最終更新日:2004年03月31日

○ 更新履歴 ○

○ 中文(簡体字)簡介 ○

○ お問い合わせ ○


 中国帰還者連絡会とは?
 中帰連関連文献集
  バックナンバー
 
定期購読はこちら
 季刊『中帰連』の発刊趣旨

 戦場で何をしたのか
 戦犯管理所で何があったのか 
 お知らせ・活動紹介
 証言集会を開催します
 受け継ぐ会へ入会はこちら
 受け継ぐMLへのご登録

 


表紙 > バックナンバー > 創刊号 > 敗戦から帰国まで

 

敗戦から帰国まで

沢田二郎

 


沢田氏の略歴

一九二○年、東京生まれ。
一九四三年、東京商科大学卒業後、広島で入隊。
一九四五年、中国で陸軍士官学校卒業後、見習士官で中支那宜昌の第三九師団第二三一連隊第一大隊の小隊長として最前線陣地の守備に当たる。その後師団は満州国へ移動。敗戦後捕虜としてシベリアに五年、戦犯として中国に六年間抑留。五六年帰国後は商社勤務。現在中国帰還者連絡会会員。


※本文の初出は『帰ってきた戦犯たちの後半生−40年史』(新風書房)


 「戦後の日本は、敗戦の瓦礫の中から復興した」とは、一般に言われている日本の戦後史である。しかし、この歴史の裏側で、戦争―ソ連抑留―中国抑留という変った経歴で、戦後11年、引き続き抑留されていた日本人が1000人もいた。そしてこの1000人は、あの、日本がやりっぱなしで放り出し、二度と反省するのもイヤだと思ったあの「戦争」の、残骸と後遺症の中に、否応なしに引き込まれていったのである。

 これは、戦後日本の裏の歴史である。そしてここには、裏側をくぐり抜けてきた者だけが体験できた歴史の真実がある。

 約2000万人の外国人を殺し、日本人にも約300万人の死者を出したあの第二次世界大戦が、1945年日本の敗北によって終結した時点では、海外には600万人の、日本軍人と民間人が残されていた。大部分の者は、戦後一年くらいの間に日本に帰国した。その後も、引き続き海外に残された者の、最大のものがソ連に捕虜となった約60万人であったが、戦後5年を経過したころには、それもほとんどの者が日本に帰り、あと数千人のみが残されるようになった頃、国際情勢に一つの変化があった。

 1949年10月、隣の中国では、毛沢東の率いる中国解放軍が、国内を統一し新中国を誕生させた。早々にスターリンと毛沢東の、両首脳会談がモスクワで行われ、両国間の諸問題が討議された中で、最後にひとつの項目がスターリンによって提示された。

 「現在ソ連に抑留中の旧満州国皇帝溥儀を中国に引き渡す。同時に中国にかかわる日本人戦犯1000人も引き渡す」

 この時に選ばれた1000人が我々であった。

 中国と英・伊合作映画「ラスト・エンペラー」の冒頭に、1950年8月ソ連からの輸送列車が中ソ国境綏芬河に到着、ここで、元満州国皇帝溥儀の一行と共に、1000名の日本人戦犯が中国側に引き渡され、中国の列車に乗り移る場面がある。ここに写されている白黒のフィルムは、当時の中国政府が記録していた実写のフィルムである。従ってここに写されているのは、45年前の我々の姿なのである。全員が一緒に撫順市の戦犯管理所に収容され、溥儀と日本人は隔離された。日本人戦犯の数は、正確に言うと969名であり、この管理所で、この時から6年間を過ごすことになった。

 この6年間で、その後の人生の行き方に、計り知れない影響を受ける体験をするようになろうとは、最初は誰も予期していなかった。


奇跡が起きた

 我々は日本に帰国して以来、その中国における体験を通じて、過去の日中戦争時代の戦争行為に対する罪の意識を、日本人全体のものにしたいと、及ばずながら努力してきたものである。しかしその後の日本人の状態を見るにつけ、それがいかに難しいものかということを痛感することが多い。

 少なくとも日本は加害者であったはずである。戦争に行き、戦争に協力した年寄りたちが、まだ大勢生きているのに、皆口を閉ざして語らない。何と日本人は他国民に与えた傷に対して、感じ方の鈍い国民なのであろうか。その国際性のない独りよがり、島国根性、鈍感、無神経、不感症、と言う面を痛感させられることが如何に多いことであろうか。

 しかし一歩退いて考えてみると、我々自体もそうであったと気がつく。大きなことは言えない。ソ連から中国に移管されてきたときの我々も、今の日本人と似た様な鈍感、無神経そのものであった。

 その僅か5年前には、日中戦争の中で、生々しい殺人、拷問、略奪を行っておりながら、そして「戦犯」という送り状をつけられて、ソ連から中国に移管されておりながら、我々が毎日平然として話していた内容は、

「俺は大したことはしていない」
「ブタ二匹を捕って殺しただけだ」
「戦争中には命令によって人を殺しただけ」
「こんな罪のない兵隊を送りつけたソ連が間違い」

 などとうそぶいていたのである。

 中国側の姿勢は、初めから一貫していた。学習のための用紙、筆記用具、本と資料の提供。我々がその渦中にあった日本軍国主義思想の批判、歴史を振り返り反省を行うための、学習、思想改造の勧め。

 これに対して反射的に我々のとった態度は、恐れる、構える、逃げる、ごまかす、怒った振りをする、トボける・・・・というあの手この手でウヤムヤにしようというものであった。

