最終更新日:2004年03月31日

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生き地獄

植松楢数


 

 優美で平和な中国の領土、熱河に私が攻め入ったのは、1942年4月中旬であった。

 新参憲兵として、承徳憲兵隊に到着したその日、隊長憲兵中佐安産次郎から、私がそれまで抱いていた、中国に行けば人殺しができ、しかもそのことが何よりの日本男子として名誉なことであり、忠君愛国の表現であるというあの大和魂により、一層の鼓舞を受けた訓辞を聞かされた。それは今もなお、私の脳裡にはっきりと残っている。

 隊長安藤は、わざと威厳を作るため肩をいからし、髪を片手で撫でながら…

 「君は覚悟はできているか、この熱河は満州で一番治安の悪い、中国共産党の巣窟だ!ここに住んでいる中国人は、皆共産党員の匪賊であり、その親戚の奴らだ。したがって我々日本の皇軍、就中、憲兵がこの匪賊を一人残らず粛正する事は非常に重要な責務である。男、女の区別なく、全部捕まえてしまえ!そして使いものにならん奴は、子供だろうが老いぼれだろうが、全部殺してしまえ!なまじっか情容赦する事はかえって敵を残すことになる。さらに匪賊どもの根を絶つために、建物の一切はもちろん、草木一本も残してはならぬ…」と。

 私は今考えれば、隊長のこのような残忍野蛮な命令に、当時は男と生まれ日本帝国軍人として、遠く海を渡ってやって来た出征の意義を見つけ出し、故郷の人々が旗や織(のぼり)で私のこの出征を祝福してくれた気持ちと期待に応える途こそ、この隊長の命令を忠実に実行し、この命令に自分の生命を捧げて一人でも多くの中国人を殺し、一軒でも多くの家を焼き払う事であり、またそのことのみが生みの親への孝行であり、天皇への忠義であり、さらにその事が自分の将来の栄達と幸福を保証する唯一のもので、あわせてそれは日本国民の利益であると、私は有頂天になっていた。

 そして私は、丸3年半熱河の各地を、泥棒猫のように中国農民の隙を狙っては襲いかかり、償いのなし得ない、大きな犯罪を積み重ねて行った。

 1943年3月19日、放火と掠奪殺人の専門組織であった、承徳憲兵隊第二憲兵遊撃隊の一員として、熱河省興隆県芳山地区の侵略行動をしていた時の事である。約150名の憲兵が三隊に分かれて、長城県に程近い芳山西方の丘陵地帯に散在する中国農民の家屋を襲い、部落民を全部捕まえ、若い男を除き、他は全部射殺してしまえ、という遊撃隊長生田省三憲兵大尉の命令で、私の所属する佐藤分隊の十数名の憲兵は段々畑にかこまれている窪地にむらがっている十数軒の農家を襲うことになった。

 …中国人の密偵を先頭に、私も他の憲兵も、ウジ虫のような格好で、段々畑を窪地に向かって、這うように降りて行った。目標家屋15メートルまで近づいた私たちは、いったんそこで停止し、農家の様子をじっと息を殺してうかがった。

 時刻は午後4時すぎ、家の中から夕餉(ゆうげ)の煙が、高粱(こうりゃん)がらで屋根を葺いた片隅に泥でできている煙突から、細ぼそと陽足の早い山峡の空に昇っている。ガチャガチャと小銃の安全栓を外し、腹這いの姿勢になっている一群の憲兵の姿は、ちょうど狼が獲物にとびかかって行く時のような格好である。先頭を歩いていた密偵が足音を忍ばせながら、段々畑を下に降り切って部落の中に入った。一瞬、私の脳裡に、緊張した不気味な予感がひらめいた。それは部落の中が余りにも静かであり、這って行った密偵の合図の呼び声すらしなかったので、これはひょっとすると、八路軍の便衣(軍服でない一般の人が着る中国服。又はそれを着ている人のこと)が私たちの侵入を知って待ち伏せており、音もなく密偵を捕らえてしまったんではなかろうか、と次の瞬間に起きそうな激しい反抗のツルベ打ちに内心おののきながら、畑の土に身体をすりつけるようにして小銃を構えた。

