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本当にスローでいいの?



 あらゆる意味で自立し、持続可能な、生活をどのように実現するか。
 多くの試行錯誤があります。
 2000年代に注目されたスローな生活、スローなフードの考え方はその一つです。

 どんな問題点があるか、ここでは日本のヒッピーの元祖といえる「ななおさかき」の詩「野生に声あり」に含まれる下記の10項目を考えて見ます。

 ななおは自然保護活動にも早くから関わり、独自の方法で現代社会に警鐘を鳴らしたヒッピー詩人で世界を旅する放浪詩人でした。(そうです)
 これはスローライフの提唱者・辻信一によるとスローライフを目指すための10か条です。


さわやかでたのもしい経済社会の道

1 ぎりぎり 必要なものだけを 求めよう

2 工業製品でなく 手づくりを

3 スーパーマーケットでなく 個人商店 または生協に つながろう

4 虚栄と浪費のシンボルー誇大広告を まずボイコットしよう

5 最大の浪費 ミリタリズムに かかわらない

6 生活のすべてに もっと 工夫と創造を

7 新しい 生産と流通のシステムを 試みよう

8 汗と思いを わかち合う よろこびから

9 真の豊かさとは 物と金に 依存しないこと

10 野生への第一歩ーーよく笑い よく歌い よく遊ぶ


 どうでしょう。個人の生き方として美しいといえます。
 生涯を漂泊に生きた人ならではの突き抜けた人生の肯定があります。
 こんな生き方に、あこがれがないといえばウソになります。

 でも、すべての人がこれをやれば、社会がどうなるか。少数の人のライフスタイルを拡大すればどんな弊害が生まれるかを考えて、書き直してみます。


1 ぎりぎり 必要なものだけを 求めよう
 → 反対 全体でうけとれる自然の恵みには限りがある。永続的に、平等に、必要な分を受け取らねばならない。持つべき財産である。

2 工業製品でなく 手づくりを
 → 反対 手作りの自給自足は決定的な時間不足におちいる。小規模工業を閉鎖経済のなかで最大限の生産性をあげよう。地産地消であれば、これが余剰時間を生み出す手法である。

3 スーパーマーケットでなく 個人商店 または生協に つながろう
 → 中立 地産地消が前提だが、世界全体との連帯が必要。どうしても地元生産できない品目は発生し、それは膨大な品目になる。

4 虚栄と浪費のシンボルー誇大広告を まずボイコットしよう
 → 同意 必要なのは正確で膨大な情報である。

5 最大の浪費 ミリタリズムに かかわらない
 → 反対 自衛できてこそ生活がなりたつ。安全かどうかは、敵がいるかどうか、どのような理由で敵になっているか、どのような脅威があるかで決まる。妻子・故郷を危険にさらせないのだ。

6 生活のすべてに もっと 工夫と創造を
 → 肯定 しかしその前提として、精神の自由と、尊厳の保障がなければならない。

7 新しい 生産と流通のシステムを 試みよう
 → 肯定 グローバルニズム、大量生産、大量消費はどのみち崩壊する。だが過渡期は慎重に。

8 汗と思いを わかち合う よろこびから
 → 反対 放浪者にそれを語る資格はない。同時に一時的感情に流されての心中はまっぴら。

9 真の豊かさとは 物と金に 依存しないこと
 → 反対 エネルギーと資源と環境という、人間がそもそも作り出せないものに依存することから逃れることは不可能である。金は取引につかう約束で、公平を担保する道具の一つなので、役に立つ範囲での利用はやむをえない。

10 野生への第一歩ーーよく笑い よく歌い よく遊ぶ
 → 反対 野性は制御せよ。笑い・歌い・遊ぶことは素晴らしいが、欲望と無知の野生は、許してはならない。野生ではなく、人間らしく生きよう。

 そして、わたしは、このナナオさんを評価しない
 → すべての人が放浪すればどうなるか。男なら妻と子供を守れ!なんと傲慢な生き方をする人だろう。と同作者の他の詩集数冊も読みながら思った。

 我々は本質的に流浪の民である。だからこそ、流浪漂泊の生活のリスクから家族を永続的に守らねばならない義務があります。

 それが、ホントに自分が流浪しては、子供と妻と老親を養う実力を持ったいい大人が自分のとりあえずの生存のためにだけに、自分の能力を使いつぶすことになります。利己的です。

 そんなことが許されると思うのですか?

