するから、この手術台の上に寝るように」と。二、三歩手術台に近寄ると、台の上を軽く手で叩きながらうながした。

 その人は、憲兵の言う中国語がよくわからぬとみえて、怪訝な顔つきで立ちあがったが、憲兵に押されて手術台に近づいた。水谷は後を向いて、何枚も重ねたガーゼの上にクロールエチールを浸し始めた。皆はグルリと手術台の周りをかこんだ。

 私は焦り気味に「睡覚羅、睡覚羅(寝なさい、寝なさい)」と手術台の上を叩いた。憲兵は手術台の上にあがれとばかりに、その人の腰を押し上げた。

 彼が手術台の上に寝ようとした瞬間、私を含めて六人の男が、一気にその人の両腕、両脚、腰、肩、頭を手術台の上に堅く押さえつけたのと、水谷が、麻酔薬をいっぱい浸したガーゼを鼻と口に被せたのとは、ほとんど同時であった。彼は、猛然と起きあがろうとしたが、皆は懸命に押さえつけ、手術台が二〜三回大きくゴトゴトと揺れた。

 私は彼の頭を両手で抱え込むようにして手術台の上に固定させようと焦った。彼は憤怒に燃えた恐ろしい形相で、歯をくいしばり、呼吸を止めて、頭を左右に振り、口のところに当てがわれたガーゼをはずそうとしたが、水谷が夢中でガーゼを押さえている。私は早く麻酔薬を効かそうとして、両手の親指を両ほおにあて、上顎と下顎の間に、グッとカいっぱい突っこむと、口がひらいて、「ハァハァ」と短く呼吸しだした。

 唖然としている水谷に、私は、「もっとクロールエチールをかけろ」とどなった。彼は気がついたようにあわてて、クロールエチールの栓のバネを押さえた。クロールエチールは、細い棒状をなしてガーゼに吸いこまれてゆく。蒸発する麻酔薬の強い臭気が私の鼻をついた。やがて、全身に入れていた渾身の力が抜け始め、麻酔がかかり出したのがわかった。私はホッとして麻酔薬をエーテルに替えさせ、衛生兵に両脚を手術台に縛りつけさせた。しかし私は、完全に麻酔がかかるまでは皆に手を放させなかった。

 呼吸もだんだんと元に回復し深い麻酔にはいったと見るや、私は麻酔係を森下衛生軍曹に交替させ、水谷に、手術開始のため手を洗い始めるように言った。衛生兵は隣りの準備室に用意しておいた手術機械を運びこんでいた。

 物珍しそうに見ていた憲兵が、「もうこれで何をされても。本人はわからないんですか?」と尋ねるので、私は「何もわからないどころか、本人が知らないうちに生命がなくなってしまうのだから、これこそ本当の極楽往生ってやつさ。銃殺されて苦しんで死ぬより、この方がよっぽどましだよ」とせせら笑うと、憲兵もつられてニッタリとした。

 わたしは衛生兵に手伝わせて脚の縄を解き、中国人の着ていた被服をいっさいはぎとり、素裸にした。かつて、よほど手痛く拷問を受けたのであろう、背中に薄紫色をした数条の傷痕が、いたましく残っていた。私はそんなことにはとんちゃくなく、ふたたび足を縛りつけさせた。しかし、はじめ感じたように、この人が、その肩や背中の筋肉の恰好からして、小さいときから野良仕事で鍛えた、農民には違いないと思った。その人は今や深い麻酔にかかり、寝息をたてて手術台の上に横たわっている。

 やがて三人の軍医は、手術衣を着けて、つぎつぎにそれぞれの定位置につき始めた。このとき私の頭の中に、去年鄭州の十二軍直轄兵站病院の中で、一人の抗日戦士に対しておこなわれた「生体解剖」が、まさに開始されようとしたときの印象的な情景がありありと蘇って来た。

 そのとき私は、固唾を飲んで、20名ばかりの被教育者軍医将校とともに立っていた。突然、その教育の教官として派遣された北京第一陸軍病院の長塩軍医中佐は、「気をつけ」と声をかけ、われわれに不動の姿勢をとらせると、その教育を指導した十二軍軍医部長川島清軍医大佐に対し、「ただいまより開始します」と、報告した。そして長塩は、全身麻酔をかけ完全に意識を奪ったこの生きた人間に対して、病理解剖のときおこなう死者に対する儀礼をまねたのであろうか、「敬礼」と号令をかけた。なるほど長塩は味のあることをやるなあ、と思いながら、頭をさげたことを、私はいま、まざまざと思い起こしたのである。

