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災厄が来る
misfortune




 3.11のとき、私はぼうぜんとし、関東の安全な家で二歳の娘をだきしめて、ただ恐ろしかった。

 福島の事故で、最悪の結果がどうなるか。時の政府の予測の三千万人避難が現実になったら、わが家族もその難民にふくまれ、幼子を守るために欠乏や寒さやあらゆる困難にたちむかわねばならないと覚悟していた。だが家族を守りきれる自信などなかった。

 宮城にいる親族をどうやって助けるかも悩んだ。交通機関がなく、ガソリンもなかった。それでも津波に襲われライフラインが絶たれた場所にやはり乳飲み子がいて、どうにか手をさしのべねばならなかった。恐るべき義務である。これもやり切れるかとほうにくれた。

 停電もはじまった。商店から必要な物資や食糧が消えた。おむつを買うことも一時はできなかった。避難となれば、もっとすべては過酷になり、長期化し、すべての人々の理性が狂いだして治安が期待できないことになるかもしれないと思った。

 ネットでは放射線量が高くなったことをマスコミより正確に伝えていた。その放射能は、間違いなく原子炉の中にあったものだ。

 政府が事態をコントロールできないかもしれないことは、なんとなくわかった。

 実際、原発事故はいくつもの「なぞの幸運」で、現状にたどりついたのであって、単なる運の良さで三千万が助かっただけなのだ。

 人間は衣食住を失って、放り出されれば、わずか半日で絶望し、一日で体力を失い、数日で地獄をみる。極寒など条件が悪ければもっと短時間で限界である。

 また、津波といった、とほうもない災厄が迫れば、とにかく逃げねば死ぬ。ということも、よくわかった。

 警告は不完全だったが、それでも「あった」。

 そのときは不十分な警報しかだせなかったとしても、それが原因で判断ができなかったり誤って最悪の結果を自分と家族にもたらしてしまっても、だれも責められない。だれも責任を負わないし、負えるわけがない。

 そう、リスクは計算して、自己責任で、そなえねばならない。グローバルなセーフティネットに身をゆだねれば日々は安楽ではあるが、最後の最後で、地獄がまっている。かもしれない。

 温暖化にせよ、環境破壊にせよ、汚染にせよ、資源枯渇にせよ、想定外の事故や災害にせよ、また技術的知識的袋小路にせよ、警告はすでにされている。

 無視するのは、まったくの自己責任である。そして大多数の人が目をそむけ、たかをくくっている。

 津波が来ると聞いて、逃げずに家に戻って波にのまれたごく普通の人々が、やはりそうだった。

 避難して、寒さと欠乏に苦しんだ多くの人々もそうだ。日々の準備が足りなかったといえば、そうなのだ。私もまったく同じである。

 はるか以前に・・・、そのときは、だれも守ってくれない、だれも期待できない、そんなことになるよ。といくつもの不吉な警告がされている。

 どうすればいいのか。準備するのだ。そのときが来たら、振り返らず逃げ出して、準備した用意で、自分と家族と、余裕があれば隣人を守るのだ。

 早く。早く逃げろ。安全を確保しろ。準備がムダになってもいいではないか。

 私が感じている危機感は過剰だろうか?。

 だが、近い将来に必ず、恐ろしいことがおきる。準備すれば助かるのに、今のままでは多くの善人が苦しむことになる。

 そんな未来が見えるような気がするのです。杞憂ですむなら、うれしいことです。

 でも、私は、半ば本能で叫びます。

 逃げてください。備えてください。 そして・・・すべての人の平安を祈ります。



2016/12/24 T.Sakurai  2016年前に始まった、「平和な新しい世界」の誕生記念日に記します。