 そりゃ、一人で流浪していれば、楽なものです。なにしろ妻や子供や数人分の生活資源を獲得する能力を、自分ひとりで使うのですから。左ウチワです。

 自分の人生は、それぞれの自分が使うものですし、精神は自由です。ですから私は自分の精神の自由を使って、そんな生き方を「あほか」と思うのです。

 本気で流浪してどうする。逃げるな。


2016/04/12 T.Sakurai


追記

 “自分の果たすべき務めは、自分の居場所にいることだとわかる。

   魂は旅人などではない。賢い者は家にとどまる。“ ラルフ・ワルド・エマーソン

・・といった言葉に共感です。自分も冒険を求めて若気のいたりをしたことが恥ずかしいですが。


無知であることの野卑と軽薄



 私の母は、典型的な農村に生まれ育ち、実家から十数キロ離れた都会の女学校に通学し、東京で働き、結婚し、かつて通った女学校の近くに家族を持った。

 母の実家は、私にとっても懐かしく、祖母にずいぶんと可愛がってもらったが、そこで生まれ育ったいとこたちとは、やはり何かが違った。
 私は都会っ子であり、いとこたちはそうでなかったのだ。

 祖母は孫たちをいつくしんだが、それは農村的に平等に、徹底的に横並び的に可愛がったのだ。
 だから孫におもちゃをあたえるとき、まったく同じものを好みを考えずに均等に与えようとするのだ。母は一人一人、欲しいものが違うのだといっても、祖母は耳を貸さなかった。
 それを横で見ていた小学生の私は一種のカルチャーショックを受けた。

 (私が欲しかったのは当時集めていたトミカの特殊警察車両だった。それと買ってくれた祖母はまったく同じものを実家の男の子のおみやげにしようとしたのだ。ミニカーを集めていてコレクションの穴を埋めるためにだけで私が欲しかったおもちゃだから、その趣味のないいとこには、なぜこれがおみやげなのか理解できるわけがない。それを母は祖母にいっても、ムダであった。)

 なるほど、伝統的農村では、差異は許されないのだ。なぜそうなるのか。
 全員が同じ嗜好をもち、同じ事を同じときにやる。等しい財産を持ち、等しい能力をもち、言い換えれば脱落を許さない平等強制差別社会なのだ。そうでなければ侮蔑の対象となる。

 結局、それは現在もあらゆる日本の組織の隅々にながれる「嗜好」の原型なのであって、自分で自分と他者の可能性を閉じることにより、心の平安を得ようとするものなのだ。

 そうでない者がいたら、猛烈な嫉妬をもって、足を引っ張らねばならないのだ。ということである。これは平和であればいいが、マイナスにはたらくと村八分の温床となる。

 建前上は組織内の平等と、所属集団に対する滅私忠誠なのだが、それに反すれば、組織内部の私的制裁、粛清であり、精神・信仰の自由の否定、つまり相互監視の相互奴隷拘束である。
 過激派のウチゲバ、マフィアの死の掟と同様です。醜い生き方です。

 なぜそうなるのか。繰り返し問いたい。
 情報が不足していれば、それなりにやるしかない。

 平和であり生産的である結果がどうしても必要なのだから、そのためには「なんでも犠牲にする」というのが、情報不足の日本的弊害になるだろう。

 問題は、このときできてしまった体制は、後から外部から的確な情報なり知識なりがはいってきても、目もくれず、自らは無知に安住して自己肯定してしまうことでしょう。

 理論的に勝てないのがわかっているのでかえって知識を軽蔑して自己絶対の巌のごとき蒙昧に変化する。これはいうまでもなく退廃である。

 そして劣等感の裏返しの根拠なき軽薄と、野卑で自尊心のない、恐怖の農村監獄を、作ってしまう。

 農村作家と自称する方々の中に、このような「ケケケ」と笑って都会をあざわらう人がいることを私は知っている。それではダメだろうに。なんでそうなんだよ。である。

 都会がダメなのは私は大いに主張したいが、農村で、大地に立って知的に働く有能者が、「ケケケ」ではもっと困るのである。

 私がスローライフを否定するのは、

 ハンドメイド労働に時間をかけすぎ、情報が遮断されすぎれば、結局、知的能力を失い、頑迷の泥沼に沈み込み、本来の力を失って、都会との力の差が開きすぎて、やがて、無力な略奪対象者となって、搾取の対象・奴隷にされるしかないということなのだ。

 農村が強くなり、都会を従わせて指導する立場にならねばならないのだ。
 情報は都会も農村も同一速度で得られることが、都会を解消して持続可能な文明を築く重要な要素になると、私は思う。

