最終更新日:2004年04月01日

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表紙 > バックナンバー > 第4号 > 三光 −殺光、焼光、槍光−


三光 −殺光、焼光、槍光−

本田義夫


 私は1900年、三重県に生まれ、高等小学校卒業後、1920年徴兵、下士志願、1929年少尉候補生として陸軍士官学校に入校。1943年少佐、大隊長として華中、華北に勤務したが1945年6月、偽満州国通遼付近に転じ敗戦に至る。本件は私が1941年河南省において、大隊長として犯した罪業である。

 私は、河南省僕陽県の李家荘を中心とする部落を攻撃するため、1941年5月9日の深夜、大隊の総員800名をひきい暗夜を利用して行動を始めた。シトシトと降りつづける雨の中を、夜通し行軍した。目的地に着くころになって、やっと雨があがり、雲の切れ間から暁の明星がキラキラときらめいて、部落は静まりかえっていたが、私は、「敵のやつ、こちらの企図も知らずに眠り込んでいるなあ、畜生!袋の鼠だ」とほくそ笑んだ。

 そこへ副官の榎本栄一中尉が飛んで来て、「展開完了の無電がありました」と報告した。

 私はその報告が終るのももどかしく、信号手に戦闘開始の赤吊星(あかつりぼし−信号弾)を打ち上げさせた。暁の闇をやぶって第6、第7中隊方面で、さかんに重機関銃、軽機関銃の音がひびきはじめ、つづいて第5中隊正面からも銃声が起こり、包囲圏をしだいに圧縮し、もう部隊は部落内に侵入したころだと思っているのに、一つも戦況報告が来ない。私は待ち切れなくなり、情報係と指揮班をつれて土壁の東門を入った。そこで第5中隊長・甲田助五郎大尉に出会った。

 「オイ、中隊長、戦果はどうか、鹵獲品はどうだ」とたたみかけた。中隊長は浮かぬ顔で、「大隊長殿、申し訳ありません」と答えた。

 「戦果がない!何のため射撃したのだ。貴様の中隊はなってないぞ」と怒鳴りつけながら、「オイ、住民はどうしたんだ」とせき込んだ。中隊長は力なく、「敵はすでに企図を察知して、おりません。住民の大部分も逃げています。逃げ遅れた年寄り、子供が2、30人残っていました。それは全部捕らえておきました」

 「仕方がない。それは全部監禁しておけ。遺棄死体はどうか」

 「ハイ、10名ばかりの住民が死んでいました」

 自己の栄進のために、ただ一途に戦果を追っていた狡猾な私は、銃で殺した人間は全部戦果だと決めていた。しかし困ったことには鹵獲品がない、私は、早速清水情報係に命じ、県保安隊に渡すはずの兵器をごまかして、小銃を鹵獲したようにつくろった。そして副官に命じて、本朝来の戦果、小銃10、手榴弾10、遺棄死体10と連隊長に報告させた。そのときはもう10時になっていた。そこに五中隊長甲田大尉が色あおざめてやって来た。

 「朝食後、斎藤一等兵が行方不明になりました」と報告した。

 とたんに私の顔には、斎藤一等兵の青い顔が現われては消え、現れては消えた。私はしたたか後頭部を殴りつけられたような衝撃を受けた。斎藤一等兵は、10日ほど前から腹をこわしたと言って、食事もろくろく取らずにぶらぶらしていた。軍医は大したことはないと言う。私は、「こいつ里心を出して憶病風にかかっている」と思ったので、甲田中隊長に、「斎藤一等兵は残すな。」と厳しく命じた。そして行軍中一度落伍したのを、殴りつけて連れて来たのである。私は斎藤がどこかで死んでいればよい、死んでいれば戦死と報告してごまかせる。捕虜になっていたら…、と思うとまったく気が気ではない。

 「甲田大尉、それで処置は」と怒鳴りつけた。甲田はますます青くなって、「住民を拷問して調査しましたところ、斎藤は、今朝一人で朝食をしていたとき、民兵らしい者が拉致して行ったと言っています。確実ではありません」

