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Q資料と新約聖書・エッセイ
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  Q資料と新約聖書の成立過程の考察(妄想)

 「千年のうち」の文脈から大きく脱線してしまいますが・・・
 福音書とQ資料の関係は、実に興味深いものがあります。勝手に妄想を書いてみました。




 Q資料は、新約聖書と七十人訳がそうであるように、やはり、ギリシャ語で原語ではありません。

 しかも「歴史的ナザレのイエス」の直接の言葉の訳ではなく、二次的にまとめられた文字資料です。語られた状況から切断されて、編集されているものです。

 紀元30年の「イエス」の刑死と、そこにいたるまでの数年の「公生涯」がありました。

 そのただ中も、そのあとも、もともと文字好きのユダヤの人々は必ず文書の取り扱い・・つまり執筆と収集と編纂と保存と配布をはじめたはずです。

 「イエス」の新しい教えを信じるなかで、いろいろな集団があったでしょう。その中のギリシャ語を「母語」とする集団にも、伝道のための文書保存・編纂チームが中核として存在したはずです。Qはギリシャ語で書かれたのですから、もともと、傍流(ヘレニズム系)です。

 その文章管理集団の最初の仕事として、「イエス」の言行録のQが作られたのでしょう。

 この文書は、

 Q1・初期の素朴な神の国運動の描写

(山上の垂訓原型、主の祈りを含む 「イエス」の直接的言行が反映している可能性が高い部分。だから「イエス」の生前にまとまってもおかしくない。 黙示的世界観がまだない、ユダヤ的因習がない 社会を自ら変えていこうとする集団を描いている)

 Q2・批判に対抗する中期

(洗礼者ヨハネ関係、審判について含む イエス運動の批判に対抗するためなので、十字架の近くや直前・その後を反映した部分)、

 Q3・そして社会混乱期を反映する最終層

(荒野の誘惑含む イエス運動の存続がかかった時期・ユダヤ戦争までか、その直後 分量的にはわずか)

 ・・・の3層がほぼ確定しているそうです。

 私の感想では、Qはメモでしょう。それから、もっとも素朴なこの文書の存在理由は、「イエスの弟子として権威ある人物、またはその人物に関係する集団が記録・編纂した。」からだと思えます。

 使徒の言説に匹敵する信頼がよせられなければ、まとめられる意味はないです。

 これはすべての福音書・聖書文書に共通することで、イエス教団のだれもが知っている信頼できる人々の手によるものでなければなりません。だれのものかわからない文書や意見は、そもそも尊重も保存も、複製も配布もされないでしょう。

 そこにパウロ(回心34年?)が加わり、書簡集も追加して集積されていったような気がします。

 すべては推測でしかありませんが、パウロはQを作るチーム(ヨハネ・マルコが所属する?)を身近に知っていて、自らQを利用したからこそ、パウロはあえてQに言及しなかったのでは? というのはいかがでしょう。

 異邦人伝道においてパウロほどの人材はないでしょう。

 また殉教する以前も以後もパウロは主流派ではないから、あとから参加したパウロの言説が直接Qに反映してなくても不自然ではないでしょう。

 しかし、パウロの信仰と教養と実力は、多くのパウロ・チルドレンを育て、彼らは編纂チームにも参加して徐々にヘレニズム系の主流派に食い込んでいったのではないでしょうか。

 その代表として、フィレモンへの手紙に登場するオネシモがいるかもしれません。多くの人の指摘する推測として、オネシモは自分とフィレモンとパウロにしか関係のない純粋の小さな私信をあえて保存したのでしょう。
 それがやがて、聖書に収録されることになります。きわめて狭い人間関係が見て取れます。フィレモンへの手紙の末尾にはルカもローマのパウロの側近として登場します。

 パウロとルカは同じグループです。ルカの残した資料は、世代をこえる時間がすぎたあとでルカ福音書になりましたが、これもパウロが影響を残した文書管理組織によってローマ的土地で完成したから。と考えると無理がないでしょう。(福音書をまとめたのが本当のルカかどうか、もちろんわかりませんが、真ルカの残した資料は使ったことでしょう)

 しかし、60年代にローマ本国でネロの迫害があり、パウロ(65年?)ペテロ(67年?)さえも殉教、エルサレムでも根強い反感にさらされてヤコブ(62年)が殉教。さらにフラヴィウス朝成立とユダヤ戦争(66-74年・エルサレム陥落70年)がおき、古代ユダヤ国家は崩壊します。

 マルコ福音書は65-70年頃の成立といわれますが、ローマもユダヤもイエス教団も、どの指導体制も社会環境も激変する中で、Qを補完する宣教文書が必要とされたのではないでしょうか。

 つまり、まずQが作られ、混乱の中で「イエス」のまとまった伝承としてマルコが必要とされて、作られたのではないでしょうか。マルコはQを前提として追加された別著者による副読本。のような気がします。

 もしそうなら、マルコはQをわずかだけ含み、しかし独立した存在でもおかしくありません。

 マルコの成立には、十字架の直前に裸で逃げた若者が執筆した部分が重要になっていることでしょう。

 でも、完全に分解してみると、それぞれの構成は筆者の自由裁量によるもので、順番はフィクションだと結論されているそうです。(!)(つまりイエス様に直接会ったことのない人物の手で急いでまとめられた?)

