「科学技術は自らの進むべき方向と目的を自ら決定できない。(中略)ここから倫理的で政治的な問題解決の枠組みが、技術的手段の選択基準の一つとなるべきことが示唆された。」(「思想としての地球」228より 強調は引用者による)
これは卓見の一つと思われます。
つまりは科学は目的に対して、盲目である。ということでしょうか。
科学 ・技術は純粋な好奇心に基づいて無原則に全方面に向かって前進しうる。
のですが、どれが合目的であり、倫理的であるかによって、おのずから発展の方向には制限が加えられるのは自明となる。ような気がします。
科学は倫理を持たない。自らの進路がわからない。
自ら決定できず、プログラムできない。
これは科学の発展するために必要な、中立性と事実のみが絶対とする「ドグマ(教義)」といっていいでしょう。
科学は永久にそのドグマの中にとどまります。
そのため、科学単独では、成果を「人間の幸福」のために応用することには直結しないのです。
プラス方向で考えようと、背後に倫理を持てば、それは純粋ではなくなり科学ではなくなります。
マイナス方向で科学を利用しようと、利害目的をもてば、当然、ヒモのついた利益の奴隷的道具としての御用科学となります。
中立性はどちらもなくなります。
また、倫理を持つ人は、持たない人を許容(抱擁)します。
そして、倫理をもちいて、倫理を無視する人を制約し、律します。そして、全体における倫理を維持しようとするのです。
つまり、倫理を持たない人は、有効か無効かをとわずに、倫理に結局、支配されるのです。
自分の他に、別に主人が出現して、従わされるということです。
倫理・目的を持たない人が、強大となり、すべてを力で支配することになっても(主人となっても)それは同じです。
倫理を持たないものが、倫理あるものを支配するときは、暴力・単純な力以外に方法はなく、その力が失われたとき、永続性をもてずに支配はくつがえります。
しかし倫理は一時的に権力としての支配力がなくなっても、内容が言葉となって残り、人々の心に永続性を持って存在しているかぎり、やがて必ず、社会の支配力を再生させることができます。
最終的な勝利は、倫理のあるなしに、左右されるのです。
これは、負けて勝つというヤコブのパラドックスの再現となります。
解説・ヤコブのパラドックス
旧約聖書ホセア書には、
「ヤコブが成人したとき神と争った。彼は天の使いと争って勝ち、泣いてこれにあわれみを求めた。」
という一見理解しがたい記述があり、旧約思想のひとつの極地とされます。
人間が神と争うと、必ず人間が勝ってしまう。
全知全能で「正義」であるはずの神なのだから、負けるはずがないのに、わざとでなく正統に負けることまでできるのです。
(人間はイエスを十字架につけて殺して勝っても、その十字架に人間はすがって、救済を求める。これが典型です。)
だから人は勝利者となっても、最終的な優劣は言うにおよばず明白で、敗北者以下の存在にしかなりません。
人間が将来の徹底的自己否定を考えるなら、勝者のはずの人間が、敗者の神に、「あわれみをもとめてすがって泣く」ことになるという。という、逆説の思想です。
問題は経済ではなく、道徳、倫理の問題です。
奴隷問題が、奴隷という財物の管理や、待遇改善ではなく、道徳により、すべて廃止する問題にきりかわり、最終決着しました。
最後は倫理が、すべてを左右したのです。
すべての問題の解決の最後の鍵は倫理になるのです。科学ではありません。経済でも貪欲などの「不正」でもありません。
同じように、「千年のうち」のように、一人一人が生存システムを所有することは倫理上必要です。
それを可能にする環境の意識も道徳的に必要だから重要なのであって、経済的(利益的に)どうだという問題ではなくなるのです。
これを自然に応用したり、また土地の利用方法に応用すると、とんでもない別世界が見えてきます。
アルド・レオポルドは、1948年に「野生のうたが聞こえる」の序文でこう書いています。
「(前略)人間が土地を、自らも所属する共同体とみなすようになれば、もっと愛情と尊敬を込めた扱いをするようになるだろう。(中略)土地がひとつの共同体であるということは生態学の基本概念だが、土地は愛され尊敬されてしかるべきだという考え方は倫理感の延長である。(後略)」
そう、すごいことを言っている。