 管理所は我々に体刑を加え拷問したわけではなかった。又、どこかの宗教のように、荒修行をさせ、薬剤を打ってマインド・コントロールを加えた訳でもなかった。ではどうしたのか? 何が起こって、我々はあの戦争に対する痛烈な認識を得るに至ったのか? 今の平成の日本ではとうてい不可能なことが、あの中国の管理所では実現したのである。我々はこれを「認罪」と呼んでいる。

 強いて説明すれば、認罪とは「被害者たる中国人の心情と、加害者である日本人の心情が、激しく交差し、ふれあい、理解し合った瞬間」であった。それも最も衝撃的に―――いわば「奇跡」が起きたのである。

 その「奇跡」について、これから述べることになる。


認識の深まり

 管理所の生活が始まった。とにかく我々にとっては、ソ連に比べると、生活の激変を意味していた。それは衣食住その他、すべてにわたって言えることであった。

 建物・・・レンガ造りで冬はスチーム暖房。先ず、あのシベリアの寒さからは解放された。

 食事・・・ソ連では、生かさず殺さず程度の食事だったのに比べ、中国は食べ放題であった。最初はそれが信じられず、飯が桶に余ったら、桶を返す時に、飯だけコッソリ隠したりしたものである。

 労働・・・何もなし。この肉体労働からの全面的解放は、最初は戸惑うほどであった。

 そして激変の最大のもの、それは有り余る「時間」であった。我々の軍隊入営以来の生活を振り返ってみれば分かる。常に生命の危険にさらされた戦争中の前線の生活。零下30度の寒さの中で、重労働と慢性的な空腹感に脅かされ、追い回されたシベリアの5年間の生活。

 それがここではどうだ。労働はない。腹の減る心配はない。規則正しい日課。バランスのとれた睡眠。午前と午後はそれぞれの布団を重ねて作った机を前に、新聞書籍を読み、筆記用具を使って「学習」をする。今までの人生で、こんなに時間をタップリと貰って、考えたことはなかった。

 「思想改造」は先ず生活の余裕と、有り余る時間を貰うことから始まった。時間の余裕があるとどうなるか? 人間とは「考える動物」なのである。この次に来るものは、自分の過ごしてきた過去を振り返ること、世界の変化を知ること。

 この頃観せられた映画に「白毛女」というのがあった。地主の圧制のもと、年貢を納められず、代わりに少女を差し出せといわれた貧乏な百姓が自殺する。その少女は屋敷で夜地主に襲われ、飛び出して山に逃げ込む。栄養不良で白髪になってしまった少女は、夜な夜な村に現れ、皆に「白毛女」と噂されるようになるが、ついにある夜地主の家に現れて、地主を脅かして仇を討つ・・・というストーリーである。

 この演劇が新しい中国で上演されると、中国各地を、爆発的な興奮に巻き込んだ。特に農村では、興奮した観客が舞台に駆け上がって、地主に扮した役者を殴りつけることが、度々あったという。

 新中国になってからの新聞やニュース映画を、管理所ではよく見せてくれた。新政府が初めに取りかかった土地革命の場面で、老婆がイキリたって大声で地主たちを罵り、吊るし上げている。今までは押さえつけられて、長い間腹の底にあった怒りが、国の独立とともに爆発したのである。これは昔の中国ではなかったことだ。

 見ていると恐ろしくなり、つくづく中国も変ったと思う。被害者の理屈が少しずつわかってきた。この怒る老婆の心の中が、次に述べる程度には、読み取れるようになったのである。

―――(ほう、婆さんはカンカンになって怒っとるぜ。地主に対してこんなに怒るぐらいだから、昔日本軍がやった「部落掃討」など、今思い出したら、ウラミのタネだぜ。俺たち戦犯の「言い訳」なぞ、絶対に受けつけないという顔をしているぜ)

 この老婆の目に焼きついている、「戦争中の日本軍隊」の姿、それがおぼろげながら想像できるのである。

―――(そうだ、この老婆はその目で見たに違いない。薄汚れた軍服を着て、ガキのような顔をした日本兵に、目の前で自分らの家が焼かれているのを。

 その前で焼け死んだ赤ん坊や老人がいたのを。

 自分の息子や仲間の息子が、半殺しになるまで打ちのめされるのを。

 自分の娘や仲間の娘が襲われ強姦されるのを)

―――(なぜそんなことをするんだと詰め寄ったら、「貴様らは中国兵をかくまっている。どうせ貴様も仲間だろう」といって、狂ったように殴りつけたあげく、家を焼いていった)

(日本軍なんぞ、全部打ち殺せ)

 これこそ被害者の理屈なのである。

 戦争のやり方も、時が経つにつれ、ますます凶暴化していったという事も、次第にわかってくる。これは自分の体験を、年代を追って行けばわかることである。

(1)日中戦争が始まったころ(昭和12年)は、日本が戦争をしていたのは中国のごく一部で、兵站基地は充実し、出征した兵隊には十分な食料も補給されていた。しかし中国全土の抗日運動が盛り上がるにつれ、日本は戦争にのめりこみ、中国全土に戦線を拡大した。

(2)次いで昭和16年太平洋戦争に入り、戦場は東南アジアと太平洋全域に広がり、軍隊も陸、海、空三軍を動員した全面戦争となった時、中国における日本軍の様相も変わってきた。戦力は一部を南方に取られ、内地からの補給は途絶えがちになる。それでも中国における作戦は続く。少ない戦力で点と線の細々とした進攻を続けた。また守備も広大な地域をカバーし長期戦の様相になった。

