1 全体として見れば、経済活動の都市化が遅れ、農村的色彩が強まる。都市の仕事と都市間交易はぜん経済活動において相対的に減少し、農村の生産と交易が相対的に増大する。
2 既存の都市は停滞・衰退し、その損失を補うには不充分な新しい都市が発生する。
3 生産されるすべての財・サービスの量と種類が減少し、それが都市に輸入されるが、輸入置換過程に入り込まない。都市が衰退し、重要な輸入置換をしなくなるにつれ、都市が依然として受け入れている輸入品でさえ輸入置換の役には立たなくなる。これは先行する二つの変化の結果である。
(付記 間断のない大規模な軍需生産は、発展中の経済活動の諸特徴が、その対極をなす退化中の経済活動の諸特徴へと直接に転化させる手段でもある。軍需生産にかかわる取引はまさしく衰退過程の一部なのである。)
ジェイン・ジェイコブス 「発展する地域 衰退する地域」294-296より引用
反論を試みたい。発展とは何か。生活環境の悪化か、自然発生的都市の拡大か、生産の多様化か?
無限の空間と資源がないかぎり、拡大は一時的現象であり、新規の技術・資源がもたらされた直後に行なわれる調整活動(あるいは消費しつくす活動)にすぎない。
それは、予測できない新しい事態であり、リスクをともなうものである。
都市の空間は限られており、拡大すれば従来のインフラを廃棄して、より巨大なものを作ることになる。拡大がおわり、外部からの供給が減れば、巨大になったインフラは縮小しなければならないが、そのためのエネルギーは工面できないので廃墟が残る。
大規模流通には大規模消費者と大規模供給者と大規模流通者の三つが必要である。
大規模供給するには、大規模な設備・用地による単品生産が必要となり、供給地のバランスを無視したシステムとなる。
単一品目や、単一作物の生産が現地にどんな負荷をかけるか考えればよい。基本的に供給地からの可能なかぎりの収奪による、生産力の使い捨てになる。
また大規模輸送は、エネルギーの浪費であるが、使用済み物資の処分はエネルギーがかけられないので、結果としての物資の使い捨てが必然的に発生する。(使い終われば捨てるしかない。やっぱり廃墟である)
また、都市内部における循環再生産の拡大は、供給される物資とエネルギーの余剰を使ってなされるもので、全体的制約がかかれば、まっさきに消滅する部分である。
そこに依存していた生活者は、突然職をうしなうのであり、そもそもその職は、他の生産手段を失って都市に居住して、最後の販売物である自分の時間を処分するためのものである。
これは、人生全体の生活環境の悪化である。人生における将来の不安定化で、個人の尊厳の実現の困難にむすびつく。
軍需生産の経済への悪影響は、そのとおりだと思う。
消費のみで生産しない軍事行動は、最小限に「したい」ものである。
戦争中の日本経済を考えれば、海外で数百万の若者が、経済合理性をまったく無視した物資と浪費と破壊と人材喪失をくりひろげ、その結果、国内経済がどんなに疲弊して困窮化したかを考えればよい。
健康な人間でも、わざと自分を傷つけて出血させ続ければ、やがて衰えるのはあたりまえである。
もっとも、軍事費用の拡大は、 「敵」の存在、「敵」の製造によって、肯定されるのであり、基本的に生存のための安全保障なのだから、無視できるものではない。
いいかえれば、生存権の確保なのだから、軍事活動はもっとも崇高な行為になりうる。
(古代ギリシャの考え方は一部でそのとおりなのだ)
だから、安全保障は、全員参加で、安上がりで、実効性のある抑止力の形成と、紛争の原因である略奪の否定と、その宣伝・克服の協力をすすめなければならない。
拡大する経済は、大なり小なり、あるいは当事者同士の合意・不満にかかわらず、顕在的潜在的略奪が前提なのだから、安全保障にはマイナスの側面があることは指摘したい。
2016/02/01 T.Sakurai