前のページに戻る


生産年齢シミュレーション



 前提

1・社会を維持していける、家族構成であること。(人口が長期的に、増減しない)

2・充分な高齢になるまで生存できること。(老衰や老いが原因の疾病以外で死亡しないこと)

3・すべての生活時間において、誇りを持ち、自己を高めていける機会を確保できること。

 上記の点を満たすための条件として。

1・合計特殊出生率(一人の女性が一生に産む子供の平均数)を、先進国における人口維持レベルの2.1程度とする。

 この場合、すべての女性が結婚して家庭を持ち、子供を作るなら、子供を3人持てるのは10軒に1軒のみである。

 しかし、望まない出産での子供を里親などで預かることを考えれば、実子は原則二人までとなろう。

 第一子を、20代前半で出産し、第二子をその三年後に出産すると仮定する。
 (子育て期間を短縮しつつ、子育ての過度の負担を軽減するため)
 (計算のための仮定は22歳第一子(男)、25歳第二子(女)とする。)

2・平均寿命を、現代日本より若干短い男性75歳 女性80歳と仮定する。
 (2011年統計では日本の平均寿命は男性79歳 女性86歳であった。 実際に死亡する年齢は、ここからさらに3年ほど加算したものが中心値である)

 現在のエネルギー多消費の先進国は、途上国からの資源や食料移動により実現しているので、これらの要因がなくなった場合、寿命を押し下げるなどの変動の可能性がある。
 (もちろん、寿命は長ければ長いほどよい。しかし個人の寿命の上限は各種の条件の変化があっても、ほとんど影響しないそうである)

 この場合、

 世代交代のサイクルは 「25年」 である。(25年ごとに世代が入れ替わる)

 平均的な1家族の数は、3-4世代の6〜7人で推移することになる。

 第一世代第一子が男性とすると、75歳に達したとき、第4世代の第一子が誕生する。

各種の数値
世帯ごとの平均年齢 39.2
世帯ごとの平均人数 6.3
幼児・児童(0-15歳) 平均人数 1.3
扶養/生産者数 平均割合 1.4
生産者(20-60歳) 平均人数 3.3
後期高齢者(75歳以上)
(完全引退世代)の平均人数
0.2

 となる。

 人類の場合、女性に生殖可能年齢の強い制限があり、また、世代間のバランスを保つために上記の設定とした。


追加


 ピラミッド型の多産多死の人口構成は、これまで人類が過去逃れられなかった絶対的ライフスタイルであった。

 しかし、これは、個人の幸福の追求とは相容れず、絶対に容認してはならないと考える。

 各世代の人口を平均化できる可能性は、十分な安定生産と医療の充実と、人口増大を容認しない態度が前提となる。かなりハードルは高く、「知的」と呼ぶにふさわしい努力である。

 環境の限界をこえた人口は、調整がなければ、やがて、おぞましき堕胎間引きの世界となって非人道的調整がなされてきた。

 そして長寿を前提とするなら、老齢人口の労働力化と、少子出産となる。

 また個人努力(体力勝負)の生存競争型社会は、選択してはならない。

 この意味で市場による競争を前提とした現在の資本主義は個人の幸福追求・生活安定にとって、相性が悪いのである。

 そもそも、競争の結果の独占と、資源の無制限な略奪を認めた時点で、すでに市場の効率は失われて、市場の存在意義もなくなるのである。

 倫理的に考えれば、独占者には、無条件の分配の義務が発生するはずなのだが、それを実施するものは、過去も未来もおるまい。
 だから市場を機能させるには、常に最適数の競争者が必要である。

 したがって、競争には何らかの上限(ペナルティ)を加えなければならない。

 このようなパラダイムの変更は、現代人には極めて抵抗が大きいことだろう。
 しかし、これは思考実験なのである。

 必要な作業と思われる。


2013/08/13 T.Sakurai


第1世代第1子 第1世代第2子 第2世代第1子 第2世代第2子 第3世代第1子 第3世代第2子 第4世代第1子 第4世代第2子 家族総数 幼児10歳以下 幼児/児童 中位学習者 生産年齢 高齢者 後期高齢者 生産者数 扶養/生産者数 平均年齢 年数
75 72 50 47 25 22 0   7 1 1   4 2   6 1.17 48.50 1
  73 51 48 26 23 1   6 1 1 4 1 5 1.20 37.00 2
  74 52 49 27 24 2   6 1 1 4 1 5 1.20 38.00 3
  75 53 50 28 25 3 0 7 2 2 4 1 5 1.40 33.43 4
  76 54 51 29 26 4 1 7 2 2 4 1 1 5 1.40 34.43 5
  77 55 52 30 27 5 2 7 2 2 4 1 4 1.75 35.43 6
  78 56 53 31 28 6 3 7 2 2 4 1 4 1.75 36.43 7
  79 57 54 32 29 7 4 7 2 2 4 1 4 1.75 37.43 8
  80 58 55 33 30 8 5 7 2 2 4 1 4 1.75 38.43 9
  59 56 34 31 9 6 6 2 2 4 4 1.50 32.50 10
  60 57 35 32 10 7 6 2 2 4 4 1.50 33.50 11
  61 58 36 33 11 8 6 1 2 3 1 4 1.50 34.50 12
  62 59 37 34 12 9 6 1 2 3 1 4 1.50 35.50 13
  63 60 38 35 13 10 6 1 2 3 1 4 1.50 36.50 14
  64 61 39 36 14 11 6 2 2 2 4 1.50 37.50 15
  65 62 40 37 15 12 6 2 2 2 4 1.50 38.50 16
  66 63 41 38 16 13 6 1 1 2 2 4 1.50 39.50 17
  67 64 42 39 17 14 6 1 1 2 2 4 1.50 40.50 18
  68 65 43 40 18 15 6 1 1 2 2 4 1.50 41.50 19
  69 66 44 41 19 16 6 2 2 2 4 1.50 42.50 20
  70 67 45 42 20 17 6 1 3 2 5 1.20 43.50 21
  71 68 46 43 21 18 6 1 3 2 5 1.20 44.50 22
  72 69 47 44 22 19 6 1 3 2 5 1.20 45.50 23
  73 70 48 45 23 20 6 4 2 6 1.00 46.50 24
    74 71 49 46 24 21 6       4 2   6 1.00 47.50 25
平均 6.3 0.9 1.3 0.3 3.3 1.2 0.2 4.5 1.4 39.2  