(3)戦争末期。全面戦争のための物資と食糧の確保の任務が、新たに中国戦線に課せられたその結果、前線では、なりふり構わぬ小麦、綿花などの物資の掠奪作戦が始まる。これに対して、中国側の全面的な反抗を受けることはわかっている。それを押しきって強行する「奪いつくし」・「殺しつくし」・「焼きつくす」という、あの中国人民から悪名高い名前をつけられた「三光作戦」が一層激化したのである。

 中国の文献を見ていたら、この頃の日本軍の蛮行を評して、「日本軍隊の通過した後の農村は、20年間の不作となった」という文章があった。我々の中には、自らの残虐行為と照らし合わせて、このことに思い当たる者も居たが、大部分のものは「私は戦闘中に命令により人を殺しただけだ」とか、「俺は作戦中に家を焼き、ブタを二頭殺しただけだ」という程度の罪状認識を持つ者も多かった。これは正に「加害者の論理」にすぎなかった。

 「被害者の論理」はこうなる。元々農業というものは、戦争がない時でも、かんばつ、冷害、水害というような天災に見舞われると不作になり飢饉になる。特に中国のような広大な農業国では、毎年どこかで飢饉が起きている状態である。そういうところに、戦争末期の糧秣の補給もなく、「すべて自力で現地調達せよ」という命令で投入された日本軍は、どういう破壊力を持っていたか? あとは殺りくと略奪のメカニズムがあるだけであった。あの頃の日本軍の「戦争の勇士」とは、実は略奪と破壊の達人のことを意味した。食えるものはすべて、糧秣、ニワトリ、ブタはおろか、農耕用の馬や牛も略奪の対象となった。炊事用の薪が無ければ、家具を壊し、鋤や鍬の柄までも焼いてしまう。作戦部隊とは、村一つをムシリ取り、しゃぶり尽くすハイエナ集団であった。

 「私はブタ二匹を略奪しただけです」という初年兵も、実態はこのハイエナ集団を支え協力した一味徒党であり、彼らも一〜二年経ったら、一人前のハイエナになる運命を持っていた。そしてこのようなハイエナ軍団を作り上げて奥地に放り込んだのは、日本の軍部であった。その手先となって残酷な行動をしてきた自分たちのアワレな姿が、今、レントゲン写真のように赤裸々に見えてきた。

 村に残された老人は、どうして生きて行けばよかったのか。「アイヤー、シーサン、メイファーズ」と弱々しく言うその姿を見て、あの当時の日本兵は「何と情けない民族ではないか」と笑っていたが、今は到底そんな考えはもてない。老人のあの言葉は、この世で頼りになるものを全部――働き手は取られ、農具も家畜も家も・・・すべてを奪われてしまった老人の、最後の絶叫だったのである。

 ここまで認識すれば、もう立派な認罪書が書けるはずであった。しかし、そこにはもう一つ大きなハードルがあった。自分がその手で犯した行為について白状(中国では「坦白=タンパイ」といった)すること、それは最も言いにくいことであった。我々大正生まれの者が、昔、小学校の国語読本で習った「言いにくい言葉」という題の文章があった。(あの日本の国定教科書も、タマにはいいことも言っていたのである)

 「ナマムギナマゴメナマタマゴ」という早口言葉を覚えて、得意になっている子どもに対し、父は「お父さんはもっと言いにくい言葉を知っている。それは『はい』という言葉である」というが、子供はその意味が分からない。後日子供はある間違いを犯し、それを父から問い詰められても、認めるのがイヤで「はい」と言えず、前に父から教えられたことの意味を、この時、はじめて了解する・・・というストーリーであった。「認罪」も結局この問題に帰する。

「君たちは人として、人を殺したのだね」
「そのことをいいと思うのか、悪いと思うのか」

答は、
「はい、殺しました」
「はい、悪いと思います」ということしかありえない。しかし、この「はい」が何と言いにくい言葉であることか。素直に「はい」と言えないところに加害者側の多くの理屈はある。しかし、「その理屈が、中国に武器を持ってやってきて、1000万人も殺して当然だと言える理屈なのか」と言われれば、どんな「理屈」も色あせてくる。これまでは皆は、何とかうまい文書で認罪書を仕上げ、その末尾に「慙愧に耐えません」とか「いかなる処罰でもうける所存です」と言う立派な言葉で締めくくり、模範解答を作ろうと努力した。これはいわば「早口言葉」の練習のようなもので、心は少しもこもっていなかったのである。

 我々の中には、日本の最高学府を出たものも多く居た。一方、指導する中国側は、殆どの人が、小学校にさえロクに行けなかった人たちであった。この人たちの理論は、解放軍の実践の中で、培って習得した理論であった。我々に教えたことは、知識でも知能指数でもなく、それ以前の「人間はいかにあるべきか」という最も基本的な、人道的な問いかけであったのである。

 たしかに皆の、戦争ということについての考え方は変わってきた。しかしこの頃までに学習してきた事、それはあくまで「軍国主義に関する一般的な認識を深めた」ということであった。

