前のページに戻る


千年に一度のブレイクスルー
breakthrough_of_energy



 太陽光発電技術は、土地から直接エネルギーを取り出せる画期的な技術であり、農耕の開始と同じインパクトを持つものとして後世に評価されるかもしれない。と考えています。

 植物によって、太陽エネルギーを利用することにより、人間は狩猟採集社会から農耕社会へとライフスタイルを決定的に組み替えた。

 しかし農耕技術の利用には、王と奴隷を含む貧富の差の発生・女性の地位低下・文化の袋小路が用意されていたのです。
 土地の生産力を維持できずに、一時的繁栄とゆるやかな衰退の歴史の発生が避けられなかった。

 常に都市は人口の再生産に成功せず、結果として余剰人員の処分場であった。
 生活の劣化(生存権・人権の劣化)は近年にいたるまで避けられなかった。

 これは、植物の自己再生産の余剰分しか使えるエネルギーがなかったためである。

 植物の余剰分を、人間や動物の生存にまわして、さらにその余剰分を人間の筋力に変換して農業に使用しなければない。

 だから、純粋に人間が利用できる余剰はさらにその残りのわずかであり、その利用先もやっぱり動物か人間の筋力で表現するしかなかった。

 しかも、人間は栄養の摂取量のすべてを利用できず、また利用したあとでも成分はけっきょくは排泄され、都会では無意味に廃棄されます。

 農村にあっては循環して再利用できた「栄養」と「水」が、遠隔地の都市によって永久に奪われ、リサイクルされずに搾取され続けたのである。

 その結果、農地の潜在的生産力は年月のうちに低下していき、それが都市への上納品質に影響を与え、負のスパイラルとなります。

 狩猟採集が大きな比重をしめていた縄文時代の平均身長は男性で158センチでしたが、江戸時代末期の平均身長は155センチだそうです。
 農耕文化を続けた最終局面で、農耕開始以前より栄養的に悪化していたのです。これは他の文明圏でもみられる傾向です。
(農耕以前のギリシャ・トルコの男性で178センチ、農耕開始以後で160センチだそうです)

 これは、炊事・暖房などのエネルギーを薪炭などのバイオ資源に頼る場合も同様です。
 森林は失われ、土壌は侵食され、やはり生産力が落ちていきます。
 同じ、袋小路にはまり込んでいくのです。

 最終的には、豊かだった森は、禿山だらけになり、洪水、砂害、砂漠化が進行し、荒地となります。
 やがて文明自体が、より未開発な場所の森林を求めて移動するか、滅亡し、その跡に前よりも貧弱な社会を再構成します。

 また、余剰を集めて社会として有効利用するには、権力(暴力をふくむ条件づけ合意)を必要とします。
 しかし、真の権力は、全構成員の合意の元に、自発的に守られなければなりません。
 暴力や報酬による利害による権力の維持は、長続きしません。

 つまり堅固な社会を作るには、貧富の差を社会の前提条件(思想)にして、あきらめさせなければなりません。
 貧富(身分)の差は、生み出されなければ、ならないのです。

 近代以前の農業には、人間を奴隷に落とし込む、負の連鎖が存在しました。
 土地の所有に、必ず小作・農奴・奴隷が発生したのは、どうにもならなかったからなのです。

 奴隷を避けるため(小作を避ける)ための、手工業への転向は、農地所有の完全放棄と市場への隷属を決定付けて、かえって農地の生存基盤としての絶対的所有権を奪うものです。

 広大な土地を所有しても個人では維持できません。
 必ず、他の労働力が必要ですが、分配は所有の有無で、公平ではありえなくなります。

 しかも、農業での労働力の必要性は、季節的に変動が大きく、最終的な効率(回転率、稼働率など)は、工業に比べれば圧倒的に低いのです。


 化石燃料による環境の外からのエネルギーの獲得は、この状況を一変させましたが、有限な地下資源というタイムリミットと、環境への負荷を与えるので、永続はできないものです。


 しかし、ここにきて、実に興味深い変化として、太陽光発電を取り上げたいと思います。

 太陽光発電は、植物の生育に関係ない部分の太陽エネルギーを取り出すことが可能です。
 これは、純粋なエネルギープラスであり、かつ初期投資以外にメンテナンスフリーで、追加労力を必要としません。(日々の手入れがほとんど必要ないのです)

 実際にパネルを手にして、発電システムを作ってみると、実に手間が要らずに、「電力」という高度なエネルギーが直接手に入ります。

 これまで農作物から、何段階にも変換してやっと手にいれていた動力を、まったくの別ルートから入手できることは、産業革命以前の負の構造を打開できる可能性が生まれた。ということではないでしょうか。

