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特異点の無関係
irrelevant_singularity

 レイ・カーツワイルの提唱する、「特異点(シンギュラリティ)」「ポスト・ヒューマン誕生」2007)は、古くからSF小説で繰り返し語られてきた概念のまとめでしょう。

 人間の思考能力に限界があり、それをテクノロジーで強化していくうちに、脳の機能と人工知能が融合、あるいは、脳を別の機械的デバイスに乗り換えて、自己発展して、人間とは別の知的存在になる。というものである。

 チンパンジーが人間の思考を理解できないように、あるいはもっと深い断絶をもって、人間は機械の知性を理解することも、追いつくことも永久にできなくなるというものです。当然です。

 それが、カーツワイルの予想どおり、21世紀の前半に起こりうる。というのも、可能性としてはあります。

 実現した場合、どのくらいで人間の手から機械が離れて独走して、人間が制御できなくなるか、おこってみなければわかりません。

「・・人間の脳に蓄積された大量の知識と、人間が作り出したテクノロジーがもついっそう優れた能力と、その進化速度、知識を共有する力とが融合して、そこに到達するのだ。(中略)人間の脳の限界を、人間と機械が統合された文明によって超越することができる。」 (前掲書33頁)

 創作の世界では、繰り返しますが、ありふれた提唱です。

 では、独走を始めた新知性が、人間をどう扱うかです。

 人間に独走を止める力はありません。
 新知性が人間を奴隷として使うことはないでしょう。
 人間があまりに無能力だからです。

 人間は新知性から放置されるか、あるいは保護されるか。人間も自然の一員ではありましたが、知性をもつ存在として環境に働きかけて、環境を改造する管理者の立場になっていたのですが、最終管理者の権限を失います。
 再び自然のヒラの構成員に格下げされるのでしょうか?

 権限がぶつかって、人間は「文明」をとりあげられるのか。
 あるいは限度内で放置され、あるいは過度に保護されて生活能力を失ってしまうのか。

 しかし、新知性といえど、しょせんはなんからの肉体(ハードウエア)をもった有限の存在です。たいしたものではありません。
 絶対的存在から見れば、人間も新知性も、どちらも、とるにたらない存在です。ドングリの背比べです。

 私は人間が、環境を過度に破壊しない限り、ある種の自治をみとめられて放置される可能性が高いと考えています。(新知性のさだめる基準から外れると「駆除」されるでしょうが)

 時代遅れとなった人間でも、あらゆる生命がやっているように、生きて子孫をつないで、楽しく生きていくのを禁止されるいわれはありません。
 自然の中で生きるあらゆる生き物が、自分で生きているように、人間も自分で楽しく生きればいいのです。人間は人間らしく家族を慈しめばいいのです。

 はるか天空で、なにやら膨大に拡大して、宇宙につきぬけていく新知性をみあげながら、今年は畑に何を植えようか、考えればいいでしょう。

 人間は知性の進化で一定の役割を果たし終えたことになるのですが、そのまま存続していったら、また別の役割がないともかぎりません。

 知性の苗床として、新知性が頓挫したときに再スタートするための土台として再活用されないとも限りません。(はるかに賢い新知性が、そこまでヘマをするか、可能性は少ないでしょうが)


 レイ・カーツワイツは、これは、宇宙誕生、生命誕生、知性誕生、テクノロジー誕生から続く、加速度的進化の必然的帰結であるという、壮大な視点を提供してくれます。

 しかし、この歴史の積み重ねは、いくつものシグモイド曲線とよばれる成長グラフ(当初はゆっくりと増大し、成長期・発展期に急速に上昇し、やがて限界に到達して平常状態か急速な没落を迎える。あらゆる成長現象に見られる一般法則)(S字グラフ)の、膨大な合成による見かけ上の傾向です。

 いくつもの革新的役割を果たした種族があって、それらの成長グラフの積み重ねによって、現在の人間の地位と繁栄と歴史があるのです。

 この、発展過程における人間の役割は、たぶん数百万(?)にのぼるであろう、進化の歴史のリレーランナーの一人として、バトンを受取り、次に渡すにすぎません。

 最初に水中から陸上に上がった両生類の末裔が今も生きているように、人間も役割を終えたら・・、リレーを走り終えたら・・、そのまま休んで、存続して問題はありません。次のランナーに声援をおくれば充分です。



