異質なもの大いに歓迎 (1987年5月発表)
数年前のある夕方、会社の帰りに派手なサリーと、彫の深い顔立ちの男と幼児3人のインド人家族が目にとまった。私の関心が相手に伝わったかどうかはともかくも、その見知らぬ男性から大仏への道を尋ねられた。「今からでは無理」といったが「囲いを越えられないか」とか「外から見えないか」などとひどく熱心である。一家は翌日成田を発つという。心配されたとおり門は閉ざされていたが、門の傍らの公衆電話から「遠来の客なので」と電話を入れ、住職のご好意で入門する。静まりかえった境内で大仏に対面し、一家は母国文化がこの地に流れ及んだことに満足を覚えたようであった。住職ご一家も、家族総出で渡印の際のアルバムを客人に見せるなど、最大のもてなしをした。
インド人は時間に無頓着といわれるが、成田のホテルを予約しておきながら、成田行きの最終電車に間に合わず、突然の我が家の泊り客になった。夕食のサラダ(生もの)・牛肉は駄目で、サリーの奥さん自ら目玉焼きを作りパンに添えた。生ものを口にしないのも、右手の指で目玉焼きをほおばるのも、煮沸した水をコーラのびんのような水筒に入れ、腰にぶら下げていたものすべては、彼らの文化の一端である。
その夜、珍しい話が聞けた。インドでいかに物が不足しているかも知った。今なお、家庭の調理は石油コンロによってであり、電話の取り付けには申し込んで10年待たねばならないという。
話は飛躍するが、物であふれている日本が、相手を正しく理解した上で、物を供給するのは喜ばれることであり、問題はなかろう。相手を正しく理解することは、今も昔も変わらぬ課題であろうが、それにはまず、異質なものを歓迎する姿勢と心を持つことが必要ではないだろうか。
(勤務先の社内誌に寄せた随筆)
追1:その後にインドがソフトウェア産業で急成長し、勤務先でもインド企業との協業がなされるなど時代は変化した。この一家とはその後手紙交換し、後日また父と娘一人が突然に来日し、我が家に一泊するが、娘さんを日本に留学させたいなどの要望に、いささか我が家には重過ぎる相談事となり当惑した。インドでは、恵まれない者が恵まれた者に甘えるは当然との社会基盤があるようで、どうも恵まれた者に見られたようである
この話、少し不自然に感じられるかも知れないが、男の勤務先がエアーインディアという航空会社であり、私は空席の有効活用による旅行者ではなかったかと推測している。成田のホテルに荷物を預け、富士山見学に富士サファリパークに行き、その帰りに大仏見学を計画したとのこと。一家でイギリス赴任中もしばしばインドに帰れたと話していた。
追2:住職ご一家には特別なお計らいをしていただき、その上、住職の奥様からは大仏へのお客様への案内人を務めたことに丁重なお礼状をいただいた。確かに、遠来の客は、大仏へのお客だったのだ。それに気付かせてくれたのは、住職の奥様のしっかりとしたお考えと、それを礼状にまでしていただけたことによる。私から先に御礼状を差し上げたのではとの記憶もあるが、今となってはハッキリしない。 (2003年8月 付記)