 現時点では、枯渇確実な化石燃料のエネルギーにモノをいわせて、力技で問題を覆い隠せるので、このことの重要性にスポットがあたりにくいのですが、化石燃料がなくなれば農業は産業革命以前に戻らねばなりません。

 化石燃料によって肥料を遠隔地から運んだり、合成したりして、地力の低下に対抗していたのも、できなくなるからです。

 できなくなれば、後退します。それが防止できる。防止できる可能性を初めて人間は手に入れたのかもしれません。


 これに気がつかないのは、農耕を始めたばかりの人間に、狩猟採集の方が安定していてすぐに獲物があるぞ。と見向きもしないようなものかもしれません。

 それでもたとえ無視されようとも、利用価値のなかった太陽の余剰エネルギーが使えるのは、画期的なことで、遅かれ早かれ、別の世界の姿が現れてくるでしょう。

 しかし、本音を言えば、この例外的に大きなブレイクスルーも、人間は、短期的に使い尽くしてしまうかもしれません。

 農業開始時も、公平な分配は物理的に可能でした。人口調整も可能でした。
 でも、されませんでした。

 我々は、間違った道を選んでしまい、袋小路に突き進んだ。ということです。

 現代においても、同じようなことがおきています。

 発展途上国での人口爆発の大きな要因のひとつは、「緑の革命」です。

 1960〜70年代に、背が低く、同一の耕地で倍の収穫が可能で、連作障害がなく病害虫に強いという画期的な小麦品種が開発されました。(もとの品種のひとつに江戸時代の日本の改良種がふくまれています)

 この新品種は、世界各地(インドなど)に導入され、飢餓の危機を回避しました。
 しかし、その成果は人口の増加でまさに、「くいつぶされ」ました。

 現在では、以前よりはるかに多くの人口となりました。
 その一方、多収穫ですが、多様性のない農産物と、大量に必要とする農薬・化学肥料の購入のため、現金を地域社会外に流出させる一方で、地力は低下し、汚染が拡大しました。

 農民は肥料・農薬のため、経済的に自立できなくなっています。つまり、以前より、ますます余裕のない状況になりました。

 人口が当時のままであれば、余剰作物の発生は生活水準の向上につながるはずだったのですが、もし各問題に限界がおとずれて、飢餓問題が今後発生すれば、過去の危機よりも規模が拡大することが緑の革命の結末かもしれません。なんとも希望がありません。

 太陽光発電も、このままでは、緑の革命と同様の、成果のくいつぶしも予想されます。
 別の道を、選択しなければならないのです。

2013/06/24 T.Sakurai (2016/1/23文章改変)



太陽と電力のあいだ・・




電力:1キロカロリーを作るのに、必要なのは・・
 

石炭:4キロカロリー

1
キロカロリーの発電に必要なもの
(蒸気タービン 送電設備を含めると,全体の効率は1/4となる
つまり石炭4キロカロリーと酸素が必要で、
さらに炭酸ガス排出と巨大設備必要となる)


木材8キロカロリー

4キロカロリーの石炭に必要なもの
(地中で8キロカロリー分の木材化石変化が必要。
(さらに、極めて長時間の埋没と圧縮が行われる)

木材8キロカロリー分の植物が生長するために必要なもの

(太陽光線8000キロカロリーと必要ミネラル)

 

*結論 
 電力1キロカロリーを発生させるために、8000倍の太陽エネルギーと大規模設備と、
 数十万年から数千万年の年月が必要。

 発電効率(変換効率)・・実に1/8000 → 0.0125パーセント なのです。

 一方・・
太陽光発電パネルによる発電効率 (市販の一般製品で10〜15%)

つまり化石燃料発電と比べて8001200倍効率がよい(^ ^;)


補足 

・石油・石炭・天然ガスなど化石燃料を電力に使用するのは、太陽エネルギーの利用方法としては、結果としてきわめて効率が悪い(浪費に近い)

・熱を電力に変換するのは効率が悪い。熱は熱として利用するのが望ましい。

・生物としての人間に必要なのは、口にするもの、体にふれるもの、すべて体温程度の温度である。
 燃焼による熱は、高すぎて、その大部分を結果として廃棄しなければ人間にとって利用できない。

・光合成の効率は高くない。受取るエネルギーの1%を変換できるだけである。そこから植物の体を作り上げるのにロスがあるので、さらに10分の1になってしまう。つまり太陽光発電パネルの効率より2桁低いのである。1/100である。