 新田と水谷は一番大きな被布を広げて、その人の全身に被いかぶせた。新田は、「もう医者になって盲腸の手術は何回となく立ち合って見て来たが、自分でやるのは今日が初めてで」と言いながらメスをとった。去年の暮、学校を出て、つい2、3ヵ月前、この河南の地に赴任してきた、まだ24、5歳の学徒出身の高岩軍医は、これまで手術らしい手術もしたことがなく、口を堅く閉じて緊張した顔つきをしている。

 水谷は、盲腸の手術ぐらいとばかり、気軽に私に対して、「それじゃ始めてもいいですか」とうながした。が、私が「ちょっと待て」と押さえると、長塩の例にならって、「気をつけ」と不動の姿勢をとらせ、病院長に対し、「ただいまより開始します」と報告した。彼は横柄に軽くうなずいた。

 私はさらに、「敬礼」と声をかけると、無惨にも今麻酔をかけられ意識を失わせられたこの一人の、厳然として生きている中国人に対して、私がまっ先に頭をさげた。皆はハッと一声緊張した面もちで、わたしにつづいて頭をさげた。あたかも「皇軍軍陣医学の尊い犠牲者」と思いこませるために。

 軍人の父を持ち、生まれ落ちたその日から、天皇教と武士道精神を叩き込まれ、日本軍国主義の坩堝の中で育った私には、こうした行為を得意がり、こうしたしぐさが骨の髄まで滲み込んでいた。憎々しいまでに偽善を装いつつ、「敬意」を表するしぐさと、実際おこなうこの人道上ゆるすべからざる凶悪な行為の対照、これこそ日本武士道の一つの表徴であったのだ。

 「教育」は、まず最初、新田が執刀者となり水谷が指導しつつ、高岩を助手として、右の下腹部を10センチばかり切り開き、型のごとく盲腸の手術がおこなわれた。摘出切除された盲腸は、みみずのように細く、まったく健康で異常はなかった。

 つぎに、こんどは水谷が執刀者となり、新田と高岩が助手になって、みぞおちのところから、臍の下まで約30センチにわたり、腹の真ん中をひらいて、内臓の点検が始まった。水谷は腹の中に両手を突っ込み、大網膜をよけつつ胃を探り始めた。やがて腸をかきわけて、肝臓の裏側にある青黒い胆嚢を露出させて皆に見せた。皆がいっせいにのぞき込んだ。

 生きた人間の内蔵の、生臭いにおいがプンと私の鼻に匂って来た。私はこのにおいは心地よくさえ感ずるのだった。

 このとき、私がかつて河北省の保定にいた当時、憲兵隊の藤木大尉が生きた人間の健康な肝が万病に効くそうだから、何とか手にはいらないかと、私に聞いたことを思い出した。

 憲兵が私の腰のあたりをつっ突くので、気がついて振りかえると、彼はやや青ざめて、「私はちょっと忙しいので、今日はこれで失礼しますが、後はよろしくお願いします」と倉皇として手術室を出て行った。

 やがて内臓の点検を終わり、ふたたび腹膜を閉じ、縫い合わせた。私は被布の下に手を回し脈をさぐってみたが、やや弱く感じられるが大した変化はなく、森下にエーテルの滴下をもう少しゆるめるように言った。

 今度は私と高岩、水谷と新田がそれぞれ組んで、右腕と左大腿を切り落とす手術が、同時に、この一人の生きた人間にたいしておこなわれるのであった。私も手を洗い、右腕と左脚の根元で止血帯をかけさせ、型のごとく皮膚消毒をさせた。

 私は下三分の一のところで、全周囲にわたって切開した皮膚を剥離してやや上へまくりあげた。人間の太腿を一気に骨のところまでザクリと切りひらく、外科医でなければ味わうことのできぬあの触覚を、私は高岩に味わわせてやろうと思って、彼に大きな切断刀を持たせた。そして、刀と刀をもった腕で大腿を抱きかかえるようにしてと、私は恰好を作って見せながら、このようにザクリと一気にやるのだ、と彼に教えた。

