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自給率は150%



 モデルの集落の、カロリーベースでの食糧自給率を最低150%と目標(想定)とします。
 年間消費量を100とすると、半年分の余剰がでる150の生産量ということです。

 対象は脱穀していない米・麦や乾燥したトウモロコシや加工した野菜・果実類です。
 缶詰などでの食肉も必要ですが、これは経費がかかります。
 ですから、日本では、味噌・梅干など(欧米ではピクルス・チーズなど)が優先して備蓄される程度でしょう。

 これを二年続けると、一年分の余剰食糧が備蓄できます。
 さらに二年続けると、二年分の備蓄となります。
 それ以上は、玄米での保存でも食味の劣化が大きくなると思われます。

 ですから、備蓄期限(食べられなくなるわけではない)のすぎた穀物系食糧は、
 麦芽などで糖化して、
シロップに加工して利用したり、
 
家畜の飼料
 あるいはエチルアルコールなどの
バイオ燃料
 それすらできなければ
 
単なる肥料として処分します。
 別の地方の災害地への
援助物資とすることもできるでしょう。

 一見よさような「無駄のない、贅肉をそぎ落とした在庫の圧縮」などは、考慮しません。
 適切に過剰で、冗長性と安定性のある、耐久力のある生活基盤を、自分で確保するのです。
 いざというときの生活の安全保障のための必要なムダとするのです。

 天明の飢饉など凶作は一年で終わりませんでした。
 外部から救援があればいいのですが、もしなくても、数年もちこたえられる食糧(現物財産)を、自前で各戸で確保しておくことが安心のために必要です。

 各家庭に、丸二年の備蓄があり、昨年分の一年の収穫と、凶作とはいえ無収穫でない数年分の収穫をあわせ、緊縮した消費を心がければ、5年以上にわたって餓死する家族を出さずにすむでしょう。
 

 さらに、太陽発電と液肥により、屋内(地下室)による水耕栽培で食糧を生産することも重要な生存方法と考えねばなりません。
 この場合、蛋白源としては微生物のタンク培養、あるいは昆虫類の養殖なども有効です。

 屋内生産がある程度計算できれば、太陽光線と井戸水さえある程度あれば、外部からの影響をいっさい受けない、安全なシェルターとして、かなりの期間もちこたえられます。


 極端で過大なハードルに見えるかもしれませんが、
 これは外部に大量に農産物を「輸出」しない「前提」ですから、
 さほど困難ではないはずです。
 (千年紀の農村は、外部に食糧を供給しない農村という、これまでの概念を大きく越える存在です。交易の原資は、村内での加工食品や日用雑貨などの小規模工業生産です。)

 これにより、数年にもおよぶ大規模で徹底的に過酷な人災や災害にも、自力で生き残るための準備とします。


 それに、マクロな文明の歴史からいえば、もともと、外部の「市場」に余剰生産物を売るための生産は好ましくありません。

 遠隔地に作物を輸送すると物質循環ができなくなり長期的な地力の低下に結びつきます。

 また、送った作物による都市の膨張と、農村の都市支配が発生して、生産者の経済的独立が相対的に低下するのです。

 「市場」(都市)は、競争を発生させ、産地間を競わせることで支配権をにぎります。
 産物も人材も都市によって吸い上げられるバキューム効果による農村の収奪は、一見平和で合理的選択に見えるので、対抗が難しいのです。

 マスマーケットではなく、量的には少なく、質的に高く、付加価値の高い、余剰生産品による交易によって、外部から必要な高度で少量の、技術製品を入手するのが望ましいと考えています。

 大量で付加価値の低い生産ではなく、少量で高付加価値の物産による交易が目標
 です。

 また、一家庭の平均家族想定数は6-7人で、最大扶養想定数は10人とすると、10人を扶養するだけの能力を維持すれば自給率実質150%が実現できるわけです。
 無理な想定ではないのです。それだけの能力は持たねばなりません。


2016/06/14 T.Sakurai


公共所有の否定



 共産制にあこがれる人は古来、あとをたちません。

 若き日の私の周辺にも、共産主義やイスラエルのキブツなどのコミューンについて、キラキラとした目で話した知人は何人もおりました。

 私有財産を制限し、あるいは否定し、平等で「能力に応じて働き、必要によって得る」ことを理想とするのは、欲望を制御できそうに思える、きわめてあたりまえな考え方の一つではありますが、・・

 その一方、成功したとされる例でも、評価できる。・・・ものではなさそうです。

 旧共産圏の集団農場、人民公社、キブツ、あるいは宗教的コミューンなど、いくつも「実験」がなされましたが、どれも大きな経済システムのごく一部の一時的な活動にとどまり、主流の経済システムとなったことはありません。

 共有地の変遷も、いつのまにか競争と独占に集約され、個人の所有の否定がなされたところでは、非効率と不正の横行が顕著となり、収奪されるのが結末となっています。

 あらゆるものに、個人の所有の絶対性を付加しないと、本当に質の高い運用はできないのかもしれません。

 存在したコミューンの多くは脱落者を大量に生み出し、いわば身ぐるみはいで弱者を放逐してきた歴史を持っています。

 日本の**会などは入会するとき私有財産をすべて提供させるのに、脱退するときは無一文に近い状態で送り出します。
 そして脱退率は6割以上なのですから、実質は、貧民生産組織です。

 外部に巨大な経済システムがあって、彼ら無一物の貧民を引き受けて生かして養ってくれなければ、コミューンが成立しないのですから、収奪的官僚システムと同じように、社会的負担発生装置といっていいかもしれません。
 (農業コミューンも収奪的官僚システムも、日本においては、機能集団的共同体ですから、実態は同じです。当然、社会的弊害も同じです。)

 どのコミューンも労働によって生み出した利益は内部留保され、幹部の恣意によって流用され、分配は公正ではなくなってしまいます。
 
 致命的なのは、それらのシステムが作動するのは、外部にまったく違った経済システムが巨大に存在しているので、小さな異常システムが矛盾をまきちらしていても、社会がゆるがない点にあります。

 ですから、想定する「200人の集落」では、農地、山地、公民施設、道路、すべてにおいて、個人、あるいは家が株主となる法人により所有と利用者が明確になっており、その上で、個人の責任による無償の行為により、運営と保守を永続させるシステムを考えています。

 現物の報酬によるインセンティブによって、責任を担保させては、貧富の格差を生み出して、やがて社会の不安定をまねくのですから、名誉による「献身」と「能力発揮」を最大限に生み出す体制が望ましいでしょう。

 共産制は、「現物」ではなく「名誉」において、なされなければならない。ような気がします。


2016/06/14 T.Sakurai 今日からまた入院