 しばらくして、密偵のドラ声が段々畑にコダマしながら聞こえてきた。「逃げてしまった、早く早く」私は山猫のような勢いで畑を下りて行った。早く行かなくては他人より遅れては、せっかくの機会を逃がしてしまうというあせりが、いや、あせりなどというなまやさしいものではなく、もともと私がこのような侵略行動の中で、身につけていた野獣のような蛮勇と欲望が私をせき立てたのであった。

 それは、これまでの侵略行動、特に家宅捜査の中で、逃げ遅れた年頃の娘をつかまえる事と、珍しい中国のいろいろな古物をかっぱらう事が、すでに私の経験というより本性にさえなっていたからである。だから、まごまごして他人より遅れたんでは、娘どころか布切れ一つ自分の戦果にできないし、もっと私に大切な事は、功績と進級に直接影響するからであった。

 分隊長佐藤軍曹の「捜索開始」の号令を背中に聞きながら、黒の綿服を着て武装した十幾つかの人間の塊が、なだれこむように畑を降りて部落に突入した。静かだった部落の中は、一度に食卓をひっくり返したように形容もつかない物音が憲兵の発射する威嚇射撃の銃声と一緒になって、あたりにひびいた。

 だが、不思議な事に、人間の叫び声がしない。ただ憲兵の怒り声だけである。私が真っ先にとびこんだ畑下の家には70歳位の老婆がセンベイ布団にくるまって寝ていただけで他に誰もいないし、めぼしい物一つ見当たらなかった。しかしそれでも私は、拳銃を老婆の顔に突きつけながら泥足で、オンドルの上にあがって、老婆の体をけりとばし、老婆の着ている布団を引きはがし、オンドルに敷いてあるアンペラだけをめくって、荒れ狂った。私に蹴り飛ばされた老婆は、恨めしそうに私の顔を見ているだけで、もの一つ言わない。病気で寝ていたのであろう。声を出す力さえなかったのである。

 勢いこんで飛び込んだ私は、自分の予期していたものがなかった事にムシャクシャしながら、オンドルの前に置いてあった、食べ物を入れる空つぼの瓶子を、老婆の身体の上に投げつけて表に飛び出した。隣りの家からも、私の同僚が飛び出してきた。「おい皆老いぼれぱかり残して逃げてしまいやがったらしいぞ」私は吐き出すようにどなった。

 春とはいっても、まだ雪解けが始まったばかりの長城、陽はもう山陰に落ち、あたりは薄暗くなり始めた。狙っていた獲物に逃げられ、真っ赤になって怒り出した分隊長佐藤軍曹は「よし残っている老いぼれを全部表に引き出せ」と大声でどなった。

 気抜けしたような感じで、次の命令を待っていた私達は、再び病人や老人の寝ている家々に飛び込んで行った。そして5分とたたない間に、病気で歩けない者まで地面を引きずって、表の窪地に引っぱり出した。集められた人々は、皆老人や病人であり、若い者は一人もいなかった。中には幼子をふところに抱えたお婆さんもいた。

 「チェッ!何て老いぼればかり残っていやがんだ。おい、セガレはどこへやった。八路軍はどこにいるんだ」通訳が、足もとにころがされている白髪の老人の胸を、棍棒でつつきながら、訊問を始めた。だが、老人はただの一言も語ろうとしない。

「こやつら皆オシの真似をしてトボケていやがる。構わないからぶん殴れ」分隊長の怒声の終わらぬうちに、一群の憲兵は手に手に棍棒で頭といわず、顔と言わず、土下座させられている全部で27、8名の老人をめった打ちにし始めた。

