ワーキング・プアについて
働いても働いても貧乏のまま・・
Working poor
貧困の二つの原因
環境の破壊による生産力の低下
分配の不公平 支配のための過剰相続
生まれたばかりの赤ん坊に、「あなたは自由です・幸せになってください」と言って、寒空に素裸で放置したらどうなるでしょう。考えるまでもありません。
そのセリフを次の世代である「赤ん坊」に言う前に、現役世代はやるべきことがあります。
これは、すべての人は、生まれる前から慈しまれ、健康な体と知識と訓練を身に着けさせてもらい、成人として、社会の責任をになえる段階になって、初めてかけられるべき言葉です。
でも、成人年齢になっても、不幸にも心身に障害をもってしまったらどうなるでしょう。
自由はないのでしょうか? それはひどい。 そんなことはないでしょう?
また、次の世代を残せるだけの環境がなかったらどうでしょう。
これ以上に、人間を一生を不自由におしつぶす鉄鎖はないと、考えます。
あらゆる意味における、貧困による少子化がのしかかる現代日本がそれにあたるではありませんか?
子供を持つことが、現代の日本の都会でどれほど難しいことか・・。
本当に大変なんです。
ですから、すべての「貧困の否定」を行ないます。
食べるものなく、住むところなく、あらゆる欠乏により、次の世代を作れない人は、一人もあってはいけません。
そのための、対策を考えてみます。
依存しない (外部に支配されず、自立している)
原資をもつ (人材、資本、資材、消耗品の蓄積がある)
適切な経営がある (外部の環境の変化に対応できる。判断力がある)
複数のバックアップがある(質量両面で複数の生活基盤がある)
といったところでしょうか?
働けば働くほど、貧しくなる?
人間が受けとれるエネルギー総量に制限があるならば・・
それが効率よくカロリーに変換され、公平に分配されれば、あとは個人の自由。
であるはずです。
(基本的に受けとれるエネルギーは、太陽からふりそそぐ日々のエネルギーしかない。例外は地熱と原子力と化石燃料だが、これらのみに永続的に頼ることはできない)
機械との競争に人は負けます。古くはラッダイト運動、現在では単純工の消滅、将来においてはシンギュラリティによる2045年問題で、知的作業でも、やがて個人は機械化した組織に負けるのです。
そして、人の仕事はより低いものか、より高いものに二極分化して、中間層のサラリーマンが得ていたエネルギーと資源は機械に使われてしまう。
機械は自己増殖をまねいてしまうので、これをくいとめねば、人間は自分が使うはずだった余剰エネルギーを、機械の機械による機械のための生産のために、くいつぶされてしまうのである。
機械・あるいは、家畜でもいいです。
人間を上回る情報処理能力や、筋力をもった相手に人間の頭脳や肉体は負けます。
両手で鋤をもち腰を曲げて畑をたがやしても、馬に引かせる鋤にかないません。
現在はその相手が家畜から変化してエンジン付トラクターになり、コンピュータになっただけで、将来はさらに格差が広がります。
問題は、その馬を食べさせるために、人間の食料がなくなってしまうこと。
機械を作るために人間のためのエネルギーや時間を使われてしまうことです。
しかし、これはサラリーマンならあたりまえです。
サラリーが決まっているなら、それ以上の支出はひかえるしかないし、無駄な労力を使えば、生活が苦しくなるばかりです。
自転車操業で時間の切り売りを盲目的にしていれば、そんな状況が変化するはずないのです。
都市生活をする中産階級というのは、日本では、1960年代から50年しか存在できなかったようです。
一時的な化石燃料というボーナスを盛大に使って50年の夢を見たということである。
なぜ、地方は負けて衰退・消滅するか? してきたのか。
エネルギーの供給競争で都市に負けたからです。
環境の中で持続的に得られるささやかなエネルギーが、世界各地の外部から搾取されてきたエネルギーに表面的な価格でダンピングされて、圧倒されたのです。
これは、不公正な競争と、すべての環境の持続性の破壊という、二重の悪行にあたると考えています。
2013/8/2
老齢者だけの家庭が困窮するのはあたりまえで、それを 「社会福祉」の金だけで解決しようとすると、財政がもつはずはない。
また、仕事量は減り、仕事の方法や場所を変えることもできないのだから、需要の変動に対応もできないのは当たり前で、収入が増えるわけはない。
老老介護は、人道的にもともと問題外ではないか。
農家が食っていけない・・これほど語義矛盾もはなはだしい言葉は衝撃的ですらある。
人間は、土地さえあれば生きていける動物ではなかったか?
