前のページに戻る


過渡期の子育て問題
transition_period




 どうやら私は子供と無邪気に遊ぶ才能があるようだ。最初に気がついたのは高校生の頃、2ー3才の幼児が気になってしかたなく、親戚の幼児がいるときに遊ぶと妙にうけてなついてくれるのだ。

 それから長い年月がたったが、小学生低学年までの男の子や女の子に嫌われたことはなさそうで、別れるとき「おじちゃんともっと遊ぶ」と泣かれることも珍しくない。そんなとき、私もつらい。

 自分の子供が生まれてからは、妻に「すまない。子供第一主義でやるからごめん」と宣言した。

 それからフルタイムのサラリーマンでサービス残業もこなしつつ、子供の入浴、寝かし付けはほぼすべておこなった。

 ほ乳瓶の手入れ、ミルクの作り方もすぐマスターし、妻のすきあらば代行した。離乳食づくりはしなかったが、食べさせるのは得意だった。
 おむつは積極的に担当した。うんちも大歓迎。盛大にはみだしているときなど、赤ちゃんをていねいにケアしてあげられるので、かえって手間がうれしかった。臭いとか汚いとか思ったことはない。もちろん子供はいつも清潔だった。

 男親として、少々やりすぎ?おかしい?とおもいつつ、妻子には喜ばれたようである。

 しかし、そうでない親はたくさんいることはわかっている。出産前後のマタニティブルーは理解しているつもりだ。理不順なことはたくさんあったが、育てるさいの母親の自由時間のなさを考えれば、不満も当然だとおもう。

 子供は女の子で7才になった。学校の帰りにどんぐりや松ぼっくりを拾ってくる。

 指をつかって足し算をして、学校の宿題に泣き言をいう。散らかった自分の勉強机ではなく、いつも広々と整頓している私の机を占領して宿題する。その背中に私は声援を与える。

 机の娘の後姿を見ると涙がでるほどうれしい。勉強が終われば、同じ机でお絵かきや工作をやり、ホームページも一緒に作っている。

 問題は、あと数年で彼女は思春期にさしかかり、生理がはじまることである。10歳での初潮はあたりまえだそうだ。こんな幼いのに、無垢でいられる時間が少なくなっているのである。父親としては悪夢である。

 生理が始まるとは、生殖が可能になる。成体になったということである。
 動物ならすみやかに繁殖をはじめるであろう。それが野生の生き物としての自然の摂理である。

 だが、人間として成人し、社会生活をつとめあげるには、どう考えても「小学生」なんて経験も知識も準備も問題外である。


 純粋に人類女性の出産適齢は15ー25歳だそうである。

 さらに戦国武将の前田利家の妻の「まつ」は、数え12歳で嫁ぎ、翌年長女を出産している。近代以前では、14歳程度で結婚してすぐに出産という例はあたりまえなのである。
 それではあんまりだということで、1947年になって法律の女性の結婚可能年齢は16歳になったが、現代では16歳の結婚妊娠も「非常識」といわざるをえない。(もうすぐ18歳にナリソウダガ・・・)


 男性の場合は14歳ぐらいが精通時期である。性的成熟では女性より若干遅れるが、男性の場合は精通と同時に快楽を経験するので、女性より早く性的欲望が完成し積極的になる。

 私自身の経験でも、体の変化に驚いた。

 理科オタクだったので小学6年の誕生日に顕微鏡を買ってもらっていた。それで自分が精子をつくりはじめたことを、ひそかに確認したときは、恐怖を感じた。(うじゃうじゃいる)

 必要ない欲望がうとましかった。中学生の自分は父親になれる能力をもってしまったのだ。

 だが、生物的に父になっても、子供をどうやって育てられるのか。自分は精神的にも能力的にも半人前以前で、未熟でしかないのに、「性的成熟」なんかしてしまって、どうしてくれるんだ。と思った。


 男性の法的結婚可能年齢は18歳である。これも生物的成熟からみれば遅すぎる。

 織田信長が好んだ、源平合戦の敦盛の悲劇は数え16歳のときだった。熊谷直実に討ち取られて死んだ武将だが、なんと少年・敦盛は結婚していてすでに息子がいたのだ。正直、これを知ったときは驚いた。

 しかし現代では18歳で結婚する男はやはり「非常識」である。

 われわれ人類のライフスタイルは、男女ともに、覚えることが増えてしまった。だから、生物的適齢期と能力的適齢期がズレて、障害・悲劇を常時おこしている。

 あるいはもともと足りない知識・能力・自覚などおかまいなしで、婚姻・子育てに強制的に突入するようプログラムされているのである。

 だから、子育てで若い男女が苦労して、虐げられるのはあたりまえである。これを現代や未来にあてはめれば、周囲からのサポートが必要・前提の子育てだということなのだ。


 幼児の子育てと人生を、共に不十分な形ながら卒業しつつある私としては、やはり子育ては難しいといわざるをえない。

 孫の面倒を週に数時間みてくれる義母はありがたかったが、核家族の夫婦二人で幼児を24時間、目を断固として目を離さず、健康に育て上げるには修羅場はあった。

 乳児のときに家族で旅行して、お土産のため福島の果樹園にいったが、そこで娘を抱く私に販売していた中年の女性が「あーら、目のなかにいれて泳がせても痛くないね(かわいがってるね)」と言われた。
 私は即座に「そのとおりです」(よほど目じりが下がっていたようだ)と答えた。そんなオヤバカ志願の私である。

 それでも、時に娘がうとましくなる瞬間もあった。
 まだまだ修行が足らないと言えばそれまでだが、核家族での子育ては人間と言う生き物の生活としては、無理の多い、臨時のスタイルなのである。

 生物として、次の世代は絶対に必要で最大限の努力で守らねばならない存在である。

 しかし、知性のない段階ではその戦略はスピードと大量コピーが基本でした。
 知性が発達するにつれ、子孫確保戦略は長期化し多様化したが、人間はさらにレベルの違う段階に達し、遺伝子による基本設計を飛び越えた社会を作って、その中で子育てをすることになりました。

 しかも、ここ数十年のエネルギー乱消費社会は、広域市民社会を形成して、地域共同体を解体しました。
 それにより、大家族による子孫協同維持戦略。という文化的に作っていたシステムも崩壊しました。

 エネルギーはあればあるだけ、生命は使ってしまうものなのでしょう。

 はてしなく掘り出した資源とエネルギーを投入し、ムダを膨大につみかさねても、かまわない。のがもともとの生物の基本です。それにはもちろん意味はありません。自滅して収束すれば元に戻るはずでしたから。枠からはみ出すことはなかったのです。

 現在は過渡期です。外部から一時的にエネルギーが流入して、環境まで破壊してしまいます。
 遺伝子デザインの想定生活からかけはなれた状態にあるといえます。ですから、ただ生活するだけで、やがて滅亡がおこり、収束せずに、環境まで道ずれにして崩壊するようになりました。
 大変な事態がおこりつつあるのです。

 ほんの短い間の社会変化により、核家族化が進行しました。
 擁護はしませんが、それなりに機能していた文化的システムがいくつも無効にされてしまいました。伝統的子育てが崩壊した状態になったのです。
 現在の結果としての、少子化世界や格差社会などの結果は、人々にとって望まれない、アリ地獄のようなものです。
 遺伝子的には二重にも三重にも想定できないありえない事態である。
 

 進化上、明らかに現代は過渡期である。

 これは是正されるしかないし、長期的に見れば現在の混乱期は一瞬の出来事になることでしょう。



2016/10/25
T.Sakurai