 私は自分で引きずり出してきた、先刻の70歳位の老婆の背中を、両手で梶棒を握って、力いっぱいぶん殴った。ただ一回で、老婆はかすかなうめぎをあげて死んでしまった。

 沈黙の反抗をしていた20数名の人々は、あまりの苦しさに、せきを切ったように大きな悲鳴をあげて、憲兵の拷問にもだえている。乳飲み子が火のついたように泣き出した。と、突然分隊長佐藤軍曹の怒声がした。「よし、こうなったら生田分隊長がいつも言っていた通り、どいつもこいつも全部殺してしまえ。一人も生かしておいちゃいかん。子供も皆殺せ」

 苦痛にもだえながらも、頑強に八路軍の行方を語ろうとしないこれら年老いた中国の農民の顔には、ありありと死んでも殺されても、絶対に民族を売る事はできない、という鋼のような堅い決心と、侵略者日本憲兵に対する炎のような憎悪がもえていた。

 まこと私達が赤化地区とよんでいたこの熱河の農民には、私達にはとうてい理解できない不屈の魂が身体中にあふれているようだった。だがこれまで数十名の農民を殺してきた私には、たとえひと言も口を割らない不屈の人間であっても、何の抵抗もできない青年や病人、婦人であっても殺すに何の手数もかからない。極めて無造作にやってのけられる仕事だ。分隊長の命令を聞くが早いか私は、腰の拳銃を取り出し、先程からの拷問に地に伏して悶え苦しんでいる老人の後頭部に銃口を押し当て、そこに倒れたり、座ったままでいる7人の老人を次々に射殺した。

 私の同僚も、私と同様まるでだるま落としのパチンコでもやる時のような格好で、動けなくなった老人を片っ端から射殺している。

 一番端の方で身体を伏せて、乳飲み子を懐に、我が身で子供を悪魔の手から守ろうとしていた老婆もまた、佐藤軍曹の拳銃一発で横に向き直り、乳飲み子をしっかり抱いたまま、低いうめき声をあげながら死んでしまった。佐藤軍曹は、片方の足で老婆の横腹をけったかと思うと、「エイッ!面倒だ、こ奴もやってしまえ」と舌うちしたかと思うと、見る間に泣き疲れ声も出なくなっている、何事が起こっているかも知らない二歳の男の子の頭は、一発のもとに撃ち貫かれた。

 窪地はあたり一面血の雨が隆ったように、27名の撃ち殺された中国農民、老人、子供の真っ赤な血潮に、地面の色は赤黒く変わっている。そして、その血の海に落ちこんだかのようにもがき続けている。

 撃たれてまだ死に切れない老人の頭の上から、密偵が運んできた藁くずや高梁桿を積み上げ、携行していた石油を振りかけ、火がつけられた。さらに十数名の憲兵は、手に手に火のついた高梁桿や木切れを持って、全部の家に火をつけた。高梁桿で茸いてある百姓家はバリバリッと爆竹の破裂するような昔を立てて、見る見るうちに燃え広がり、藁臭い煙の臭いが、地べたを這って流れて行く。表通りの窪地では、血に染められた27名の死体が、ジュジュと不気味な音を立てて燃えている。いい知れぬ、異様な人間の焼ける臭気が、鼻をついてくる。まさにこの世の地獄そのままである。

 普通の人間では、とてもこんなむごたらしい光景の中に、ただの一秒間も眼を開けている事はできない。だのに、私は生きた人間の身体から血が噴き出し、悲痛なうめき声が聞こえ、燃え盛る火の手を見る時、無性に戦争に参加し、海を遠く渡って中国大陸までやってきた甲斐があるようにさえ感じ、日本に生まれてよかった、中国人に生まれていたらこんなひどい目に遭わねばならないと、心密かに喜びさえ感じていたのだ。

 私は何という人でなしの鬼畜であったか…。

(うえまつ ならかず 中国帰還者連絡会会員)

【略歴】

1920年、奈良県主まれ。
1941年より軍隊に入るまで私鉄労働者(運転手)。
1942年、憲兵軍曹として熱河、錦川に播踞

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