 私はかっとなった。何たる無様だ。そんなことだと、第一おれの首があぶない。一等兵の命とおれの首との取り引きができるか、と思うと、むかっ腹が立っておさまらない。

 「処置がなっとらん。どうしてもっと早く報告しないのか、馬鹿者。それでも貴様は中隊長か」

 私はあわてて、「すぐ現場に行く。住民を徹底的に拷問して調べる」と怒鳴って追い返した。

 私は、副官を呼んで、五中隊の一部を呉村北方地区に、七中隊の主力を南方地区に捜索するように命じ、本部情報係をつれ、拷問の現場に駆けつけた。周囲を土壁でかこまれ、煉瓦建の大きな家に、さきほど捕らえた住民を監禁し、中庭には、拷問を受けた一人の青年が、仰向きに倒れ、腹は太鼓のようにふくれあがり、顔面はドス黒く腫れ鮮血にまみれている。私は天皇崇拝よりくる凶暴性と、中国人民に対する蔑視感から、中国人を虫けらのごとく考えていた。そこで、中隊長に命じて監禁してあった農民30名を、中庭の一隅に引きずり出させた。私は、中国人民の血で汚れた軍刀を左手に突き、農民をにらみつけ、「日本の兵一名が行方不明になった。お前たちの誰かは知っているはずだ。現に民兵が拉致して行ったと言う者もある。お前らの連帯責任だぞ。どこにいるか言え。もし言わねば皆あのとおり拷問をやる」とおどしつけた。誰一人返答しない。この無言の反抗に猛り狂った私は、「よし、やつらが言わなきや言わんでもよい。後で吠え面かくな」と、吐き出すように言うと、清水中尉、許司軍曹、斎藤兵長に片っぱしから拷問するように命じた。私自身も水責め拷問をやった。

 誰一人として白状するものはない。燃えるような憤激の目でにらみつけている。私は、いかに強情なやつでも、一名犠牲を出せば白状するだろうと考えると、一人の50歳ぐらいの父親を引き出し、その前に、その人の息子で22歳のすっきりした逞しい青年をうずくまらせた。許司軍曹に命じて、拳銃をその後頭部にあて、引きがねに手をかけてかまえさせた。私は残忍な顔にひきつらせながら、父親に向かって、「オイ、白状しないとお前の息子を殺すがどうか」と迫った。

 父親はちょっと顔色を変えたが「不知道(知らない)」と一言、言っただけで、もう口をひらかなかった。私の期待はみごとに蹴とばされた。私は蒼白になった唇をふるわせながら、「息子を撃ち殺すぞ、後悔するな」とわめいた。

 しかし父親は、「おれの言っておることは正しいのだ。殺すなら殺せ」と、決然と言い放った。

 私はこの言葉にカッとなって、許司軍曹に射撃を命じた。息子は、「お父さん、正義のため、この土地を最後まで守りぬいてくれ。私は勝利を信じて死んで行く」と叫んだ。

 その瞬間、拳銃は火を吐いて、烈々たる闘魂に燃える息子は、ばったり前にのめるように倒れた。乾いた大地は、音もなく愛国青年の尊い血を、また吸いこんで行った。

 私は、狂ったように、黒い顔をゆがめて怒鳴りつけた。

 「白状しなければ、皆殺しにしてやる」

 しかし住民は誰一人返事をせず、炯々たる目をすえて私をにらみつけていた。私は彼らのまなざしを払いのけるように、「徹底的に締めあげろ」と清水中尉を怒鳴りつけて本部に引きあげた。そこへ、甲田中隊長から報告が来た。

 「斎藤一等兵は、呉村部落の畑の中の溝で、手榴弾で自殺していました。体はバラバラにすっとんでいましたが、注記のあるシャツの切れはしがあったので確認しました」

 私は、「馬鹿野郎、心配させやがって」とつぶやいたが、心の底から安堵の笑いが、こみあげて来た。私は副官に命じて、早速戦死の報告を連隊長に出させた。

 翌日払は、各中隊を動員して棗(なつめ)林の伐採を開始させた。私は情報係と、指揮班をつれて、乗馬で督励に出かけた。現場にさしかかる手前の小高い砂山のすそを、一人の男が東のほうに駆けて行く姿を見た。これはあやしい。清水中尉は軍犬を放してけしかける一方、清水は乗馬兵二名で追跡、やっと、300メートルのところで取り押さえ、逮捕してつれて来た。見れば27、8歳の頑丈で額の広い、均整のとれた男である。

 「清水!こいつは党員でなかったら諜者じゃ。徹底的に調べろ」と命じ、私は付近の小さい廟の前で高梁(こうりゃん)殻に腰をかけて伐採の情況を見ていた。

 清水は私より6、7メートル離れた砂原で、その男の両手を後に練りあげて、拷問を始めた。急に清水のほうが騒がしいので、見ると、彼の男が清水の上になって、組み打ちをやっている。警戒兵は上からかの男を押さえつけ、右手で頭部を殴りつけているが、左手を噛まれて悲鳴をあげた。そのうち、数人の兵が彼を押さえつけたので、清水はやっと立ちあがり、相手の男の両手を後手に縛りあげ、うずくまらせた。私は興奮しながら駆けつけて、清水を詰問した。