 農村はあらゆる意味で、古い農民の卑屈さ、軽薄さを否定し、知的に退廃せずに最先端を自己のものとして消化しつつ、適切に選択して生きねばならない。

 化石燃料を使って土地を耕し、化学肥料をつくり、生産物を遠隔地に送って有機物質の循環を断ち切ったのは、ある意味、農民自身なのだ。

 外部から、いかがわしい滅びの道をすすめられても、自分で考えて、理論的に反論できず、無知によって落ち込んだ目先の貧困から目先の利益を求めざるを得なかったから、現代の農業は劣化して持続不可能になりました。

 古代からの農耕による土壌劣化、地力低下、侵食による農地崩壊と文明崩壊の繰り返しも、突き詰めれば、農業実行者が手を下した結果なのです。

 これは普遍的人類の課題でもありましょうし、日本の民族的欠陥の多くをしめるともいえます。

 なぜ問題になるかというと、つまるところは、「賢く判断して、賢く行動できる道筋が見えているのに、なぜ、愚かな選択をして不幸を呼び寄せてしまうか」ということです。

 負ける判った戦争をして、満州の海外移民を人間のたてにして放棄するとか、本土の諸都市を焼き払わせるとか、あるいは村倫理にしたがって、原発を推進して落とし穴にはまるとか、借金まみれになるとか、などは、愚行です。でもやってしまう。村の論理で村八分をやらかして不幸な人生を作るのと、同じあやまちでしょう。


2016/03/31 T.Sakurai


不起耕の衝撃




 「農夫の愚行」(エドワード・フォークナー1943)という本があります。参照「土の文明史」P279

 そこには「耕起ーー農業でもっとも基本的な行為と長く考えられてきたことーーは逆効果であると主張した」とあるそうです。耕すことは土壌のミミズなどの小動物を殺し、生態系を弱体化させて地力の低下と、土壌の侵食を促進させ、長期的な農業の衰退をもたらすと言うものです。

 日本でも同じ趣旨の主張をする方々がおり、その一人、岩澤信夫は、2010年に
田んぼを耕さなければおコメはできないーほとんどの人がそう信じています。しかし、私は耕さない田んぼで、肥料も農薬も使わずにおコメを作る方法を、20年かけて考え出しました。この「不耕起栽培」をやっている農家は、経済的にもうまくいっています。」
 と語っています。

 「不耕起栽培」は、肥料や農薬、トラクター代や燃料費がかからないので、利益が出ますが、標準的栽培では、上記の経費が現金で流失し、価格も叩かれるので人件費をタダとして計算し、補助金をもらってようやくトントンなのだそうです。
 つまり、事実上の大赤字で、環境的にも持続不可能で不合理極まりない愚行である。という、奇妙な現実を紹介しています。

 まさか。です。
 これが本当なら、農業技術とはいったいなんであったのか。

 農業は、もともと持続可能でなければ意味はありません。それを不可能になったからメソポタミアも古代ギリシャもローマもマヤ文明も、黄河文明領域も、衰退しました。

 衰退の原因は、短期的利益の追求であり、人口の増大による不適切農法の導入による環境破壊なのです。

 略奪と奴隷化が、人間を愚行に追い込み、不幸にした。と私は思います。
 でも、あたりまえではないですか。
 愚行が、人を幸福にするはずはないのですから。


 幸いなことに「土の文明史」P290にこのような報告があります。
「1960年代にはアメリカの耕地はほとんどすべて耕起されていた(中略)保全耕転と不耕起技術は、1991年にはカナダの農場の33パーセント(中略)2001年には60パーセントにまでなった。同じ時期、アメリカでは(中略)保全耕転が25パーセントから33パーセント以上に、18パーセントが不耕起栽培(中略)2004年までに、保全耕転は(中略)41パーセントで実施され、不耕起農法は23パーセントで使用されていた。」だそうです。


 もっとも、さらに問題のある愚行についてなのですが、・・大規模農法です。
 トラクターを使った大規模農法は、大消費地に単一作物を送り出すため、物質循環は不可能であり、化学肥料・・つまり限りあるリン鉱石と化石燃料に依存するしかないということです。
 そして化学肥料の連続投入により、地力は確実に低下します。

 さらに大型機械を動かす効率をあげるためには、防風林を極力排除して耕作されます。そんな土地は土壌の侵食をまねき、いずれは表土を失い不毛の地となるのが、これまでの破滅してきた農業の典型なのだそうです。

 つまり、大規模農法は土地を破壊する行為であり、子孫に飢餓を約束する愚行だとしたら・・なんと救いようがないのでしょう。

 しかしながら、人道的に永続できない社会体制は、廃墟と不幸の生産装置です。
 肯定できません。解決せねばなりません。


2016/04/13 T.Sakurai 抗がん剤治療で入院。吐き気に耐えながら。