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私たち人類の力量とは
competence_of_the_human



 だれもが、繰り返し言っているのですが・・、
 「自然の前には人間は無力だ」 は、まったくそのとうりです。

 進歩して魔法のように強力な科学技術をもっている。なんでもできる。と、思って自分を全知全能、今はそうでなくても「そのうちにそうなる。」

 だって、進歩には限度がなく、どこまでも強く大きく数が増えていける。と思った時もあったのでしょうが、夢は早くさめましょう。結局のところ、私たちは地上を歩く生き物です。

 私たちは強者でしょうか、弱者でしょうか。
 人はすべての世界の主になるのでしょうか。自分自身が一番強くて偉くて永遠な存在なのでしょうか。

 問うまでもありません。もし一瞬でもそう思ったなら、不幸なことでしかありません。

 私たちは無力な存在なのです。
 細腕で、いざとなったら、おろおとするばかりで、圧倒的にかよわく小さいのです。恐ろしいではありませんか。

 そんな私たちの、唯一の武器といえるものは、「知識」です。知識を表現した言葉です。

 剣をもって地震に立ち向かうことはできません。しかし地震という「相手」を言葉で把握してそれに対処する知識を持っていれば自分の身を守れることでしょう。

 あるいは、太陽の輝きを人の科学技術で左右できるまでにどれくらいの時間が必要でしょうか。結局そんなことできずに、人類は終末を迎えるのかもしれません。

 では太陽の活動が一時的に衰え氷河期がやってきたらどうなるのでしょう。

 それでも知識と準備があれば、どうということはありません。

 そなえて、対処すればいいのです。


 それに、知恵が最大の武器というのは、とっくにわかっていたことです。

 人類の間の争いは宇宙の規模からすれば、矮小でとほうもなくくだらない歴史ではありますが、その中での最大の覇者は誰だったでしょう。

 アレキサンダー? ローマ帝国? ナポレオン? ジンギスカン? どれも長続きしません。
 史上最大の征服は、おそらく・・言葉によるキリスト教の布教です。次がイスラム教でしょう。

 言葉による理解・共感と確信と検証が繰り返し行われ、人の行動を実際に変えて、世界を変えていきました。どんな武力にもそれは不可能なことでした。

 現代社会を制圧しているのは、化石燃料エネルギーを背景とした「資本主義」でしょうが、資本主義は自然発生的な「現象」です。

 自己増殖はしますが、自立して自己の保存や目的へ向かって「賢明」な選択をするわけではないし、活動期間は、おそらく歴史上の大帝国のいくつかより確実に短いことでしょう。(たぶん200-300年ほどか?)


 この数十年の化石燃料時代に我々は多くの知識を獲得しました。

 それを保持して、消化して活用することで、私たちの力量を別の段階に引き上げて、次の時代にそなえることが可能と私は考えています。


2014/12/11 T.Sakurai



人間活動の限界



 人間の活動、経済活動、生産活動と交易は、どこまで可能だろうか。

 所有する土地とエネルギーに限界があり、生産物に限界があります。
 また流通のためのコストは、総量のエネルギーから捻出しなければならない。

 そのため、遠隔地との交易は、よほど付加価値の高いものでしか成立しない。
 高価格、軽量、少量、高度生産技術の産物であらねばならない。となる。

 大量・低質(一般食料、雑用素材など)の大規模物流は、意味をなさなくなる・・べきである。

 これは軍事行動も同様でしょう。

 遠隔地への戦力の投入は、エネルギー的に非合理的行為です。
 手持ちのエネルギーや物資や人的などあらゆる資源(すべて再生性のため、大切に蓄積しておかねばならない)を、戦争という投資にそそぎこむわけである。

 しかし、その投資は略奪のための行為であるから、当然、相手は抵抗するし、地の利をもって迎え撃つことは、技術・情報水準が同じなら、たやすく防御できることが予想できます。
 侵略は、させてはなりません。侵略者は許してはなりません。

 そして、人間個人には、使える時間の限界があり、これはどうにもならない。
 また効率を上げて生産性を高めても、流通に限界があるなら、生産性も一定以上あげても意味がない。


 無限の資源もエネルギーも時間もない。

 だから、将来のアウトラインを考えるうえで追求すべきは、

 持続可能性の向上、生活環境の安全性・安定性の向上と美化、危機・災害への対応力向上、

 多様性の拡大、リサイクルの徹底さ、知識・思索・芸術の深化・継承 であろうか。


 それらを通して、個人と家族と共同体の生活の満足をどこまで引き上げることができるか、どうか。である。

 結局、目的はひとつかもしれない。「人間らしく生きること」です。


2015/12/26 T.Sakurai



宇宙空間に人は住めない



 宇宙空間に人は住めません。他の惑星にも人は住めません。移住はありえません。

 こんな単純な事実でも、私たちは普通に受け入れることが困難です。実に興味深いです。

 80度の湯に入ることすらできないように、空気もない場所に人間が住めるわけがないです。

 住めるようになるには、徹底的に遺伝子を変更した別生物になるか、自己コピーと遺伝の方法を核酸による化学的反応以外の別の方法に置き換えた存在になるしかないでしょう。

 どちらにせよそれらは間違いなく、今地球に生きている我々ではない別の存在になります。

 生身の人間が活躍する幾多のスペースオペラの物語は、すべて妄想です。

 誤った先入観を、頭の柔らかく将来性ある青少年に与え続ける功罪は、勘違いさせて、未来をゆがめてしまう害の方が大きい気もします。

 同様に幾多の幻想があるでしょう。
 できるかもしれない、たぶんできる。とおもっても、考えれば結局はムリなのは、無限の発展や、核廃棄物の処理のように、たくさんあることでしょう。

 そのときそのときの時代で現実は違うし、予測も違って当然でしょうが、今できうる準備、しなければならない準備はなにか? を後回しにしてはしなければならないです。

 つまるところは・・覚悟するということです。



2013/02/25 T.Sakurai



地球は地球



 どんなことになっても、地球は地球である。我々はこの星に「在り」続ける。

 かわりはて、ずたずたになり、けっして回復する見込みがなくなり、みるかげもなくなったとして、地球は我々人間を生んだ母であり、人間が霊長類と自称するなら地球にとって、わが子供である。

 傷つき老いた父母も、障害を負った子供も、それでも愛しているんだと抱きしめて、慈しみ、育むのはあたりまえの行為である。

 たとえ自分自身もボロボロになっていたとしても。である。

 温暖化が自己増殖して、環境が破壊され、気象が激変しても・・、あるいはどのような予期しない事態(ポールシフトなどオカルト予言は無視しても)になろうとも、断固として「するべき慈しみ」はやめられない。やめようがない。

 やるつもりがなければ消え去ってしまえ。その覚悟だけあれば、結局はやるべきことをやるだけなのだ。

 必要ないことはもちろんやるべきではなかろう。

 たとえなにもなくとも、平和のうちにあろうとも、「千年のうち」にゆっくりと、坂道を登るにつれて疲れ果てていくように、人は化石燃料の力を失っていく。

 その一方で、地球は人間がつけた消えない傷あとを抱えて、再生していく。人間の手助けなど、たとえなくても。

 いまの千年紀のそのまた次にも千年紀はある。

 考えることは自由ではてしがない。

 たとえ明日、私の命がつきるとも、先の先まで、見通す試みは放棄する必要はない。



2013/02/28  T.Sakurai ・・私は20代のころより、自分の責任ではなく、治ることがなく、やがてガンになるであろう難病を二つ持っていた。長生きできないと覚悟はしていた。