 ほとんどの者は心の片隅で考えていた。

「これだけ認識を深めたのだから、もういいだろう。認罪書も書き上げて提出したし、これで何時帰してくれるのだろうか」。

 この頃日課が変わり、午後の運動の時間とは別に、夕食後再び外に出て、中庭を散策する時間があった。皆は三々五々談笑しながら、狭い中庭を何回も回る。庭の片隅には我々が作った花壇があり、各種の草花・・・百日草、ほうせんか、松葉牡丹、コスモスなどが咲いている。どれも皆、昔日本で慣れ親しんだ花ばかりである。花を見ていると、どうしても10年前に離れた日本のことを思い出してしまう。

 しかしこれで学習が終了したわけではなかった。本当の思想改造に到達するには、もっと大きな「激震」が必要であった。あの、精神の上に襲いかかる台風のような体験が。


認罪の最盛期

 これから認罪運動の最も高揚した期間について述べる。それは1954年の6月から約3ヶ月間の出来事であった。我々は日本に帰ってからの長い人生の間に、折にふれ、何回もこの中国の体験を思い出した。それは、ハッキリと言葉で表現することもむつかしいほどの、不思議な体験。「あれは一体なんだったのだろうか?」という疑問符がついたままで、何時も新鮮な感動を伴って反芻する、強烈で貴重な思い出なのである。

(注)一方でこの時期は、中国側の戦犯に対する調査が、本格的になった時期でもあった。管理所職員の応援として、中央から工作員700名が到着した。司法職員、公安職員(警察関係)、通訳などによって編成されており、この人たちは管理所及び近所の宿舎に泊り、認罪発表の場に立ち会ったのである。

 我々を、あの思想と感情を嵐の中に巻き込んだ、認罪運動の大きな「うねり」は、所長以下管理所職員と、我々全員の前で、ある一人の大尉が大決心をして、自分の認罪発表をしたことが、皮切りとなって始まった。

 それまでの我々の状況は、各人が一応戦争時代の罪状を「認罪書」にまとめて清書して、管理所に差し出した状態であり、誰かが皆の前で、自分の認罪書を発表するというのは、初めてのことであり、会場は緊張した。大尉は、自分の罪状の最も残酷な部分を、余すところなくさらけ出した。その大胆な態度にも驚いたが、皆が最も衝撃を受けたのは、彼の最後の言葉であった。

 「私は人間の皮をかぶった鬼でした、今ここに中国人民に、心からお詫び致します」と言い、それに加えて、「この上はいかなる処罰をも受ける覚悟です」と言ったのである。これに対し所長は、後の講評で、「今日行われた認罪態度は、比較的に良く出来たものである」と言った。最高であるとは言わなかったが、それまで、日本人の認罪書に対して管理所側から「評価された」のは、初めてのことだった。

 この後、師団ごとに一部屋に集まって集団学習が始まり、その中で傑出したものがあれば、それはスピーカーから各部屋に放送され、次第に深刻な熱を帯びた発表が続く中で、ついに最も典型的な、衝撃的な発表が行われた。それは一人の曹長の発表であった。彼は特別な理由から、認罪に取り組まざるを得なかったのである。

 半年ほど前。彼が管理所の庭を散歩している時に、突然一人の職員が大声を上げ掴みかかってきた。とりあえず他の職員が取り押さえ、訳を聞いたところ、「こいつは戦時中に俺の姉を強姦して殺した日本兵だ」と言っているのだ。その職員は当時子供で現場を見ていて、日本兵の顔だけは覚えていたのだ。我々1000人の中で、こんな例は他になかった。それだけに曹長は非常にショックを受け、しばらくは呆然として考えもまとまらなかった。この後から、曹長に対する指導員の熱心な説得がつづく。

 「あなたを処刑するために、『認罪せよ』と言っているのではありません。あなたの思想を改造する機会は、これしかないから、あなたのために、言っているのです」曹長にとって最も苦しい約半年ほどの、迷いの時代が続いた後、彼はついに皆の前に、彼のすべての罪行を発表する決意を固めた。この発表の場面は、彼自身にとっても、またこれを聞いた我々にとっても、何と言う凄まじい体験であったことか。40年たった今でも、この文章を書いていて、興奮してくる。

「私は中国人の娘を、その母親の前で強姦しました」

「私は初年兵に見せつけるために、柱に縛りつけた中国人の腹に刀を刺し、そのまま下に切り裂いて殺しました」

「私は中国人の女性を私の部屋に監禁し、数日間なぶり物にした揚げ句に、これを殺し、その上、当時食糧不足であったので、中隊の者に食肉であると嘘をついて、これを切り刻んで食べさせました」

 日本人に対してさえ恥ずかしくて言えないこんなことを、どうして中国人の前で発表できるか。どんな顔で、どんな声で言えというのか。中国人の怒りと怒声の前ではどんな顔もヒン曲がる。どんな声も押しつぶされてしまう。

 しかし彼はやったのである。それだけではない。「小麦掠奪作戦」で小隊を率いてある村を襲った時、老婆を含む村民30名を小さな池の中に追いつめ、全員を機関銃で惨殺し、池を血の海にしたいきさつについても彼は大声で生々しく暴露した。それは、真っ赤に燃えさかる熔鉱炉の中に、自らを投げ込んで行く、捨て身の姿であった。最後に彼はこう叫んだ。

 「ああ、私は大罪を犯しました。どうか私を八つ裂きにしてください」

 彼の身体は、あたかも、この煉獄のなかで溶けて分解し、その残骸の中から黄金無垢の様なもう一人の人間が、スックと立ち上がり絶叫したかのように見えた。我々はただ息をつめて、この凄烈な姿を見守った。これは他人事ではない。皆も似たような罪を犯しているのである。聞いていた1000人の者も、一様にこの煉獄に投げこまれ、一枚の板のように溶接されていた。

