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カーボンストールから戻るべき世界


「Take」と「Trade」は、人間の桎梏である。
いまのところは・・



 生物の「存在しなければならない」という強迫観念は、遺伝子のプログラムによって無限ループが設定されていることで生じています。
 だが、無限ループは、コンピュータープログラムにおいては、「バグ」・・欠陥として扱われます。

 それに、DNAというプログラムは、生物が自立的に作動させたり、停止させたり、修正することは・・・できないのです。

 また、「C値のパラドックス」という、現象があります。
 これは、進化の階段を高く上ってより複雑であるはずの動物(たとえば哺乳類)よりも、形態的に原始的なはずの生物(たとえば魚類)で、はるかに多くの量のDNAをもっている場合があることを示します。

 魚から両生類に向かい始めた段階で進化を停めた「ハイギョ」は、人間の数十倍のDNAを持っています。間違いなく、このDNAのほとんどは意味のないジャンクなのですが、人間にしたところで、ジャンクとしかいえないDNAは多量にもっており、それを細胞分裂のさいに、無駄な部分もふくめてコピーを繰り返しているのです。

 そして、進化といっても、多様性でいえば、古い時代のほうがより豊富なのであって、カンブリア−古生代−中生代−新生代と、億年単位での時間がたつにつれ、生物の多様性・可能性は失われており、また不要なDNAの蓄積が進んでいるのです。
 いわば、DNAシステムは、緩慢な破滅の道をたどっていると、推定できるのです。

 DNAシステムは、完成されたものでも、完全に近づいているのでもありません。「とりあえず」動いている、つぎはぎだらけで、鈍重で、先行き暗い、暴走ポンコツ車なのです。

 人間の知性はそれを認識できる地点に到達できました。
 これまで人間をふくむ、あらゆる生物は、「利己的」で、ごく短絡的に直接的に、バグを含んだ欠陥プログラムの命令のままに、「とりあえずの生存」に都合のよさを最優先して動いてきました。

 しかし、人間は、自分を生かしている背後のシステムに気がつき、それの長所、短所を検討して、理性によって、DNAの利己的暴走を、制御できる方法を手にいれました。

 私たちは、何をすべきか。
 戦い、略奪し、嘘をつき、その場限りのことだけを考え、とにかく目についたものを独占すべきでしょうか。
 これらの、DNAの単純な命令に従うなら、「人間らしい」という形容詞は自称してはならないでしょう。


 そして、ジェイコブズにより、「自己存続」+「子孫継続」+「知性の道具化」という、3つの条件によって、人間をDNA的に「とりあえず動かす」二つの倫理 が明らかになりました。

 この二つの源人間機能用倫理は、むしろ二つの落とし穴といったほうがよいかもしれません。


 人間が自然の一部として生きようとするなら、当然用意されていている倫理です。
 しかし、これは知的に充分な検討を加えられない自然発生原始倫理であり、「知性」の成果によるものではありません。

 この二つの倫理においては、知性は、DNAの道具・奴隷として扱われているのです。
 充分に考えれば、回避してしかるべき落とし穴と思うのです。
 いつまでも「闇夜の無灯火暴走」を続けてもつまらんではないですか?

 では、ジェイコブズの二つの倫理はどう、克服するべきでしょう。
 例として下記の二つをあげておきます。


 モーセは指導者だが、王にはならなかった。
 絶対者との契約を前提として、各人が同じ内容の契約を個別に絶対者と契約することで、万人が尊厳ある平等で対等な立場となった。そして、均等に集団内で、必要なものをうけとる前提を作り上げた。つまり、Takeしなかった。


 イエスは、能力に応じて獲得したものを、無償でわけあたえた。
 そしてこれも万人を隣人とすることで、万人が万人にわかちあたえることで、公正で必要な交換を示唆した。つまりTradeしなかった。


 この二つは、おそらく「人間が人間らしく生きるために生まれた契機」に該当する。と考えるべきかもしれません。すばらしいことです。

 もちろん、それ以外の文化・宗教において、同じ結論に到達した「教義」「個人」は多数あります。

 それらの先に、

 「各人から能力に応じ、各人に必要に応じて!」

 
が本当に実現する未来が、ありうる。と、私は考えたいです。
 (これまで、上記の太字スローガンは現実的大人の事情の実行者から青臭い世迷い言と扱われて、バカの証明と思われておりました。そう、本当の理想を語るとき、そいつは抹殺しなければならないのです)


2016/03/03  2016/3/26改稿 T.Sakurai



たぶん最後になる娘の誕生日に思ったこと




 人間は嵐に翻弄される木の葉のようなものでありました。あらゆる生きとし生けるものがそうであるように。人間も生物として平等だったのです。

 自然のなかにあって、生き物は、自然の一部であり従属物です。

 農耕文明を手に入れて、環境を変化させた時点で、人間は自然の一部とは言えなくなりました。
 もはや自然の所有物ではなく、自立意志をもって自らの運命を自ら決めることができるようになったことは、間違いありません。