 切断面がギザギザでは、止血のとき血管をさがすのに苦労するから、サッと思いきって全周囲にわたって、一つの平面のように骨のところまで筋肉を切りひらくのだと、かさねて注意した。衛生兵に足先を持ちあげさせておくと、高石は、私が言ったように、勢いよくグルリと全周囲にわたって軟部組織を切り落とした。

 鮮血が一時にドオッと滝のごとく流れ落ちた。伸びていた筋肉が、ビクビク痙攣するように収縮しながら切り離されていった。

 高岩はあわてて、止血鉗子で止血しようとしたが、私は、「そんな血は、どうせ出てしまうのだからほうっておけ」と言い放すと、手早く筋肉を両手でかきわけて、大腿骨に付着している筋膜と骨膜を剥離し始めた。白い大腿骨を露出させると、私は何枚も重ねたガーゼで、筋肉の断端を包むようにして上部に吊りあげ、骨鋸で大腿骨をなるべく上のほうで切り落とすように、高岩に指示した。

 ギイギイと鋸がきしみ、切られて行く骨のあいだに鋸が食い入り、思うように鋸が動かなくなった。

 私は、足元を持っている衛生兵に、切っている部位が、ひらくように、足元を少しさげるように言うと、高岩は、また勢いよく、鋸を動かしはじめた。そのとたん、大腿骨が切除された。そのはずみに、足先をもっていた衛生兵は、大腿の重みで、太股を、ドサリと、タタキに溜まっていた血の上に落としてしまった。

 血しぶきが、私と高岩の、サンダルをはいた素足にべットリ飛び散った。そんなことにはおかまいなく、私は高岩に手伝わせて説明しながら、主要な血管を結紮し始めた。

 「とくに神経を処置するときは、普通の場合、あとで、義肢をつける関係上、なるべく上のほうで神経を引っぱり出して、切り直しておくこと、そうしないと義肢をつけると痛むからだ。しかし、今日は、そんな心配はいらないがネ……」と先輩ぶって高岩に教えた。

 骨端にやすりをかけ、そこの処置をすませると止血帯を徐々に取りはずした。二、三本の細い動脈から、勢いよく出血して来たがこれを結紮した。

 ガーゼで切断面を軽く拭うと筋肉の切断面からジワリジワリと出血して来たが、「こんなものは縫合すれば止まる。」と、私は言いながら、私が手伝って骨端を周囲の筋肉で包むようにして、高岩に縫合させていった。

 左大腿部を終って二人はホッとしながら、真っ赤な鮮血にぬるぬるになった手を、真っ白い消毒液に浸すと、一瞬にしてドス黒くなってしまった。

 そのとき、水谷と新田は、右膊(上腕)の切断術を終ってタバコをふかしていた。私は麻酔を中止させ、森下に、「もし手、足を動かし、麻酔がさめそうな気配を見せたら、すぐエーテルをかけるのだぞ!」と言いながら、被布をもちあげ、その人の顔をのぞきこんだ。昏々として深い麻酔におちいっているが、つい二、三時間前にここに来たとき、見るからに健康そうな顔色をしていたその人は、今はすっかり容貌は一変し、蒼白となり、唇は青ざめている。

 脈はすでに細く小刻みに、早く打っている。瞳孔はなお縮小し、この人の強靭な生命力を思わせている。

 こんどは、いわゆるのどぼとけのところで、私が助手となって高岩に気管切開術を行わせた。そしてこれで計画したすべての「教育」が終った。

■  ■

 病院長は伊藤衛生中尉に連絡し、早く後片づけをやるように言ったまま引きあげて行った。軍医たちは、それぞれ軍服に着替え始めた。私も着替え始めた。私も着替え終るとタバコに火をつけ、便所に出て行った。

 便所から帰って来た私は、ふたたび手術室に戻って来た。すでに、中国人にかぶされた被布は、はぎとられ、いままで見たこともない、異様な、右腕と左脚が切断された、痛ましい、真っ裸の人間が、生きたまま手術台の上に横たわっていた。手術室の片隅には、切断された大腿と腕が並べられており、衛生兵がタタキの上に水を流して掃除している。

 私はこの光景を見て、本能的に、これは多くの人に見せてはならぬと思った。ふと周囲を見渡すと、4、5名の兵隊が手術室の外から窓越しに中を眺めている。私はあわてて、「オイ、向こうへ行け!」と怒鳴りつけると、森下を呼んで、五ccの注射器を持って来させた。この男の静脈にどのくらい空気を注入したら死ぬだろうかと興味を持っていたからである。