 曹長の認罪発表は、ひとつの突破口となった。これに刺激され、純粋に共鳴して、一斉に叫び出すような、認罪発表が後を追い、皆の異様な興奮は頂上に上りつめ、ついに管理所全体が鳴動した。この異様な興奮状態は二〜三ヶ月も続いたであろうか。

 激しい認罪発表には、もう一つの面があった。この間に我々はまた、内面的に不思議な体験をした。

 認罪者が自らの残虐性を、心からさらけ出して絶叫するたびに、その残虐行為の餌食となった中国人の悲鳴と怒号が、最高潮に達し我々の前で炸裂した。すでに今までの学習で認識を深め、被害者の苦しみに対する我々の「感度」は敏感になっており、そのうめき声が、耳元に聞こえてくるようになっていたのだが、その声は今や、地鳴りのように膨らんできて大きくなり、ついに厚い幕を引き裂いて、悲鳴と阿鼻叫喚を、耳をつんざくように轟ろかせた。あまりの凄まじさに、我々は打ちのめされ震えた。それは津波のようにやって来て、我々を何回もさらった。しばらくして津波が引いた後も、我々の魂は被害者の深い悲しみの海の中に漂っていた。悲しみの深さは、一度これを知ったら、もう永遠に忘れることの出来ない、底知れぬ深淵の様な深さを持っていた。

 この時から、殺した方の人間と殺された人間の心が、深く結びついたのである。我々は、被害者の血まみれの恨みの手で、魂を掴まれてしまった。被害者が味わった、地獄の底を見てしまったのである。しかし不思議なことに、そこに恐怖心も嫌悪感も浮んでこない。深い共感があるだけだ。我々は被害者に向かって、頭を垂れてこう言っていたのである。

「そうとも、アンタ方はもっと怒っていいんだよ。怒る権利があるとも」

 1200万人の人間を殺戮するということは、こういうことだったのである。建国2年目の中国、戦争中に殺された人々の阿鼻叫喚は、まだ全国各地に生々しく余韻を残している。その悲しみと恨みの大海は、この管理所のすぐそばまで、追ってきて渦巻いていたのだ。これに対し加害者である我々は、冷酷で不感症の姿勢のままで「俺たちは大した罪は犯していない」「何時帰れるのか」などとウソぶいていたのである。

 この認罪運動の、台風一過した後の我々の姿、そこには、官位も肩書もハギとられた素の人間、もう日本人でも中国人でもない、「人間そのもの」が残されていた。その位置から、初めて振り返って見る昔の自分の姿は、残酷で哀れなものであった。

 一片の召集令状で軍国主義に乗せられ中国への侵略。時代の狭間に翻弄され、流されたあげくに、たどり着いたこの戦犯管理所。最後に残された自分の唯一の過去の遺産が、中国の農村に襲いかかって犯した「非人道行為」であったとは、これは情けないというより、歯ぎしりしたいほど悔しいことであった。ここにいる1000人は昔、軍隊の強行軍にも、マラリヤにも負けず、シペリアの極寒にも、重労働にも耐えてきたしたたかな「生き残り組」であったはずである。だが、この認罪の衝撃には参っていた。これは人間の根本の問題であった。一度あの被害者の深い「悲しみ」がわかったら、その後再びこれを振り捨てて行くことは出来ない。まともに処理しなければ、もう人間の資格から脱落してしまう様な問題、「最後の砦」のようなものが此処にはある。

 この時から又、半年〜一年を経過した後では、我々の感動のあり方は、もう少し鎮静した形になっていた。我々は、自分がまったく違う人間になったような、不思議な感覚で回りを見回していた。精神と身体中の組織が、すっかり生まれ変わったような気がした。これは驚くべき展開であった。「認罪」ということが、こんな新しい世界への入口であるとは、誰一人予期しなかったことであった。


『日本侵華戦争罪犯名冊』(日本人戦犯名薄)

 中国側が調査して作成した、我々戦犯の名簿がある。作られたのは我々が移管されて4年経過した時である。各人の氏名、生年月日、囚人番号と共に、日本降伏時の所属と階級とが記載されている。例えぱ偽満州国国務院総務部長とか、39師団231連隊第1大隊第2中隊小隊長、少尉、等である。この肩書こそ我々が戦犯となった証拠であり、履歴書なのである。日本を出る前には、ごく普通の農民であり、労働者であり、サラリーマンであり、学生であったものが、この肩書きのもとに中国にわたり、あるものは満州国で、侵略者として中国人の上に君臨し、あるものは武器を手に奥地まで侵入し、殺りくと略奪を行ったのである。

 この名簿の冒頭にある中国政府側の注記には、こう記されている。「この名簿は、中国を侵略した日本軍国主義の、組織と犯罪を証明する資料である。またここにあげる戦犯の集団は、日本の中国侵略集団の数千分の一に過ぎない」。

 名簿のなかにおける具体的な仕分けはこうなっている。

 1偽満州国司法行政関係犯罪人 29名
 2偽満州国軍関係 25名
 3偽満州国警察関係 119名
 4偽満州国鉄路警護軍 48名
 5関東州庁関係その他 33名
 6関東軍憲兵関係 103名 計357名…@
 7関東軍隷下部隊(陸軍関係者全部が含まれる)
  (1)三九師団(略称藤部隊) 198名
  (2)五九師団(略称衣部隊) 257名
  (3)その他 127名 計582名…A

