不安をとりのぞきたい
ここ数日、ドイツで、フランスで、ベルギーで、アメリカで、イラクで、アフガニスタンで、トルコで、同様な無差別殺傷事件がおき、いずれも犯人は逃げることなく自殺するか射殺されるか、自首した。 報道されない同じような愚行は、どれくらい我々人間同胞を苦しめているであろう。想像を絶するはずだ。 いうまでもなく、彼らは自らの身を滅ぼす愚か者であった。 死にたい人間はいるのだろうか。恐ろしいことで、残念なことながら、いるのだ。 私は推測だが、彼らは幸せになりたかったが、絶望して、自分のありのままでいられる世界がないこの「空間」から逃れようとしたのだと思う。 だから、彼らにあたりまえの忠告と、人間として尊厳のある扱いをして、それが生涯続けられるという確信・信仰と、誇りをもっていれば、それらの魂の救済としての体の自殺は避けられたのではないかと思っている。 そして、体の自殺をするために、自分の命を愛するために、自分を愛すことしかしらず、愛の無知がすべてだと、思いつくしている。 彼らとて大義に殉ずる英雄になりたかったはずだ。 自分がはてしなく愚かであればあるほど、救われると「わら」をつかむ人々であろう。 (だから私はすべてを悼む。被害者も加害者も。この世のやりきれなさも。 自分の力およばなさも。それでも、これから書き残したいこの小さな本が、いくつもの耐えがたく、逃れがたい「現実」をのりこえて、平和の地へとさし示す、弱々しいただ一本の指になれればとも思う。・・よけいな一文) 2016/07/26 T.Sakurai |