 マルコは成立してしまえば、文書類の中で圧倒的な地位を占めてしまいました。さらに本国を喪失してギリシャ語系のディアスポラユダヤ人が文化の中心になってしまいましたので、ギリシャ語の文章群が全イエス教団を代表するものになったのではないでしょうか。

 そして、もともとの中核のQと、マルコと、パウロの手紙は、セットで、ディアスポラの各地に送られ、全体としての統制をとろうとしたのではないでしょうか。部数は数セットだけかもしれませんが。

 マルコはQを編纂したのとは別の集団によるものかもしれませんが(もちろん同じかもしれません)、マルコが成立したことでQの追加・成長は凍結されました。

 Qが独自に成長しようとしても、マルコとのセットによる配布のほうが強力でできなくなったはずです。マルコが中心になったのです。記者は複数のはずですから、多少の思想的異同があってもあたりまえでしょうか?

 その次はマタイとルカの成立です。

 マタイとルカがほぼ同時(80-90年代)に、離れた場所で編纂されたということは、Qとマルコがセットで流通していたからこそ可能だったような気がします。

 Qとマルコは親和性が高いはずで、だからこそ後に両者をくみあわせたマタイとルカが作りやすく、作業が平行してしまったかもしれません。Qとマルコ、どちらも権威はもうしぶんなかったはずです。

 それをルカはまとめて使っているわけだし、マタイは、よりまじめにさらに編集して整合性をあわせたつもりで、自らの作品にちりばめています。ルカは手間を省いて原型を保存したのだし、マタイはけんめいに手をくわえて、内容の変質(一部劣化)をまねきましたが、当時の情報を含ませて豊かにしてくれました。

 マタイとルカが目指したのはともに、異邦人伝道とローマとの共存、宗派としての体制強化、権威づけと思われます。ローマの一流文化としてそん色ない、高尚な文章をめざしています。

 同じような趣旨の系図、処女降誕説話、同じような復活劇説明を採用し、どれもローマ的権威付けにぴったりです。

 その当時の集団にとって最新のトレンドをとりいれて決定版として書かれた、その「時期」に必要とされた、「流行にそった文書である」可能性はないでしょうか。もちろんそれぞれ最高の人材が執筆にあたっています。(さらにいえば、執筆者名は、明らかにすることができない状況です・・・でも知ってる人はちゃんと知っていた??)

 マタイとルカの内容はお互いを参照すると矛盾が多すぎます。両者はお互いに存在を知ることなく、別々に編纂されたのは明らかでしょう。

 このような作品がどうしても必要であったが、協力して作れない。それは、お互いの連絡がかなりの期間、分断されていたから。ではないでしょうか。

 80年代から96年までドミティアヌスにより、ローマ領土全域で迫害が激しくなり、各集団は孤立したとしたらどうでしょう。この弾圧は、ユダヤ全体に対するものですが、分離しているとみなされなかったキリスト教徒も広範囲で弾圧を受けました。

 日本のキリシタンの弾圧の経緯を考えると、多神教がキリスト教に接すると初期は爆発的に受容されるが、やがて根本がけっして受け入れできないと知る(受け入れるとそれまでの社会の根幹がゆらぐから)と、徹底した弾圧(殲滅)に切り替わります。同じ現象のような気がします。このとき、各地の連絡ができなくなっても不思議ではないかもしれません。

 それでもそれぞれの地域集団は生き残りをかけて、文書による宣伝戦をおこなう決定的手段として、マタイとルカを成立させたのではないでしょうか。

 だから迫害が終わって双方の存在があきらかになっても、同じ聖書におさめるしかなかったのでしょう。どれも否定できないのです。

 ヨセフスのユダヤ古代史がドミティアヌスの治世中にギリシャ語で執筆され、終了の頃に発表されたのも、ユダヤ迫害への対抗措置だったでしょう。マタイ・ルカも同じ理由で、弾圧の回避とローマとの共存、民族・集団のアイデンティティの保持と、それにたいするローマからの承認を期待しているから執筆された。としてもおかしくないと思います。

 こうしておそらくシリアでマタイが、おそらくギリシャでルカが、生まれましたが、迫害の同時期に小アジアでヨハネ福音書が生れました。

 これはマルコの別バージョンの発展をみたものでもあり、対内的思想深化の必要性を含んでいます。同じ筆者の手紙が聖書に収集されている点から、パウロの手紙を集めたのと同じ流れの活動のはずで、これも広範囲な迫害の圧力の対抗手段の一環としてと考えられます。

 これに加えてパトモス島で黙示録が登場し、収集され、これで新約聖書は骨格がととのいます。

 黙示録も弾圧圧力への対抗文書で、弾圧が終わってふと見渡すと、そこに新約聖書が誕生していた。といえないでしょうか。

 現在に近い形の新約聖書は、1世紀の終わりに存在した可能性があるそうです。ほぼ間違いないのは120年頃らしいです。(ハドリアヌスの第二次ユダヤ戦争前)

 マルコは宣教にはたした功績の大きさの記憶によってそのまま新約聖書に収録されました。しかし、Qは聖書から落とされました。Qはマタイとルカにほぼ完全に重複収録されて、単独で存在する意味がなくなったからでしょうか?

 そして忘れてはならないのは・・Qと同時にマルコ・マタイ・ルカ・ヨハネ各福音書に使われた独自記事資料も失われました。

 それらもQのようなメモだったかもしれません。書かれた形式はわかりませんが、同時に消されたことだけは確実です。消えたのではなく、意図的に「不要」として平和裏に、積極的に、消された。と、わたしは思います。


 付記 言語道断な素人の妄想で申し訳ないです。闘病のストレスの産物としてご容赦いただければ幸いです。

楽しかったのでついワルノリして書いてしまいました・・。


2016/08/21  T.Sakurai