 @とAを合計した939名(当初は969名)が、ソ連から移管された人員である。

 8山西省太原戦犯管理所拘留者 130名…B

(注)Bグループは、ソ連から移管された戦犯約千名のようなシペリア抑留とは違い、戦後そのまま中国に踏みとどまり、北支の太原付近にいた国民党軍閻錫山に合流、その後の国内戦の期間中は、共産党と戦争をした人たちであり、この第二次大戦終了後の五年間の罪行をも追及され、太原の戦犯管理所に収容されていたものである。撫順戦犯管理所の我々と合流したのは前述の認罪活動が一応終了した後の、1956年のことであった。

 これらの日本人戦犯に対する裁判は、1956(昭和31)年6月から8月の間に、瀋陽・太原・撫順市に設けられた最高人民法院の法廷において行われた。実刑を受けたものは、次の表にあるように生体のわずか4%に当たる45名であり、その比重は満州国関係者と前述の太原関係者に重く、一般の陸軍関係者に比較的に軽かった。武器を持って直接に、目を覆うような殺人略奪破壊を行ったのは前線の陸軍であったが、陸軍関係で刑を受けたのはそのわずか1%であった。その訳は後で述べる。

 

勾留者

受刑者

比率

満州国関係者

254名

28名

11%

太原関係者

130名

9名

7%

陸軍関係者

683名

8名

1%

1067名

45名

4%

(ほかに死亡者が40名いた)

 判決に死刑ないし無期刑はなく、刑期は20年から13年の間であった。それも、この刑期から「ソ連と中国における抑留期間は差し引く」とされたので、実質的な刑期は9年から2年の間、という軽いものであった(その後に減刑があり刑期前に釈放されたものも多く出た)。同時にその他の者1017名に対しては起訴免除、即日釈放が言い渡された。

 上述の人数は、この戦犯名簿が作成された1954年の人数をベースにしている。その後帰国までに7名が死亡しているので、1956年に起訴免除、即日免除・即日釈放になった者は1017名であった。

 第二次大戦後の連合軍による裁判は「仇を取る」「目には目を」という趣旨のものが多く、その裁判による刑は、全部で死刑971名、無期懲役479名が出ているのに比べると、この中国の日本人戦犯に対する裁判の刑は、非常に軽いものであり、その原因は基本的な考え方に大きな差があったことによっている。裁判の直前の6月に、中国の全国人民代表大会常務委員会において、日本人戦犯を寛大に処理することに関する決定事項が決められている。その要点は裁判の場で我々に伝えられたが、その中でも特徴的な部分は、

「…彼らの行った犯罪行為からすれば元々厳罰に処して然るべきところであるが、しかし、日本の降伏後10年来の情勢の変化と現在置かれている状態を考慮し、ここ数年来の中日両国人民の友好関係の発展を考慮し、また、これら戦争犯罪者の大多数が、勾留期間中に程度の差こそあれ改俊の情を示している事実を考慮し、これら戦争犯罪者に対して、それぞれ寛大政策に基づいて処理することを決定する」

という箇所であった。これを聞いた我々は、中には当然死刑を覚悟していた者もあり、そうでない者も認罪運動の過程で、戦争犯罪の重大性を身に泌みて感じていたので、皆等しく涙を流して、これを受け止めたのであった。

 さて、このような人員構成を持つ戦犯をソ連から受け取った時、管理所の職員が中央から受け取った指示は、その過去の罪行を追及してこれを罰することではなく、「その思想を憎んで人を憎まず」という精神で思想改造をさせることであった。今だから想像するのだが、管理所では、先ず最初に、1000人の日本人戦犯の階級分析をしたであろうということである。

 思想改造というのは、精神の革命である。革命を行うには先ず、どの階級が核となり革命の原動力となるかを決めねばならない。革命家はそれぞれの社会を構成する階級を分類し、敵と味方を分類し、味方の中核に何を持ってくるかということを決める。ロシア革命ではプロレタリアート、中国の革命では農民を中心に置いた。

 1000人の戦犯も、皆が同じ出身、同じ立場観点を持っているわけではない。これも一つの社会であった。全体の構成から見て当然中心になってきたのは、陸軍関係の五八二名であったのであろう。陸軍関係は分類してみるとこうなっている。

佐官・将官

21名 

4%

尉官 

68名

12%

下士官 

223名

39%

兵士 

259名

45%

571名

100%

 自ら志願して軍隊に入ったのは佐官将官クラスの4%であり、残りの96%は自分の意志ではなく、一片の召集令状によって駆り出されてきたのである。この点では満州国関係者も陸軍とは違う。国家の政策に乗せられ騙されて満州に来たとは言え、そこには「自分の意志で選んだ職業」という面があった。そして、満州国では中国人の上に君臨し、毎日仕事が終われば内地と同じような「家庭」があり、窮迫した内地よりもむしろ物質的には恵まれていた。

 これに比べると、陸軍の人間は消耗品であった。藤部隊でも衣部隊でも、当初師団が編成された頃には、一万人以上いたのに、数年後にはそれぞれ2000名前後が戦死しているのである。戦死するには一発の小銃弾で足りた(勿論この日本人の戦死者の陰には、その10倍、20倍の中国人が死んでいることを忘れるわけにはいかない)。

 当時、「軍馬を大切にせよ」ということを兵隊に教育する時に、「兵隊は死んでも赤紙一枚で補充できるが、馬はそう簡単にいかない」と言ったほどで、戦死者が出れば、また一片の召集令状で集めれば良かったのである(その頃内地の連隊のことを『補充隊』と言ったことを銘記すべし)。

