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車窓から将来の景色を思う
train window




 体力の落ちた体で、通院の車窓からながめる。

 目にうつるのが、美しい田園であったなら、どんなにうれしいことか。

 しかし、南関東の景色は、わずかな田畑・林のほかは、さまざまな家・マンション・大規模店・工場などの建築物だらけだ。
 多少屋根に太陽光パネルをのせた住宅もあるにはあるが、どれも最適な設置方法に比べれば中途半端で低出力でメンテしにくい二階建ての屋根の上だ。全体から見れば気休めにもならない。

 どの家も同じ基盤の上にある。
 この景色は、はるか遠くから送られてくる電気やガソリンによってささえられている。元となる化石資源は、さらに遠くからやってきて、やがて枯渇する。

 この長い道のりが途絶えたらどの建築物も機能しなくなる。安定してエネルギーが供給されるのはいつまでだろうか。この光景は私には幻にしか見えない。

 カーボンを燃やして排出し、それに酔って、目の前の危機を忘れる。いわば中毒になりながら、日々を浮き草のようにひよわに暮らしているのが現状だろう。

 平穏な未来が一軒一軒の家に続くことを心から願う。私の家も、いまはまだ、その中の一軒なのだし。

 家の形はそれぞれ違う。
 そのときの流行に忠実である。だが、いざというとき役にたたず、住人の自力で直せもせず、もろい存在だと言うことはどれも共通している。

 それに太陽光パネルを設置するにしても、屋根の形状が、合理的といえる家は実に少ない。
 数十年かかって、やがて南向きに大面積のパネルを設置するのがあたりまえになっていく過渡期なのかもしれないが、ゴールがわかっているなら、危険から脱出するのは速ければ早いほど安全なはずである。

 そもそも竜巻・水害・火災などを考えてると、目の前で圧倒的に採用されている木造二階建ては不合理な建築と思わざるをえない。

 不合理なものは美しくない。だから、私はこの景色を見て憂鬱になる。

 電車が目的の駅についた。長く退屈な病院での一日に立ち向かおう。

 病の状況は綱渡りだ。

 一日一日確実に残り時間は少なくなっていく。完治はない。結末は暗い。わかっている。
 健康であったときの家庭の大黒柱としての勤めが、はたせない。家族の将来が心配だ。気がめいる。あたりまえだ。

 だから処方された薬の力をかりて、気分の下ざさえをしよう。いま使っている「うつ」の薬の名前は「ドグマチール」という。

 面白い名前ではないか。あらゆる固定観念・ドグマ・ドクサから自由になる、あるいは知らず知らずの束縛を想定して、対策をとることは、知性の義務である。

 目の前の万人が束縛されきった景色が、持続性ある世界に変貌をとげる日を夢見て、私はいずれ目を閉じる。

 自分にあたえられた使命がもしあるとしたら、少しでもすすめたい。



2016/10/19 T.Sakurai