カーボンストールから戻るべき世界
自然のなかにあって、生き物は、自然の一部であり従属物です。 農耕文明を手に入れて、環境を変化させた時点で、人間は自然の一部とは言えなくなりました。 自然に倫理はありません。生きるか死ぬかです。魚が産み落とす数十万の卵のひとつひとつに生きる権利があるとはいえません。 しかし、人間はその時代を通過することができました。野生時代は終わった。はずです。 人間は、人間としての能力を獲得しました。 では、人間は生物的な知的動物以上の、人間らしく生きる人間になれたのだろうか。 都市・帝国の出現は、それをさまたげた。と、私は思います。 仮に考えても、15世紀の技術水準でも、ピラミッド型の人口構成でなくすることは可能だった。 必要以上に家族を増やさず、備蓄をつみまし、分配を完全に平等にし、各人から能力に応じ、各人に必要に応じて! を実施し、相互闘争などへの労力を徹底して使わなければ、どのような世界がレイアウトできるだろうか。 それは人間らしい世界になるような気がする。 その世界は、太陽電池パネルはないし、抗生物質もないし、ITによる知識のリアルタイムアクセスもないだろうが、新知性の登場以後の人間の生活と比べて、どのくらいの 「有意な差」というものがあるだろうか。 2016/03/02 退院できず、やむなく病院のロビーで祝った愛娘7歳の誕生日の夜に 人間はいつ人間になったか。 人間はいつ人間と呼べる存在になったのだろう。 いくつものレベルがあるだろう。 そのときどきにおいて、必要な技術があるでありましょう。 いろいろと考えて見ましょう。 すべての人が、人間らしく、生きることが可能となったとき。衣食住が安定したとき。 理論上のリスクに対しても対応が完了されたと思われたとき。 生活環境が人間界・自然界どちらも平常状態で安定化したとき 中絶が否定されたとき、 男女が同権となり、奴隷を否定したとき。 知識が集積され、相互関連が成立して、発展させられるとき。 安定した経済基盤(食糧事情)が確立され、将来への展望が見渡せるとき。 人肉食が否定されたとき、殺人が否定されたとき。 共同作業が確立し、分配が正義とされたとき。 最終段階に移行していくさいに、途中必要でもやがて不必要になる技術は多くあることでしょう。 どのようなエネルギーに将来依存していくか、見通せるわけもありませんが、持続可能で高出力で地産地消・地域メンテナンスが可能なエネルギーは太陽電気パネルと地中熱が主力となると思われます。 この場合、化石燃料使用時代に有用な技術として確立した 「大規模電力」「高速 ・大型の人的物的輸送手段」「大規模都市」「高層建築」「核技術」などは、放棄されるのではないでしょうか。 やがて捨て去る技術は、開発する必要はないのかもしれません。 化石燃料時代は、あきらかに過渡期の時代で、この時代のダメージを最小限にして、次の時代へよりよく移行するのが最善とわかるが、現状は見通しは暗いシナリオのほうが可能性が高いです。 環境の悪化にともなう、農産物の減収、グローバル輸出入の崩壊、都市生活環境の悪化、地域社会の全面崩壊、人口の急激な減少といった、破局シナリオがありうると予想したのが、メドウズらの 「成長の限界 」の主張でありましょう。 人間がいつ人間になったか、それについては、私の意見として、 平等がなければ、協力はありえません。 階級社会においても、その階級の中での許容できる格差はあるものの、協力・団結が成立していた。 だから、私は、男女同権が明確に語られ、機能したとき、つまり「ナザレのイエス」の主張がなされて、それが共同体の倫理として、さらにこの世のすみずみにひろげよと宣言された福音書の時代に、人間が人間として、存在をはじめたと仮定する立場をとりたい。 いわば象徴的な「人間の誕生日はクリスマス」とする立場です。 たとえ、これが全面的に開花するのが、たとえ千数百年後のことであったとしてもです。 男尊女卑社会は、農耕文化の落とし穴にはまったた袋小路の思想であり、そのときどきの状況にあわせたご都合思想として、正当化されていては、いかに平和で実質女性の権利が強かろうとも、 「正当な社会」と個人的には呼びたくはない。 しかし、これにも大きな落とし穴があるでしょう。 「人間らしい人間」が過渡期にすぎないものだ。としたらどうでしょう。 先天的に改造された 「奴隷にしか行動できない人間」がつくられたとき。 あるいは「シリコンインテリジェンス」に移行して、男女の区別がなくなった、機械生物になったとしたら、上記の主張は無意味になるでしょう。 私としては、その進路を選択したくないのですが、選択する方もいることでしょう。 恐ろしいことですが、未来はわかりません。 さらに、「人間の誕生」が、成功していたとしても、帝国やカーボンストームや略奪によって得られた技術 ・知識を獲得できないままだったでしょう。 この場合、現状よりは穏やかだとしても、やっぱり人間は自然をくいつぶして、やはり破局の道をたどったかもしれません。 たとえどんな知識であろうとも、ないよりはあったほうが選択肢、思考の深さが得られることは間違いないので有益なのです。(過ちさえ回避できれば) 将来産まれるであろう、新知性も、この帝国主義とカーボンストーム時代がなければ、産まれることはけっしてなかったでしょう。 それが正しいかどうかは別にして、人類の歴史は、血みどろな上に、地獄の業火に焼かれて、新しい地平にたたされました。 すでにおきてしまい、これからおきることも、ある程度確かになってしまいました。 それが、あるべきだった、であるかは、もはや問えません。 しかし得られた成果を無視することは、膨大な犠牲を無駄にすることでありましょう。 有効にカーボンストーム時代の知識を熟成させ、活用して、子々孫々の平和と愛に役立てねばなりません。 われわれは、いろいろなライフスタイルから、自ら選び、自らを再度形成しなければならない。 想定できるイデアとしてとらえられるどれを選ぶか。どのイデアを我々の姿として選択するか、知識と、思想と、設計と、裏付けの経営によって担保し、実現するのです。 動物としての人間の行動体系(二つの原倫理)はサブシステムに引っ込んでもらわねばならない。なんとしてもです。 都市に集まって、周辺からの略奪を続けるか、またはスパルタのような軍隊アリの社会になるか、それとも一人一人が子々孫々人間らしく生きていける担保を物的にも精神的にももって維持できる生活を選択するか。である。 現代文明を支える技術はどれを残して、どれを否定するかの作業にかかりましょう。 2016/02/27 T.Sakurai 各人から能力に応じ、各人に必要に応じて!
継続して、トータルでこれを実現できる 「物資」と「エネルギー」がまず確保されていなければならない。 次に、能力のある(意欲・情熱・誠実・経験・知性)のある人間は限られており、その人間に 「統治・管理」をまかせなければならないが、報酬をどうするかである。 名誉職で、統治者に充分な生存のための原資がすでにあるなら、無報酬でなければなるまい。必要のない富は、結局、格差・富の偏在を生じさせ、必要に応じての意味が失われる。 つまり報酬ナシの能力発揮者は人格者で尊敬されることが報酬にならねばなるまい。 しかも、これはその人の能力がある限りであるため、期限付きである。 (しかしおもしろい可能性もある。統治を人工知能にまかせる可能性があるのだ。計量、データのルーチン的分析とマニュアル的対処は、人間より機械に任せた方が適切なのだ。統治の臨時代行者は機械の分析・判断を確認して人間として承認すればいいだけになるかもしれないのだ。) 2016/2メモより T.Sakurai |