ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に作中劇である「大審問官」があります。(参照)
ここで、作者は、イエスの思想を人間が本質的に受け入れることができてこなかったことを大審問官の口を通して語ります。
1 あらゆる人間が、物欲のために、自由人ではなく奴隷として、自分を扱うということ。
(イエスは石に命じてパンを作ることを拒否した 人はパンのみでなく神の言葉でいきる
→ しかし、パンのためには人間は自分も全人類も奴隷になるのだ)
2 同様に、精神の自由による良心ではなく、神秘という理解のできない部分に精神を支配させてしまうこと。
(イエスは神をためしてはいけないとした
→ 神秘・奇跡を信じることで、どんなことも肯定して良心を麻痺させた)
3 地上の権力を否定できず、自分が世界の王を僭称し、君臨して絶対者を名乗ること。
(カエサルのものはカエサルへという地上の権力・金力の相対化をイエスは命じた
→ 権力をもった者が絶対者として正統性を口にできるという究極の堕落をおこなった)
大審問官のいうとおり、イエスの指し示した「仕事」に、我々人間は失敗してきました。
これまでの歴史の現実論・結果論として、大審問官は正しいのです。
大審問官は、無神論をかたり、悪魔と結託し、全人類を奴隷とするかわりに 「麻痺の安住」と「不公平なパンによって不公平ながらも平和」をあたえたと、傲慢に目の前のイエスに語り(!)、不安と罪悪のなかで胸をはる。
まるで人権を圧迫して見せ掛けのパンと平和を13億人の奴隷に与える中国共産党の指導者のようである。
そして、イエスに永久に 「立ち去れ」さもなくば 「悪魔として火刑」にかけると宣告する。
それに対して、作中のイエスは、この大審問官に口付けをあたえて去っていく。
これを作品の評者の多くは、ドストエフスキーによるロシア的抱擁による解決としている。
作者は、イエスがあわれみをもって大審問官を許すさまを描いたのです。
一読者の私は、大審問官をどう見るか。
中国共産党がこっけいなように、ヒトラーがこっけいなように、歴代の王族、皇帝がこっけいなように、大審問官も、そもそも道化である悪魔の道具にすぎない。
努力すればするほど道化の道化、つまりあわれさのあまり、許されるしかない存在になるのです。
悪魔に魂を売り渡したら・・すべては無価値になります。あたりまえのことです。語るべき言葉はなくなり、正統性は失われます。
それはどれほど一時的に強大であろうと、結末はしれており、けっして羨望ではなく、軽蔑と慈悲とあわれみへの、墜落の対象です。
(蛇足でつけくわえるなら、全裸になって「これが人間そのものだ」と絶叫する頭の悪い前衛芸術家や、ドラッグをキメこんで 「限界を突破した」とうそぶく精神の弱いロックスターなども同類でしょう。いずれもたしかに 「人間そのもの」ですが、それだけですまないのを知っていてのに逃げているのです)
ですから、ドストエフスキーはただしいのです。
大審問官は、自らをすべて失っています。循環する環の中(地獄)の永遠の下僕となるしかないのです。
そして、わたしごとき、浅はかな人間が、こうも簡単に結論を出せるのは、20世紀の歴史そのものの存在です。
ロシア革命、ファシズム、ホロコースト、核まで使った総力戦、大躍進、民族浄化の人類史におけるあらゆる大実験を21世紀に生きる人間として私は受け取りました。人間が人間の主となり、支配を徹底したときなにがおきるのか。おきたのか。
これらのことがおきるとは、19世紀のいかなる天才、人格者にも不可能で、どのような結果になるか見通せるわけがありません。しかし歴史の結末を知るものとして、どのような評価をくだすべきかは、膨大な犠牲の末になら、凡人にも明白なのです。
大審問官は敗者でしかありません。それが20世紀の成果です。
しかし、具体的方法論なしに、「ただ、分け与えよ」と言っても大審問官のように、イエスに沈黙を強制し追放する結果となるのも事実でしょう。
ここで止れば、なにも変わりません。
だから大審問官に正面から立ち向かい、あらゆる意味で圧倒して、イエスが指し示す、新しい世界を作り上げるための、具体的で、効果的な対抗手段をとらねばなりません。
それが人間らしく生きるという大目標、人間の義務をまっとうするための方法の一つだと思うのです。
そのための決定的な武器になりうるのが、(あるいはなりうる可能性があるのが)
ジェイコブズの二つの倫理 のシステム論です。
人間社会を作動させてきた複雑な構造を、二つに分離して要素にわけることで、見事に良心にもとづかない「これまでの人間社会」を明らかにしました。
これで人間社会に必然的に動作してきた、長所と短所の背景が見えてきたのです。
二つの倫理の作動原理が明確になれば・・
それらには、暴走と、結果と、害悪があるのは約束されていたのです。
ということを、共通認識にして、前提にし、その防止策を可視化・立法化して、二つの倫理を制御する手法が取れるはずです。
いわば、二つの倫理を、「人間の心に巣くって不幸をもたらす公害の一種」とするのです。
法律で公害を防止するんのと同じ対策をとればよいでしょう。
つまり、十戒のような、個人を対象とした否定的戒命を導入し、これを共通に守る社会体制をつくりましょう。
二つの倫理体系が知られていなければ、その猛威、副作用に根本治療ができなかったのですが、ジェイコブズによって、発見され、照明があてられ、我々の桎梏の正体の一部が明らかになりました。
ドストエスフキーが示唆にとどまるしかなかった地点から、前にすすめるようになったのです。
思想は思いつかねば先には進めず、監獄として機能します。
発見により新しい平和で争いー圧制のより少ない世界ができるなら、それは進歩であり改善 成熟である。望ましい変化である。
成長や膨張ではない、より素晴らしい世界を作っていきましょう。
そのために肯定的戒命が、心の原動力となりましょう。
2016/04/12 入院の日に