 「父よあなたは強かった」とオダてられて、抗日軍のうず巻く中国の奥地まで追い込まれ、食べ物もろくに補給されないで、「泥水すすり草を食み」「荒れた山河を幾千里」追い回され、最も残忍な殺人略奪破壊をやらされたのは誰だったのか?それは陸軍であった。

 認罪学習をしている時に、陸軍出身者が過去の罪行を発表すると、「満州国」関係者は「そうかい、そんな残酷なことをしたのかい」とトボけた意見を出すことがしぱしばあった(その裏では、「俺たち満州国で勤務していた者は、そんな残酷なことは犯していない」という意味が隠されている)。それを聞いて陸軍は怒る。

 「そうじゃないだろう。『満州国』という既得権益を守るために、日本は戦争を中国全土に拡大し、そこで俺たち陸軍が駆り出されたんだ。一つ穴のムジナ、そっちが震源地なんだよ」こんな言い合いを何回もした。

 ある旅団長(少将)は、自分の元の部下が戦争中に犯した罪行を聞いて、「君たちはこんなに非人道的なことをしていたのか、当時発見もできず、処分もできなかったのは残念だ」とシラを切った。言われた昔の部下たちは憤激して、一斉にこれをつるし上げ攻撃して、これらの罪行の根源に居て命令していた旅団長の罪を認めさせた。

 陸軍関係者の認罪発表の時に、その経歴と出身を述べるのを聞くと、圧倒的に多いのが農家の子弟であった。それも長男ではない、当時の子沢山のなかでも下の三男か四男で、日本にいても余り将来に期待できず、軍隊の中に働きの場を見出そうとしたのが多い。またその他の労働者やインテリも、決して上流や中流階級ではなく、やがては安サラリーマンになろうかという、どちらかといえば社会の底辺にいたものが多かった。社会の底辺でハミ出したものが、政府の手でかき集められ、他国へ侵略して、その国の、社会の底辺であえいでいる人々を、捕まえて殺したのである。

 同じ底辺の人間であったからこそ、その被害者たちの悲鳴と絶叫を、自分の身内の苦しみと同じように、受け止める感受性を持っていた。認罪運動の中で、純粋な反応を示したのは、実は下士官や兵隊が最も多かったというのも事実であった。

 このような陸軍関係者が認罪運動の中核になっていったということは、自然なことであったのである。

(注)最近発表された「溥傑自伝」(河出書房新社発行)の中で、撫順管理所に関する叙述がある。この本は1993年に彼が亡くなる前に執筆されたもので、彼もまた、兄の旧満州国皇帝溥儀と共に、我々と同じように管理所に収容されていた。戦前の日本政府に利用され、傀儡の満州国を盛り上げるために、日本政府に酷使されたその過去を、批判し脱却するために、管理所で自己改造をして行く過程が語られ、その姿は率直で人に訴えるものがある。又、この本の中で、一つの印象として、あの頃の我々の姿が、客観的な立場で描かれている。特に褒め称えられているわけではないが、我々にも、あの中で一定の役割があったことは、わかって頂けると思う。


管理所生活の前と後の時代

 中国政府が、管理所職員を通じて我々に教えたこの「認罪」「思想改造」とい、方法は、あの、ソ連から、日本人戦犯1000人を引き渡された時の、中国政府の、その場限りの、思いつきの方法ではなかった。

 少し歴史をさかのぼって日中戦争の頃、日本軍から当時の共産軍(紅軍とか新四軍、八路軍といっていた)に逃亡した(又は何かのはずみで紛れ込んだ)日本の兵隊に対し、その政治部員はどういう指導をしていたか、ということを振り返ってみればわかることである。

 彼らは日本兵にこう教えたのであった。

 「戦争をしている君たちが悪いのではない。君たちに侵略戦争を教えこんだ『日本軍国主義』が悪い。そのことに気がついて反省するなら、我が軍の中で働いてくれてもよい。またもう一度日本軍に帰りたいなら帰ってもよい」
(帰るわけにはいかなかったであろう。日本兵を待っているのは「軍法会議」か「処刑」であったろうから。)

 この辺の経緯については、現実にそういう境遇を経て終戦後日本に帰ってきた、旧日本兵の数名の人々が、本を発行しているから読んで頂きたい。そのうちのひとつにサイマル出版会発行の『八路軍の日本兵たち』がある。筆者は1938(昭和13)年7月に八路軍の捕虜になった人である。本文によると、この時この八路軍部隊の政治部員が、上級幹部から受けていた指示は、「日本人捕虜に、危害を加えたり侮辱してはならぬ。帰りたいものは帰し、働きたいものには仕事を与え、勉学したいものにはその機会を与え……」というものであり、これが戦争中からの基本姿勢であったことがわかる。

 我々が管理所に入る時から十数年も前に、共産軍の中では、すでにこういう工作方法(思想対策)が確立されていたのである。何と我々が管理所で受けた指導とよく似ていることであろうか。「思想改造」の方法は紅軍以来の伝統であったのである。

 一方これに対し、戦争中に日本軍にとらえられた八路軍兵士はどういう扱いを受けたか。

 その情報を探り出すために、拷問につぐ拷問を加えられ、最後まで「口を割らない」ために、殺されるというのが通例であったのと比べてみると、同じ時代に戦火を交えていた、この二つの軍隊の違いがハッキリとわかる。我々がソ連から中国に移管されたあの時期(1950〜56年)は、中国は長い間の他国の侵略と支配から脱して、初めて国家建設に取りかかった時期であった。そこには、みずみずしい意欲が溢れていた。