総論



 一人の人間が生まれるには父と母が血肉を与えなければいけません。
 三歳まで育つには、充分な栄養と暖かさと、その命を最優先して手間を惜しまず、一瞬たりとも目をはなさず慈しむ存在が必要です。
 7歳まで育つには、言葉を教え、生活のすべての基礎を使いこなす環境と心からの安心を与えなければなりません。
 14歳まで育つには、無力な存在をそのままで認めながら、同時に社会に出て行くための膨大な学習を確信をもって安全にさせねばなりません。

 そして人間は14歳から社会の準一員として見習い参加して、肉体的・精神的な成熟を達成することで、一人の人間がようやく存在できます。

 どの赤ん坊も、成長して、成人し、老いて、生涯をまっとうする権利があります。
 やがて自由のきかない体となった病人や老人となっても、生活をいたわり、感謝して守ってくれる別の世代の協力が欠かせません。

 父・母・そして慈しむ手をすべて合わせた存在は、まさに人間を作りだし、最後まで生かしていきます。

 人間を作り出すのも、見送るのも、どれもが人間です。
 人間が人間を生かすのです。

 生かす人間は時間がたてば生かされる人間であり、その意味で、世代は意味をなしません命の価値は、嬰児も青年も壮年も老年も変わりなく、どの時代のどの世代も自分が体験するのです。体験せねばなりません。

 赤ちゃんは成長して成人していきますが、その間に赤ちゃんを生み出した前の世代は衰え、老いて、消滅していきます。
 それは生命の新陳代謝であって、一人の誕生は、一人の死去の裏表にすぎません。

 生物的に言えば、成長は、老化と同じ現象にすぎません。
 ただの入れ替わりです。
 無限の成長はなく、老いて消えていかない命はありません。

 人口の増大は成長ではなく、膨張であり、周囲の環境が許した一時的現象です。
 膨張の裏側は縮小・破滅です。(経済も同様。経済の規模拡大は基本的にナンセンス)

 具体的に人間の最小単位を考えると、一人の人間が生まれて、生涯をまっとうして死ぬことを考えると、次世代を作るために男と女は結ばれ、二人以上の子供をなし、その子供を育て、孫をいつくしみ、充分生きたと満足できる年齢まで、支えてもらうことになります。

 一世代を20年とすれば・・・

 最低、嬰児二人(0歳)、親世代二人(20歳)、祖父母世代二人(40歳)、さらには曽祖父母世代二人(60歳)の合計8人が必要です。

 さらにはその上の世代もいてもあたりまえとすると1人の自分の生涯には10人の自分が存在して、どの自分も人間らしく、保護され、生かされ、守って生かしていく義務と権利を確実なものとせねばなりません。そのための具体的担保が必要なのです。

 私たち人間は、「知恵」をもって、周囲の環境を変えることができます。

 どうやって生きるか、何のために生きるのか・・は、大問題ですが、瞬時に変更可能な精神的人生価値とは別に、生物的な生涯の「運転ルート」は厳然として存在します。
 これは、あまりにも「あたりまえ」すぎます。

 やるべきことは決まっていて、変えようがないのです。

 変えうるものならあらゆる悲喜劇は必要ありません。
 どの時代のどの地域のどんな人間が、どんな道を選んで歩いていくにせよ、どの赤ん坊の1人もどの老衰した1人と生物的には同一になっていくのです。

 次々と襲い来る予測困難なあらゆる試練を跳ね返して、人間らしい一生を送る「見通し」を絶対確保する努力をするのは「あたりまえ」です。

 精神的な人生の価値は、それらが充足されてから考えても、遅くはありません。
 それに、現実論をいえば、精神的人生価値を考えるほど余裕がある人は、いつだって少数です。
 現時点の自分、つまり1/10の自分が生きるのにすらヒーヒー言ってるようでは、人間として生きてる意味がないではないですか。


2015/09/19  T.Sakurai