 ちょうどいい機会だとばかりに、森下が、すでに細くなった左腕の静脈につき刺した注射器の針を見つめていた。

 5ccの空気は、吸い込まれるように全部はいってしまった。だが、その人にはなにも変化は起こらなかった。私は意外に思うとともに焦り出した。
「20ccの注射器を持って来てもう一度やって見ろ!」と森下に言った。

 森下は20ccの注射器に空気を吸い込んでふたたび静脈に刺した。少しずつ空気がはいるかに見えたが、円筒子は、ピタリと止まって、森下は、懸命に親指に力を入れて押して見たが、どうしても動かない。あわてた私は…「どけ!おれがやる!」と森下のそばに立ち、針の先が静脈からはずれないように、ソッと注射器を受け取るとグッと押してみた。依然として注射器は動かなかった。針がつまっていないのを確かめると、私は注射器を持ち直し、肘を下腹に当てて全身の力をこめて円筒子を押した。グッグッグッと円筒子が動き出して、注射器の半分ほど空気がはいったころ、左胸の心臓に相当する部位で、無気味なグルグルという音が聞こえた。そのとたん、中国人の下顎が静かに動き出し、私はハッとして針を抜いて見つめていた。

 二、三回大きな呼吸をしたかと思うと、ガックリと顎をたれてしまった。と見るまに、蒼白な顔面からいっさいの血の気が、サァーと引き始め、見る見るまに、顔貌は死相に変わっていった。

 私はそのとき、ああ心臓が止まったのだと直感した。急いで左胸の乳の下に手を当てた。

 鼓動は触れない。森下に聴診器を持ってこさせると、心臓部に当てた。心音は聴取されずに、ただ聞こえてくるものは、人間の臨終の際、心臓が止まった直後に聴取される、あの無気味なサァーという雑音だけであった。

 私は傍らに呆然とたっている森下に、「オイ!完全に心臓は止まっている。伊藤中尉に連絡を取り、早くうまやの後に掘ってある穴にわからぬように注意して埋めてしまえ!」と言い捨てると、手術室を出た。

 外はもう夕闇が迫り薄暗くなっていた。医官室に引きあげてくると、水谷がまだ帰らずに待っていた。私は彼をうながして宿舎へと帰路についた。やや歩いてすっかり落着きをとりもどすと、「オイ! 水谷君! 今日の男は、いったいどうした男なんだい」と、彼がよく憲兵の治療をしているので、知っているかもしれないと尋ねてみた。

 「八路の「密偵」だそうですよ」と彼は答えた。

 このとき私は、いやあの人は確かに農民に違いないと不審に思ったが、農民だろうが、「密偵」だろうが、私には関係したことではない、と言い聞かせながら、それ以上追及しようともしなかった。しかしあの人が息を引き取ったとき、聴診器で聞いたサァーという無気味な雑音が、私の耳元に執拗に蘇って来た。

■  ■ 

 そして11年を経過した今日、いまもなお私の耳底に、ありありと残っています。

 いま、私の目の前には、太行の山の端が延びて、河南の沃野に連なるあの麓の美しい遠景が浮かんできます。そしてここでは、平和を熱愛する中国の人びとが、社会主義の建設のために戦っている幸福な姿が浮かんできます。しかしその大地の底に、私のため生命を奪われ、万斛のうらみを飲んで死んでいった、幾多の人が埋まっていることを思うとき、私は胸も張り裂けんばかりの思いがします。

 ほんらい普通の人間ならば、想像もできないようなことを、私は侵略戦争なるがゆえに平気でおこなって来ました。

 ほんらい「医は仁術」と言われ、医学は人類社会に奉仕すべきであったのにもかかわらず、私は、侵略戦争なるがゆえに、意識的に医学を人殺しにもちい、医学を冒涜したのです。

 このあまりにも、にがにがしい、苦しい、自己の体験の中から、私は徹底して侵略戦争を否定します。と同時に、人間の良心と医者としての使命をよびさまし、こうして生かしてくださっている中国人民に、今しみじみと心からの感謝をささげます。そして、生きているかぎり、侵略戦争に反対して戦うことを誓います。

(のだ みのる 中国帰還者連絡会会員 1987年12月没)

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