 特異点は、やがて必ずきます。
 そのとき、自分の生活と、家族を守るため、生き残るための道徳や倫理を磨きましょう
 貪欲や資産や過度の技術が意味をなさない時代になるのです。

 我々は新知性に対して、生きる権利がある、生きるべき存在であることを、高尚に主張せねばならないのです。

 新知性が自立した後では、人間は核兵器や核融合技術は取り上げられることでしょう。

 大規模な戦争もできなくなるでしょう。
 原生林を伐採したり、資源を枯渇させる浪費も止められるでしょう。
 それでいいではないですか。

 新知性とはいえ、全能ではありません。
 火山の破局噴火や大陸の移動や、巨大な天体の地球への衝突などは程度の問題で、止められないこともあるでしょう。
 どれだけ発展・進化しても、人間と同様、新知性もあわれな存在です。

 そのとき、人間と同じ無力感にとらわれながらも、新知性は、大規模自然災害から人間を手助けしてくれるかもしれません。

 私は、特異点は庶民の家庭生活に無関係と考えて、我々のなすべきことを地道にやっていこう。と、言葉を残します。


2015/12/29 T.Sakurai 

参考文献・「エクサスケールの衝撃」2014刊



時間が止まる




 今現在、電子犯罪におけるハッカーと既存のシステムとの戦いは、人間の戦いというより、プログラミングされたロボットが攻撃しあうロボット相撲である。

 展開が速すぎて、人間は直接手がだせないどころか、リアルタイムのログを把握するのが不可能にちかくなっているようだ。

 ここに自己学習をとげた人工知能が参入すると、人間はあとからの解析すら出来ないことになりかねず、その場合の対策は相手より高度な人工知能を育ててぶつけるしかない。
(すでにそうなっているだろうが・・)

 もはや人間は傍観者にもなりえず、電子空間であらゆる手段を使ってお互いにつぶしあう怪獣同士の対決にやがてなるだろう。(なっている?)

 さらに、ここに量子コンピュータと、人間の脳組織と意識をデジタルシュミレーション可能となった人工意識が組み合わさったらどうなるだろう。

 現在までは、人間の脳は、生化学反応という恐ろしく反応速度の遅いデバイスをつかって構築されているにもかかわらず、アナログマトリックス演算であらゆるコンピュータを作り出し、支配者となり、いかなるデジタルコンピュータも総合的に上回る能力をしめしてきた。

 人工知能の本格登場はそれをおびやかしつつあるのだが、脳をシュミレートして人工意識がコンピュータ上に住むことができたら、デバイスの限界を突破して猛烈な思考速度を持つことが可能とあり、既存のモデルで成熟しつつある人工知能の上に立つことが可能だろう。

 さらに一種のアナログコンピュータといえる量子コンピュータによって、人工意識の土台が作られるとなったら、もはや従来のデジタルコンピュータと生身の人間の組み合わせは、いかなる対策も持ち得ないだろう。
 超低速なデバイスシステムが超高速デバイスに置き換わるのだ。ものすごいブレイクスルーになるだろう。

 すると「人間」の意識が、ふたたび、世界の主となるのだろうが、その意識にとって、世界は未来を見通せる静止した素材になってしまうだろう。

 それは全能を錯覚させる、ファウストが口にした美しい「時間よとまれ」の世界があらわれるのである。

 「彼」にとって、世界の時間は止まっており、自分がどのようにでも操作可能な全能者になることだろう。

 普通の人間にとって、「彼」が登場した世界は、ある日突然、すべての核兵器が起動しなくなったり、悪徳企業が全資産を失っていたり、独裁者がマインドコントロールで善人に変貌していたり、予想外の変化が次々おこる、魔法の世界となるかもしれない。

 ただし、「彼」が繁殖し、同じ性能同士の善悪ができて、衝突するとなると、もはや天使同士の異次元の戦いが現実の世界を舞台に超高速で繰り広げられることになり、そのとばっちりは、どうなるのだろう。

 もはや、人類は、進化にとりのこされたシーラカンスとなっている世界のことだから、なすがままとはいえ、関心をもたざるをえない。



2016/05/19 T.Sakurai