追悼文:私が教えていただいたこと

 日立の国産大型コンピュータHITAC-5020の開発成長過程で、中央研究所の研究者集団が工場内職制のプログラム開発部門を強化し、共同作業さらにはプログラム開発部門に移管する時期がありました。
 この時期日立中研からTE先生、NI先生、TA氏、HY先生他大勢が、横浜市戸塚にある現在の日立ソフトウェア開発本部に長期出張されていました(1965年〜1968年頃)。当時TE先生は,5020のソフトウェア全体の技術的な取りまとめをされるとともに、オペレーティングシステムの開発係の主任でした。 この係にFORTRANプログラムの少々以外は何も知らない新入社員の私が配属されました。 職場には研究的雰囲気があり、OSの開発で残業につぐ残業の中でもIFIPの論文の勉強会が行われていました。 当時のオペレーティングシステムは科学計算中心であり、その使われ方を研究するには納入先に常駐しそこで体験をするのが一番良いと考えられ、TE先生と私は東京大学大型計算機センターに1年間常駐させていただきました。TE先生はこのことを「いわば、SEのはしりの仕事」と紹介されています。ここでWE先生他からアイデアを提案いただき「国産計算機ならでは」ということで計算センター運用関連でのモニター機能の増強が行われるともに、当時のカードベース プログラムからの脱却の必然性からTSS研究へと道を進められました。

 このような関係の中で私は、数々のことを教えていただきました。
● 常に本質、道理を見極めること。
● 現場第一主義、克明にメモすることでの情報収集と整理。
● 努力を継続することの大切さ

   といっても仕事以外のほっとする会話もありました。「CDが**枚にもなったよ。」その後、かなりたってから
「車はやめた。環境問題もあるし」とおっしゃったことがありますが、一時的に手離された時期があったのでしょうか。

 中研へもどられから、私は新婚間もない家内とご挨拶に伺い奥様とも親しくお話をさせていただきました。

「お仕事にとても意欲的で、かつ、夢を持たれていらっしゃるご様子でしたし幅広い教養と温かい人柄を感じました。美しくおやさしい奥様とともに、すばらしいご夫妻でいらっしゃいましたこと、懐かしい一幅の絵のように思いだされます。ご冥福をお祈りします。」家内の思い出です。

 後にソフトウェア開発本部へ出張で来られたとき、無理やり狭い社宅に泊まっていただいたことがあります。今思い出すと、非快適空間へよくぞご案内したものだと恥ずかしい思いがします。とにかく泊まっていただきたいと思ったからだと思います。

それにしても、わずかな期間ご一緒した中研チームですが、TEラインを中心にその後も人材を輩出させ、情報処理の研究分野で大勢が活躍されているのを知るのはうれしい限りです。              
            (追悼集:「TE先生を偲ぶ」への掲載文  2003.5) 

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