 自然に倫理はありません。生きるか死ぬかです。魚が産み落とす数十万の卵のひとつひとつに生きる権利があるとはいえません。
 生きるものは生き残る。圧倒的大多数は死ぬ。それしかない。とんでもないわずかな生と圧倒的な死のなかで、運命などありません。守らねばならない精神上のおきてなどない。あるはずありません。

 しかし、人間はその時代を通過することができました。野生時代は終わった。はずです。

 人間は、人間としての能力を獲得しました。

 では、人間は生物的な知的動物以上の、人間らしく生きる人間になれたのだろうか。

 都市・帝国の出現は、それをさまたげた。と、私は思います。

 野生の衝動をもった、不必要な攻撃性は、同族への攻撃と支配に使われて、人間性の否定につながりました。
 少なくとも可能性としての人間らしく生きる人間の尊厳を、否定してしまったのではないでしょうか。

 仮に考えても、15世紀の技術水準でも、ピラミッド型の人口構成でなくすることは可能だった。

 必要以上に家族を増やさず、備蓄をつみまし、分配を完全に平等にし、各人から能力に応じ、各人に必要に応じて! を実施し、相互闘争などへの労力を徹底して使わなければ、どのような世界がレイアウトできるだろうか。

 それは人間らしい世界になるような気がする。

 その世界は、太陽電池パネルはないし、抗生物質もないし、ITによる知識のリアルタイムアクセスもないだろうが、新知性の登場以後の人間の生活と比べて、どのくらいの「有意な差」というものがあるだろうか。

 その「差」は、カーボンストーム時代の罪悪を免罪するほどたいしたものであるだろうか。そうは私は思っていない。



2016/03/02  退院できず、やむなく病院のロビーで祝った愛娘7歳の誕生日の夜に
 イエスよあなたはまことの賢者で救世主である。ほどなく父を失う幼子に導きがありますように。


  人間はいつ人間になったか。
when_was_man_a_man


モーセが自由へ道をひらき、イエスが言葉となったとき、人は精神的に生まれた
クリスマスは、新しい人類・新しい世界の誕生日です
T.Sakurai仮説



 人間はいつ人間と呼べる存在になったのだろう。
 知的存在として、自らを永続的に維持して、自らの環境を知的と呼べる状態にできたといえるだろうか。


 いくつものレベルがあるだろう。

 そのときどきにおいて、必要な技術があるでありましょう。

 いろいろと考えて見ましょう。

 すべての人が、人間らしく、生きることが可能となったとき。衣食住が安定したとき。

 理論上のリスクに対しても対応が完了されたと思われたとき。

 生活環境が人間界・自然界どちらも平常状態で安定化したとき
 (膨張も縮小も劣化もない)

 中絶が否定されたとき、

 男女が同権となり、奴隷を否定したとき。

 知識が集積され、相互関連が成立して、発展させられるとき。

 安定した経済基盤(食糧事情)が確立され、将来への展望が見渡せるとき。

 人肉食が否定されたとき、殺人が否定されたとき。

 共同作業が確立し、分配が正義とされたとき。



 最終段階に移行していくさいに、途中必要でもやがて不必要になる技術は多くあることでしょう。

 どのようなエネルギーに将来依存していくか、見通せるわけもありませんが、持続可能で高出力で地産地消・地域メンテナンスが可能なエネルギーは太陽電気パネルと地中熱が主力となると思われます。

 この場合、化石燃料使用時代に有用な技術として確立した「大規模電力」「高速・大型の人的物的輸送手段」「大規模都市」「高層建築」「核技術」などは、放棄されるのではないでしょうか。

 やがて捨て去る技術は、開発する必要はないのかもしれません。

 化石燃料時代は、あきらかに過渡期の時代で、この時代のダメージを最小限にして、次の時代へよりよく移行するのが最善とわかるが、現状は見通しは暗いシナリオのほうが可能性が高いです。

 環境の悪化にともなう、農産物の減収、グローバル輸出入の崩壊、都市生活環境の悪化、地域社会の全面崩壊、人口の急激な減少といった、破局シナリオがありうると予想したのが、メドウズらの「成長の限界」の主張でありましょう。

 人間がいつ人間になったか、それについては、私の意見として、

「生活環境を安定化できる技術(農耕)が確立し、それに依存して男女同権の意識が芽生えたとき」

 としたいです。

 平等がなければ、協力はありえません。

 階級社会においても、その階級の中での許容できる格差はあるものの、協力・団結が成立していた。
 各階級内で、協力・団結がなされていれば、人間社会として機能するが、機能するだけでは、人間が人間を奴隷にして、奴隷にされているだけでもできる。

 だから、私は、男女同権が明確に語られ、機能したとき、つまり「ナザレのイエス」の主張がなされて、それが共同体の倫理として、さらにこの世のすみずみにひろげよと宣言された福音書の時代に、人間が人間として、存在をはじめたと仮定する立場をとりたい。