 「奴が小便をしたいと言うので、縄を解き、そのままで拷問していましたところ、やにわに立ちあがって歩哨の銃を奪おうとしたので、背負投げをくわせようとして左足がすべり、押さえられたのであります」

 「怪しからぬやつだ」

 私は怒鳴りながら、清水の手から木刀をとり、力にまかせて彼の背中を二つ三つ殴りつけたが、彼の鉄の意志は全身にみなぎり、木刀をはね返し、私をグッとにらみつけた。

 「清水、徹底的にやれ、党員らしいぞ、白状させたら功績だ!」と言うと、私は、逃げるように馬に乗って棗林に急いだ。その後で、「大隊長殿すみません。あの男は党員でした。『今に見ておれ、この仇はきっととる』と言ってちょっとした隙を見て急に駆け出し、アッと思うまに、すぐ近くにあった深い井戸に飛び込んでしまいました」

 青くなっておののいていた清水の報告に、私は目がくらみ、襲いかかる恐怖に唇をふるわせながら、「間抜けめ、それでも貴様は将校か」と怒鳴りつけた。それにしても何という民族の怒りと恨みの激しいことか。

 棗林は15町歩にあまる広いものだった。2、30年、農民たちが生きるために手をかけて育てて来た、2500本の棗がぎっしり繁茂していた。幹の直径は3、40センチもあり、高さは3メートルぐらいに伸びているが、剪定が行きとどき、枝は横にのびて、ちょうど傘を広げたように茂っている。

 河南は棗の名産地で、一年間の収穫は、農民の大きな生活の源だった。ここだけでも棗の収穫はしろうと目にも2−30トンの収獲が予想される。重なりあった小枝は、やっと芽がふくらんで、春の陽気を待っていた。私はこの棗林を眺めながら、これを完全に切り倒してしまえば、住民は生活の道を失い、きっと八路を離れるにちがいないとうなずきながら、つぎからつぎに音を立て、土煙りをあげて倒されて行くさまを、心地よく聞いていた。

 中隊長は誇らしげに、「朝から100本を伐りました」
 「馬鹿に少ないじゃないか、鋸はいくらあるのだ」
 「30個あります」
 「鋸1丁で1時間2本に足らん。中隊長はやる気があるのか」
 「八路軍の反抗は執拗です。一小隊は警戒に出しておりますし、鋸をくって思うように切れません」
 「馬鹿言うな、工夫をしろ。木栓を作って打ち込め。棗林を切るのも戦争だ。棗林を憎しめ。この棗のために宮尾部隊は全滅したのだぞ。午後はどうしても300本を切ってしまえ」

 私は官尾部隊の全滅を、この生い茂った無情の棗林のせいとしか考えていなかったのである。まもなく私は、7中隊方面に回って行った。

 中隊長大塚信義中尉は、昼食後全員を集めて、「午後はどうしても300本を切り倒す。二つの小隊の競争だ。早く終わった小隊から帰す」と命令すると、それまで木陰で休んでいた二人の小隊長と、手に鞭を持って、兵隊の動きを監視してまわった。「オイ、山本一等兵、お前は何を考えているのだ。鋸を引く手に力がいっこうはいっておらんぞ」相棒の大島上等兵だ。山本は黙っている。

 「オイ、山本、お前は百姓で、山仕事の話をよくするが、それじゃ仕事は、はかどらんじゃないか」

 山本は中国の百姓が、棗をこれまでに大きく育てるまでのなみなみならぬ苦労を考えていた。そしてこれを切り倒した後の百姓の気持ちを考えると、鋸を持つ手から、しだいに力が抜けていった。二人の後に立っていた分隊長細田軍曹は、やにわに山本に飛びついて、ほおを鞭でつづけざまに殴った。

 「山本、貴様たるんどるぞ、目をさませ、戦争だぞ」と怒鳴った。山本は反射的に体を硬ばらせて据にカを入れた。

 彼らが綿のように疲れて、軍営地に帰ったときは、もう夕闇せまるころだった。棗林の面貌が、一日で変わったのに満足した私には、棗を育てた大地と不屈の農民があるかぎり、生きるための反抗がつきないものであることを、知ることはできなかった。