なぜこうなるのか。 農家はなぜ困窮するのか。
それに対する答えは、すでにこのサイト(本)に書いてあるつもりです。
ワーキングプアは、ようするに産業革命以前の状態に戻りつつあるという現象と私はとらえている。
経済の膨張が終わって、変化への期待がなくなるのです。
全体の格差は縮小しつつも、階級的に固定化し、永続する以前の世界への許しがたい後退です。
人間は弱く・醜く・愚かだから、パチンコするために乳児を車に放置するし、麻薬を作って売って使ってしまうし、老いた肉親を捨てたりする。
けっしてやってはならないはずのことをやってしまい、後悔して、失意のはてに消えていく。
過去の愚行も未来の愚行も数限りないのだ。
ツワイキンダーシステムとか、西洋では捨て子と孤児院の同様のシステムや、幼児へのアヘンチンキを与えて眠らせるとかの、おぞましい歴史・逃げ道のない悲惨な光景を、再現させてはならない。
弱きを助け、強きをくじく のは、英雄の仕事で、誇らしいはずなのに、なんと臆病な人間しかいないのであろうか。
家族は捨ててはならないものなのに などと言っても仕方ない。
なにしろ醜くて愚かで、真実の言葉から必死で逃げ回り、目をそらしつづけ、いけないとわかっている悪に逃げ込むのが我々なので、いつまでたっても始末におえない。おえなかった。
やがてGDPは意味のないものになります。
外部からのエネルギーが供給されなくなるのですから。
経済力とは、土地の受け取るエネルギーに比例したものになります。
単に面積・人口の大小の比率と、維持できる技術水準の差だけなのだから、経済力は評価の対象ではなくなる。
文化の充実度が、国際評価の基準となるだろうし、軍事力も大きく効果を減少させる。
少なくとも大陸間弾道弾などは都市が重要性を失った世界では、必要なく、使い道がなくなる。
戦略空軍や大艦隊はそもそも維持不可能だろう。軍事が、縮小することで平和を担保することが容易になるとしたら喜ばしいことだ。
一つの時代が終わることは、ある意味チャンスです。新たな社会を構築する機会がやってきます。
働いても働いても貧乏・プアであり続けるなら、労働には本質的価値がないことになるのですか?。
ならば、働いても働かなくても、平等に生活して、プアになることがない社会がその裏側にあるはずです。
平常経済の世界、永久に持続する社会は、格差のない社会、格差ができそうになっても格差を生じさせない 「安定装置」をそなえた社会であるべきです。
そこでは肉体労働は決定的な要素であってはならない社会です。
つまり、給与生活者(サラリーマン)の生活の本質である、自分の時間の比例的長さの切り売りによる、収入の格差も意味を失わねばなりません。
(給与生活の前提である、長い就学期間とその延長による、学歴とキャリアの形成も、事前の長時間労働ととらえられます)
また、戦争がなければ、飢餓や疾病の機会が減るだろうし、災害に対する耐久力があれば、凶作は脅威でなくなる。人口爆発は、知性にだけ頼って制御します。
そうすれば、より「平たい世界」になりうるでしょうし、それは望ましい変化となるでしょう。
結果として
食料には価値はない。誰もが必要な物をもっているから。
土地にも価値はない。必要以上に持ってはならないからだ。
交換してはならないものは、いくらでもある。
――ではないでしょうか?
金に換えてはならないものがある
あたりまえだが、金銭で置き換えできない精神的なものです。経済を越えたものです。
こう考えれば金銭と経済の適用範囲が明確になっていくでありましょう。
経済は欲望を暴走させ、全能感を妄想させ、闘争を誘引し、結局は誤った決断を引き起こしてきたのかもしれない。
経済の暴力は巨大な脅威なのだから、一人一人は脅威に対抗する手段を持たねばならないです。
素手で猛獣にたちむかってはならないように、経済に対して自分の個人の肉体や時間だけで立ち向かってはなりません。
ある程度の適切な資産と家と、定常的に受け取れる無償の(太陽)エネルギーを原資として自立して生きていくのです。
そうすれば、人間は、考古学的太古から束縛されてきた、ワーキング・プアの長い長い呪縛から、ようやく逃れられる道が見つかる。
・・のかもしれない。という淡い期待をわたしは持っています。
2014/09/05 T.Sakurai
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