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筋力が能力だった世界



 かつて、筋力が能力であった。
 筋力がなければ、移動も、運搬も、狩猟も、農耕も、建築も、すべての基礎労働ができなかった。
 
 基礎労働は男の汗と苦痛であがなわれ、その基盤の上に、筋力を主に担当しない女性が生活の保守労働となる、採集、加工、育児などに時間を果てしなく投入して、すべてが運営されていた。

 筋力労働は苦痛をともなうがゆえに、嫌悪され、できることなら、人のあらゆる弱みにつけこんで、人間が人間を奴隷にした。そして苦痛を、押し付けた。

 しかし、筋力が労働に必要なくなれば、奴隷の存在が前提となっている、階級制度は解消できる。
 それが、エネルギーの豊富な供給と機械・電子製品の登場で、実現できるところまでやってきた。

 
基礎労働が苦痛でなくなる。苦痛の労働が消滅するのです。
 いいかえれば、労働は消滅した。とまで言える
でしょう。


 もともと生物はDNA情報で形作られた、たったひとつの自分の肉体で環境にむきあって、生きるためのエネルギー(筋力)をとりだしながら、生死をかけた日々をすごします。

 人は間接的な多様な環境を自ら作り出し、生死に直結しない生活を確保しています。体(筋力)とエネルギーは直接的(リニアな)関係ではなくなったのです。
 
 そのかわり、筋力に隠されていた制御能力が重要になります。

 筋力と判断・制御力(脳力)と統合力はもともと一つでしたが、分裂していきます。

 この三つが一人のなかに兼ね備えることは難しくなり、また個々の人間がすべて持ったところで意味がなくなってくるのです。

 そのため

 筋力→労働者(奴隷)  多数

 神経→制御者(官僚)  少数

 脳  →統合者(指導者) 一人 に分化することに、総体として「一人」になります。

 最終的には、刻々代わる状況に対応して、客観的に的確に判断し、適切な命令を早急に下して、実行させ、全体を一つに動かして、まとめあげねばなりません。
 この人間の社会構造は、どうあっても変化するように思えません。



博識が貴重だった世界



 ネットでの検索と、知識の獲得が可能になると、何がおこったのか。

 辞書や百科事典が使われなくなったのはご存知のとうりです。
 確立した知識やノウハウは、Wikipediaなどで、一読して、専門サイトで知識の裏づけをとり、必要なら「質問コーナー」で多くの自称「専門家」から意見をもとめ、それらを取捨選択して、手っ取り早く過去の知識の獲得ができるようになりました。

 分厚い本を右往左往ながらひっくり返す手間は大きく減りました。
 また、ある程度の基礎があれば、専門的な情報も読み解いて、独自にスキルアップし、そのことで、ネットに収録されていない紙ベースの図書館などの知識も有効に活用しやすくなっています。

 図書館の蔵書確認、古本の入手の容易さ、それらのネット上でのさまざまな評価など、インターネット以前の世界と比べると情報の流動性の向上と、自己のレベルアップの容易さは、実にうれしいことです。

 これによって、重要な知識、そしてそれに対する「大衆の一人」としての望ましい反応すら、「自明の結果」として、自然と個人が手にすることができます。
 言論の自由の、結果なのです。
 それらは、ごく「あたりまえ」に良識ある平和なものになっていかないでしょうか。

 これらのすべては知的作業、知的能力のかさ上げに他ならず、それ以前の、「教養」「学識」そして、「専門知識」の壁を低くするものです。

 筋力が労働の基礎ではなくなった次に、知識が知的労働の背景にならなくなった。
 あるいはもうすぐ、「ならなくなる世界」がやってきつつある。と私は感じています。

 知識に実用上に有効性以上の付加価値がなくなったのです。(大学の授業が全部公開されたようなものなので、あとは個人・あるいは教師の本当の能力が問われます)

 ますます人間に肉体的知識的に「過酷な」労働をさせる根拠はなくなってきます。
 あと残る労働の要素は、「時間」です。

 やがて、「同一労働同一賃金」の次の概念として、「同一時間同一賃金」が提唱されるでしょう。性別や人種が、労働における差別の理由付けにならなくなったのと同じです。
 そうなれば、家庭内労働も、農作業もオフィスワークもすべて同一価値で判断されるようになります。

 そしてその次は、長時間労働、深夜労働などの価値判断もされて、「人道的」「幸福追求」の労働が、どのようなものが望ましいか評価がはじまるはずです。

 個人的にいうなら、無理しないでみんな暮らせたら、それでいいと私は思います。


2016/07/30 T.Sakurai



 「千年のうち」の想定



 社会の一人一人は、暫定的に「家」という単位で、太陽エネルギーを受け取るプラントを現物所有します。
 そして、そこから得られるエネルギーと収穫物を生活基盤とします。
 収益で食べ、設備を維持していきます。

 「家」には、設備を含んでおり、その設備は「筋力」を必要としない段階にあります。つまり筋力労働者はいないのです。

 そして、手工業レベルで生産性が高くなっているので、各家庭は余剰生産物を隣家に供給でき、隣家も同様な余剰を別の隣家・村全体に供給できます。

 単純な少量の手づくり自家消費が精一杯の生産ではありません。
 時間のかかる家庭労働ではありません。手や小型のフードプロセッサでパンをこね、家庭用オーブンで焼くのではなく、中型のパン生地装置で、大型の釜でまとめて毎日焼くのです。(村のパン屋ですね)
 村各部が分業することで多彩な生産物を相互供給するのです。


 しかし、すべての「家」が適切に自家の設備を管理できなくて当然です。
 なので、管理能力のある個人が、能力がないと判断された各プラントの元々ある生産能力を適切に代行管理します。能力を、発揮させるのです。

 農産物生産や、脱穀、貯蔵などの大型共同作業はそのようになされます。

 実際の作業は機械に、
 運営は各家に、
 総合のまとめは、能力が認められたボランティアの(えらくない)リーダー(モーセ)に。

 なることが、理想的と思われます。

 そして、各家の「家業」も基本的に村内分業ですから、一軒がそれを担当するのではなく、数軒からの希望構成員がローテーションを組んで、日々の成果を作り出して、一人が欠けても支障がないようにします。

 つまり、能力とは、バランスのとれた実務能力において有能で、優れた人望を持つ人に付属する言葉になるのではないでしょうか。


2016/07/14 T.Sakuraiメモまとめ