 政府は、建国の翌年に飛び込んできた日本人戦犯の問題に、正面から対処し、「日本軍国主義を憎みながらも、その思想に捕らえられたこの1000名に働きかけ、人間性を復活させる」という、昔からの方法で我々に接してきた。そのひたむきな気持ちに我々も応じて、前述のような空前の認罪運動にまで、高まっていったのであった。

 ここまでが、−戦前の歴史からつながって、我々の管理所生活があって、最後にその大部分が釈放されて、日本に帰国するまでの−歴史である。

 しかし歴史の流れはまた、容赦しない苛酷な面を見せる。我々が日本に去った1957年頃を境として、その後の歴史では、中国はいわゆる「反右派闘争」「大躍進」「文化大革命」という新局面に入り、これにより社会は混乱し、経済は後退して破綻したといわれている。この現実の姿が我々にわかったのは、ずっと後になってからのことで、当初日本でも「文革」は、新聞や雑誌で華やかに伝えられていたから、なかなか実態を想像することはできなかった。我々が帰国した後の「文革」の時代には、我々を管理指導してくれた所長や指導員も、「右偏向した」として批判され、職場から追放された時期があったと聞いていたのである。我々はここで、一つの歴史の試練を受けることになった。

 我々の力では、文革の全体像について把握したり、その是非を論じたりすることはできないが、ただ一つ、我々がくぐり抜けてきた、あの思想改造と認罪の問題では、考えざるを得なかった。

 あの紅軍以来の伝統である、人道的な「思想改造」という方法によって、我々は教えられ、救われたと思っている。その、我々を救ってくれた尊敬する管理所職員が、「文革」では追放された。そして、あろうことか、我々の指導の時に使われたと、同じ言葉を使って批判され、「思想改造をせよ」と言われているのである。これを聞いて我々は戸惑った。

 これはどう考えたらいいのか。これはかつて、あの偉大な指導者が自ら築いた崇高なものを、自らの手で破壊しているという事ではないのか。では、我々の体験したあの「認罪」はどうなるのか。

 文革の時代は、我々の日本における活動にも、大きな影響を与えることになった。日本に帰国以来、信念に基づいて行動したことも、一筋縄では行かぬという、おかしな成り行きになってきた。

 勿論後年になって中国政府も「文革」の時代は「誤り」であったことを認め、追放された人々にも、名誉回復、職場復帰が図られたこと、そして管理所に関しては、それ以来昔通りの指導の先生方と我々の関係が続いていることは周知の通りである。

 あの管理所の人々が教えてくれた「思想改造」「認罪」と言う体験を、唯一至高のものと思い、今後も守り通して行こうと思う故に、我々はこう言わざるを得ない。「文革」の影響下にあった約20年間は、我々にとって痛恨の時代だったと。

 今後、21世紀に向け、中国が如何に変貌して行こうとも、中国人民が存続して行くかぎり、日本の犯した罪は永久に消えない。1200万人を故なく殺した事実は残る。殺した方は忘れても、殺された方は、ハッキリと歴史に刻み込んでおり、これを無視して、中国との将来の交流を広げようと思っても、それはムリである。

 世の中には、万巻の書を読んで、瞑想に耽り、真理に到達した人も居るであろう。しかし我々1000人が経験したものは、もっとダイナミックな、生々しい認識であった。

 好戦国日本に生まれ、否応なく戦争に駆り出され、他国民を殺りくし、そして戦後その国に捕らえられた我々は、その後の過程では、自分らの手で犯した人々と対話し、交流し、学習し、やった方がやられた方の立場と心境をトコトン知らされ、自分と日本のやったことを認識したのである。

 これで一つの歴史の表と裏とがつながった。同じ時代に生きても、他の日本人よりもはるかに深い人生の味を知り、平和というものの、真の味を知ることができたこと、この点で、撫順の6年間の中国の指導に感謝せざるを得ないのである。


最後に

 何という重い体験だったことか。

 認罪運動の直後にも、我々は思った。

「すごい体験をしてしまった。これは一体どういう意味を持っているのか。後で良く考えてみなくては・・・」。

 だがこの1000人は既に、中国人の痛みを、ズッシリと心で受け止めてしまった。

 日本に帰って職につき、結婚し家庭を持って、新しい人間関係の中に入り込んでも、この質問は耳の片隅で鳴りつづけ、結局生涯をかけての問題となったのである。

 帰国したのは、1956(昭和31年)の後半であった。日本は戦後11年目を迎えており、中国は建国から6年目、まだ文化大革命が起きる前の時期であった。

 我々は、日本に帰国してすぐに連絡部を作り、翌1957年に「中国帰還者連絡会」を作った。これが単なる連絡をしあう会、昔を偲ぶ会ではなかったことは今日までの活動が語ってくれるであろう。

(さわだ じろう 中国帰還者連絡会会員)

 

表紙 > バックナンバー > 創刊号 > 敗戦から帰国まで

 

●このサイトに収録されている文章・画像・音声などの著作権はすべて季刊『中帰連』発行所に属します。
 無断転載を禁じます。
●ご意見・ご感想は
tyuukiren(アットマーク)yahoo.co.jpまでお寄せください。
●迷惑メールを防ぐため、上記「(アットマーク)」部分を「@」に変えて送信してください。