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ツワイキンダーシステム
zwei kinder system


柳田國男「故郷70年」(自伝)38頁より引用 1958新聞連載開始 


 布川の町に行つてもう一つ驚いたことはどの家もツワイ・キンダー・システム(二兒制)で一軒の家には男兒と女兒、もしくは女兒と男兒の二人づつしかないといふことであつた。私が「兄弟八人だ」といふと「どうするつもりだ」と町の人々が目を丸くするほどで、このシステムを採らざるをえなかつた事情は子供心ながら私にも理解ができたのである。あの地方はひどい饑饉に襲はれた所である。

 食糧が缺乏した場合の調整は死以外になく、日本の人口を溯つて考へると、西南戰爭以後までは、凡そ三千萬人を保つて來たのであるが、これはいま行はれてゐるやうな人工妊娠中絶の方式ではなく、もつと露骨な方式が採られて來たわけである。あの地方も一度は天明の饑饉に見舞はれ、ついで襲つた天保の饑饉はそれほどの被害は資料の上に見當らぬとしても、さきの饑饉の驚きを保つたまゝ天保のそれに入つたのであらうと思はれる。

 長兄の所にもよく死亡診斷書の作製を依頼に町民が訪れたといふ事例をよく聞かされたものであつたが、兄は多くの場合拒絶してゐたやうである。

 約二年間を過した利根川べりの生活を想起する時、私の印象に最も強く殘つてゐるのは、あの河畔に地藏堂があり、誰が奉納したものか堂の正面右手に一枚の彩色された繪馬が掛けてあつたことである。

 その圖柄が、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰兒を抑へつけてゐるといふ悲慘なものであつた。障子にその女の影繪が映り、それには角が生えてゐる。その傍に地藏樣が立つて泣いてゐるといふその意味を、私は子供心に理解し、寒いやうな心になつたことを今も憶えてゐる。




 「ツワイキンダーシステム」などという、つまらないドイツ語で表現して、柳田のやりきれなさと、正面から立ち向かう覚悟の欠如がうかがえる。

 あまりに悲惨で、一般の反感を買わないよう、オブラートにくるんで先送りしたのである。
 これで、問題の微妙さと柳田の立位置も把握することができる。

 死に勝つ自由を一人一人が所有して自己防衛しなければ、この悲惨から逃れるすべはないのだろう。ごまかそうが、どこまでもこのおぞましい現実は私たちを繰り返し襲う。

 思考と現実の極限にある、死児・死者の復活と、生者への告発は、それを断ち切る力になる。そしてそれが人間の栄光であり、勇気をもって人間性を守ろうとする最後の砦なのだ。と私は思う。


2016/1/28 T.Sakurai