倫理的問題で土地は扱うべきなのである。
土地は生態学的にどこでも生きているし、荒廃しても生き返ることができ、その中の一部で有用な生物連鎖の一環として人間は存在することができる。
その結果、
自然が永続するように・・、
同じように人間が人間として幸福を追求しつつ永続できる基盤として土地(=そこに降り注いで原動力となる太陽エネルギーを他の生態学的各部所の生物と分かちあって、共生する・・共同して生きていくことができる場所)
として、存在し続けねばならない。
そのためにこそ、土地を永続させることが、倫理的に正しいのです。
土地の生産力を短期経済利益目的で収奪したり、使い捨てしたり、土壌を荒廃させたりして、利用できなくすることは、倫理的に「悪」、許されない行為として精神的禁忌(タブー)としなければならない。
という社会通念を作るべきなのである。という主張なのです。私は賛同します。
その自覚を持たせるための土地の個人所有(自作農)です。自分の永久財産ならだれでも大切にします。
まあ、事実。人間の生活の永続を願うなら、そうなるのがあたりまえで、過去においても、農地をつぶすことは、許されざることでありました。
そして相手を滅ぼそうとしたら、敵国の土地に塩や枯葉剤をまいて荒廃させた例がありました。
そこですこし脱線して考えると、私はメガソーラー発電が、その土地のすべてを覆って雑草すら生えさせず、ただただ電力を生み出す方法は、土地の生産性、生命性を考えると反対である。植物や動物の生産の一部にメガソーラの敷地も参加させるべきです。
パネルの間隔をひろげて、土地に草や作物を作らせたり、生態系の一部として種の保存に役立たせるなど利用方法があると思えます。
レオポルドは基本的に詩人でした。
自然の中で暮らし、それを詳細に見つめ、ただなかにありつづけた。彼の全体は私は評価できないが、一生活者として、尊敬します。
彼の思想は、ラジカルな自然保護者の基盤となり、やがては自然過激派(グリーンピースなど)にまで発展していくが、勘違いさえ補正すれば人間が自分の立ち位置を確認するための基準思想として有益と思えます。
(私の死後の)世界はどうなっていくのでしょうか?
追記
環境は人間にとって、自由にコントロールするには、難しい存在と言えます。
人間は自然の本当の主人にはなりがたいです。共立こそを目指すべきです。
だから、いわば消極的アプローチとして、人の影響をなるべく減らすことしかできません。
なぜならレオポルドは、
1 人は自然すべてを理解することはできない。し、
2 人が自然を設計することもできない。からである。
と、土地利用の二つの基本的立場を指摘しています。(「思想としての地球」P260)
ですから、人の生存エリアを確保して、その中で経営を行い、その外部に対して、負荷をかけないという手法となります。
原生林の保護といった問題は、いわばどこを放置するかという扱いであり、人が管理することは基本的にないとすることになるのでしょう。
危機のときの救助、山火事の消化、異常繁殖した外来種の駆除などにとどめるのでしょうね。
人は自然の一部ではないし、自然の管理者でもありません。
人は人の管理者です。
人は自分の世界を、永久に保持する責任があり、管理しないことで自然と共立する義務があります。
(これはレオポルドの思想は、人は自然の一市民にかえって、自然との共生をするというもの、ですから、衝突するのですが・・)
自然は自然です。人間の都合はどうでもいいのです。経済・貨幣も市場原理も、自然は従いません。人間社会は自然の懐の中に安住できる範囲、限界の中でしか存在できません。どちらが主で従か自明なのです。
農業は 永続再生産 であり 鉱業は 略奪・放棄 なのだから、そもそもまったく人間活動としての性格が違う。
「カネ」という共通の交換媒体を使えば、双方を同時に扱うことはできるが、それは両者が等価になったということを意味しない。
この二つを「カネ」は同様に扱うが、それは金も鉄も 「重量」で同じ価値判断をするようなきわめて粗雑なドンブリ勘定にしかならない。
粗雑な会計システムで会社を運営すれば倒産するように、「カネ」だけで農業も鉱業も同時に扱っていれば、経済はうまく動いていても人間活動は破綻するだろう。
会社は経営危機だが、文明存続の危機とはこのように起こると私は想定している。
2015/09/30