 いわば象徴的な「人間の誕生日はクリスマス」とする立場です。

 たとえ、これが全面的に開花するのが、たとえ千数百年後のことであったとしてもです。

 男尊女卑社会は、農耕文化の落とし穴にはまったた袋小路の思想であり、そのときどきの状況にあわせたご都合思想として、正当化されていては、いかに平和で実質女性の権利が強かろうとも、「正当な社会」と個人的には呼びたくはない。


 しかし、これにも大きな落とし穴があるでしょう。

 「人間らしい人間」が過渡期にすぎないものだ。としたらどうでしょう。

 先天的に改造された「奴隷にしか行動できない人間」がつくられたとき。

 あるいは「シリコンインテリジェンス」に移行して、男女の区別がなくなった、機械生物になったとしたら、上記の主張は無意味になるでしょう。

 私としては、その進路を選択したくないのですが、選択する方もいることでしょう。

 恐ろしいことですが、未来はわかりません。


  また、人間の誕生日は、帝国の時代をとどまらせることに、今まで成功してきません。
 それ以前に農耕によって成立した思想・行動様式によって、人が人を圧倒的全面支配する体制が作られて、無意味に闘争が繰り返されました。

 情報の交流も十分でなく、優れた断片思想が生まれても、くみあわされず、正確に伝えられず、歪曲され、成熟に時間がかかりました。

 さらに、「人間の誕生」が、成功していたとしても、帝国やカーボンストームや略奪によって得られた技術・知識を獲得できないままだったでしょう。

 この場合、現状よりは穏やかだとしても、やっぱり人間は自然をくいつぶして、やはり破局の道をたどったかもしれません。

 たとえどんな知識であろうとも、ないよりはあったほうが選択肢、思考の深さが得られることは間違いないので有益なのです。(過ちさえ回避できれば)

 将来産まれるであろう、新知性も、この帝国主義とカーボンストーム時代がなければ、産まれることはけっしてなかったでしょう。

 それが正しいかどうかは別にして、人類の歴史は、血みどろな上に、地獄の業火に焼かれて、新しい地平にたたされました。

 すでにおきてしまい、これからおきることも、ある程度確かになってしまいました。

 それが、あるべきだった、であるかは、もはや問えません。

 しかし得られた成果を無視することは、膨大な犠牲を無駄にすることでありましょう。

 有効にカーボンストーム時代の知識を熟成させ、活用して、子々孫々の平和と愛に役立てねばなりません。

 これまでは余りに、人間としての行動体系の方が非力でありました。
 しかし、本来の姿にもどすチャンスがきたともいえる。カーボンストーム時代はよきにつけあしきにつけそれまでの常識を壮大にリセットできたのです。

 われわれは、いろいろなライフスタイルから、自ら選び、自らを再度形成しなければならない。

 想定できるイデアとしてとらえられるどれを選ぶか。どのイデアを我々の姿として選択するか、知識と、思想と、設計と、裏付けの経営によって担保し、実現するのです。

 動物としての人間の行動体系(二つの原倫理)はサブシステムに引っ込んでもらわねばならない。なんとしてもです。

 都市に集まって、周辺からの略奪を続けるか、またはスパルタのような軍隊アリの社会になるか、それとも一人一人が子々孫々人間らしく生きていける担保を物的にも精神的にももって維持できる生活を選択するか。である。


 すでき起きてしまった歴史も、未来の道筋も、どのようなものがよかったか、どのようにあるべきは、どちらも考えることが多すぎて、とうてい私には結論にたどりつくことはできません。

 ただ私に最低限やりたいこと、私の家族と子孫が、これからの難局をどうのりきるかを考えることです。

 現代文明を支える技術はどれを残して、どれを否定するかの作業にかかりましょう。

2016/02/27 T.Sakurai


 各人から能力に応じ、各人に必要に応じて! 



 これが実現できれば、問題はない。では何で阻害されるのか。
 原資がまずなければ、絵に描いたもちであろう。

 一瞬だけ無理に実現できても意味はなかろう。

 一部の人間だけがこの状態に安定できることも同様だ。

 継続して、トータルでこれを実現できる「物資」と「エネルギー」がまず確保されていなければならない。

 次に、能力のある(意欲・情熱・誠実・経験・知性)のある人間は限られており、その人間に「統治・管理」をまかせなければならないが、報酬をどうするかである。

 名誉職で、統治者に充分な生存のための原資がすでにあるなら、無報酬でなければなるまい。必要のない富は、結局、格差・富の偏在を生じさせ、必要に応じての意味が失われる。

 つまり報酬ナシの能力発揮者は人格者で尊敬されることが報酬にならねばなるまい。

 しかも、これはその人の能力がある限りであるため、期限付きである。
 永久統治や世襲はありえない。

(しかしおもしろい可能性もある。統治を人工知能にまかせる可能性があるのだ。計量、データのルーチン的分析とマニュアル的対処は、人間より機械に任せた方が適切なのだ。統治の臨時代行者は機械の分析・判断を確認して人間として承認すればいいだけになるかもしれないのだ。)


2016/2メモより  T.Sakurai