 略奪した肉と野菜を盛った皿を前に、ビールの泡に舌なめずりしておった私の前に、のっぽの、まの抜けた福宮中尉が立っていた。

 「大隊長殿、すばらしい戦果です」

 「なんだ、言ってみろ」

 私はコップをおいて、ほろ酔いの顔をゆがめて、福富の顔を見た。

 「そうです。馬40頭、驢馬50頭、牛30頭、豚20頭です。いちおう点検してください」

 福富はさも手柄顔だ。私は無言で立ち、福富について家畜を集めている広場に行った。そこには、むりに主人の手からふんだくられた家畜が、一様に頭をもたげて、私のほうを見ていた。内心満足したが、貪欲な私は、「福富、思ったより少ないじゃないか、ぼんやりさがしたのでは駄目だ。住民は砂丘を巧みに利用して隠しているから、兵を督励して、もっとさがして来い」と、にがい顔をして本部に引きかえした。

 部下の苦労なんか考えようとしないで、ビールを飲みながら、連隊長にたいする戦果の報告を、どうしてうまくやるかと考えていた。

 翌日、私は五中隊のそばの砂丘の上に展をおろして伐採状況を見ていた。そこへ甲田大尉が、一人の老人をつれて来た。60を越した、痩せ細った男だったが、目は鋭く光っていた。

 「大隊長殿にお願いいがあると言っています」と言った。私はうなずいた。

 「お前はどこの者だ」

 「呉村の王と言う者です」

 老人は私の前にひざまずいた。そして言葉をつづけた。

 「この地方は、一面の砂漠地帯で、麦や高梁は、育ちが悪い。祖父の代から棗を作り、このとおり成長したので、百姓はこの棗を街に売り、食料を買って生活をしているのです。穀物ならば一年一年でなんとかなるが、棗は30年もかかって、やっとこのように育ったのです。これを切られては、明日からの生活の糧を失います。切るのをやめてください」と、言葉はおだやかだが、りんとした強いものを感じた。

 私は、「何をぬかす。貴様らは八路軍に協力している。このあいだ日本軍の全滅したことを知っとるだろう。お前たちが、ここに二度と住めないようにするのがわしの戦法だ」と怒鳴りつけた。

 老人はふたたび何か訴えんとするのをはらいのけるように、私は、長靴で彼の脾腹をカいっぱい蹴とばした。王老人は倒れた。腹を押さえたまま、無言で目をすえて、私を憎々しげににらみつけながら去って行った。私は、かたわらの清水中尉を見て、「オイ、清水、あいつ、怪しいぞ。このままかえしたら八路に連絡するに決まっている。処置しろ」と命じた。

 清水は、松本軍曹に命じて、痩せた背を見せながら去ってゆく老人を後から狙撃した。生活を愛し、棗を愛し、同胞の明日を考えつづけて来た老人は、かぎりない恨みをのこして殺されていった。

 13日夕方、連隊命令によって、部隊はそれぞれ原駐地に引きあげることになった。私は副官を呼んで、こともなげにつぎの命令を伝達させた。

 第5中隊は、呉村部落70戸を焼却して、大百尺に集まれ。

 第6中隊は桑園部落50戸全部残らず焼き払って本部に帰れ。

 第7中隊は李家荘に行き、全家屋80戸を焼却せよ。

 私は、午後3時、無気味な黒吊星の信号弾を打ちあげさせた。まもなく、呉村と桑園の方向から黒煙があがった。そして、見る見るうちに、どす黒い煙につつまれた紅蓮の炎は天を覆った。

 私ははるかにこれを眺めて、「ざま見やがれ」と腹の底からさも憎々しげにつぶやいた。

 火の手が(李家荘からは)あがらないので、じっとしておれない衝動に駆られた私は、清水中尉をつれて、7中隊の担任をしている李家荘の部落の状況を見に出かけたが、石油を注いだ高梁棹に火をつけては、一戸一戸に投げ込むと、まもなく赤い炎が燃えあがって行った。

 中国人民の、生活のすべてを奪い去る地獄の劫火が、私の手でかき立てられているとき、ふいに近くで軽機関銃の音が聞こえて来た。確かに八路軍の機関銃だ。部落は一帯に黒煙で覆われている。どこから八路軍が逆襲して来るか、まったく予想がつかない。私は全身が射すくめられたような恐怖におおわれた。軽機関銃の音はますます近づいて来る。すぐそばから今にも狙撃して来そうな予感がする。私は部下の手前をも忘れた。それでも言葉だけは、「オイ、清水、第三小隊の状況を見に行こう」と、うつろな声で怒鳴ると、あたふたと部下を置いたまま西方の安全な部落に身を避けたのである。

(ほんだ よしお 中国帰還者連絡会会員 1981年没)

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