・化石燃料を利用するには設備・運送・維持にエネルギーを必要とする。
 太陽電池パネルの耐久性はまだ未知数だが、可能性は大きいと評価したい。


2013/10/25 T.Sakurai



太陽光発電の本質的意味




 太陽光発電に実際に接したことがある人ならわかるでしょうが、エネルギーの調達において、大変なことが起きました。

 たたみ一畳程度の20キロ弱のパネルを太陽に向けるだけで、約200ワットを発電します。

 直流電流で、十数ボルトですが、これを直列につなげば、高電圧が容易に得られます。
 個人でも設置可能な巨大なエネルギー源として考えると実用性の高さは驚くほどです。

 太陽の供給するエネルギーの十数パーセントを電気に変換してくれるのですが、原子力の熱から電気を生み出す発電効率が33パーセントであることを考えると、悪くはありません。
 温排水も、永久に毒性を失わなず誰も責任がとれない廃棄物も出ません。

 また、太陽光パネルのメーカー想定寿命は20年ですが、それ以上の耐久性を持っていると考えられます。

 実際中古パネル市場では劣化するのはプラスチックや金属部分であり、発電する部分は太陽光による劣化は少ないとされるようです。

 また、リサイクルの方法もありますので、ある程度の文明社会であれば、数百年単位で維持できるエネルギー源と私は考えます。

 いや、むしろなんとしても、維持していかなければならないエネルギー源です。


 大量の電力は巨大な設備が必要で、さらに自然環境をダムなどで大きく改変したり、化石燃料を燃焼させて生み出されるものでした。

 ダムは数十年で土砂が堆積して使用できなくなります.。
 化石燃料も(取り出すエネルギーより、取り出されるエネルギーの方が大きい)採算性のある埋蔵物ですから、使用できる期間に同じ制約があります。
 どちらも100年以内にエネルギー源としては枯渇するでしょう。
 千年を考えると使う意味はありません。

 そして、タービンを回す方式は共通しますので変換効率の壁があります。
 (火力50パーセント、水力は80パーセント)。
 伝送するときのロス、燃料を日々供給するロスもあります。
 そもそも熱は熱として利用するのが一番ですから、半分の熱源を失うことになる火力発電は効率が悪く、もともと電気とは高価なエネルギーなのです。

 いうまでもなく、エネルギーは文明=文化的な日々の生活を支える基盤です。エネルギーの不足は、貧困も飢餓も戦争も起こします。

 化石燃料の登場以前のエネルギー源は薪炭でしたが、人口の増加と生活の向上はすぐに森林を枯渇させ、江戸時代の日本、産業革命以前のヨーロッパ、近年までの中国などはいずれも禿山と荒野が広がるばかりでした。
 それを一時的に押しとどめ、生活水準を向上させたのはすべて化石燃料のおかげといってよいのですが、太古の植物の化石は無尽蔵ではなく、一度採掘すれば永久に使えません。

 解決策は、まったく新しい原理によるエネルギーか、地球以外からエネルギーを運んでこなければならないのですが、どうしても巨大技術になります。
 でも考えてみれば、人間の家庭生活に必要なのは、せいぜいが数百度のささやかな温度の熱源であれば充分です。

 巨大なプラントで高熱・高圧で膨大なエネルギーを作り、それを遠距離輸送し、小分けにして、薄めて、ヌルめてやっと人間の役に立つのでは中間ロスが大きすぎます。

 個人がエネルギーを確保して管理・自立するには複雑すぎます。原子力発電でコタツを暖めるのは笑えない冗談のような気もするのです。
 (原子力の発電効率が悪いのは発生する熱が多すぎて、捨てざるをえないからです)

 農業も、人力・家畜のエネルギーで対処すればいいとは、もはやだれも考えますまい。
 食料の生産・調達もエネルギーにかかっています。

 自己で管理できない以上、一人一人の生存はエネルギーが与えられるか奪われるかにかかっており、奪うものが存在したらそこには奴隷が存在し、不幸な人生が生まれることになります。

 長期の使用が可能なこと、また既存のエネルギーと競合しないこと、個人で管理できること、充分なエネルギーが得られることを考えると、太陽光発電の実用化は人間の歴史の輝かしい瞬間であり、私たちは大きな希望を目の当たりにしているのです。

 それをふまえて、これを個人個人の基礎資産とすることを提案します。

 幼児も高齢者も世界のすべての人に一人当たり太陽パネルにして2-3kwをけっして侵害されない基礎資産として確保し、そのエネルギーを実際に個々人が利用し、余剰分を販売して他の物資の交換にあてるのです。

 これだけでは充分ではありませんが最低限の生活・人権を現実的で具体的な「モノ」によって、確実な「期間」を担保・保障することが可能でしょう。

 エネルギーは人間だれもが使わなければなりません。
 生涯・子々孫々にわたってどのような事態となっても不足することがあってはならないのです。

 必需品のつまらぬ欠乏が、不幸な人生の原因となってはなりません。 

2015/11/25 T.Sakurai