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江戸時代の評価
edo period



 仮定の問いかけですが・・・もし、権力が、暗殺を含む拷問を使って、抵抗する権利を否定された庶民を統治する世界があるならば、それは暗黒の地獄といってよいです。

 これにはどなたも異論はないはずです。

 いつの時代の、どのような権力も、治安と社会構造を守る必要があるのですが、その手法は「なんでもしていい」わけではないのです。

 同様に仮定の問いかけをもう一つするならば、人口は抑制しなければなりません。
 持続できる社会を構築するには、人口を増やさないことを実現せねばならない必然があります。それでも、やはり「なんでもしていい」わけではありません。

 マルサスの予言のように、人口爆発による、戦争・疫病・飢餓の発生による他動的な人口調整はそれこそ悪夢ですから、防止せねばなりませんガ・・・

 その手法が「堕胎・間引き」を含み、次男以下を結婚させなかったり、食い詰め家庭の少女を遊女にしてすりつぶしたり・・といった手法を江戸時代はとりました。

 社会治安は維持され、平和で家単位の富は蓄積され、識字率や文化芸術的成長・洗練がもたらされましたが、間違いなく、「非道で誤った」手法にたよった、やはり暗黒の地獄時代だったと、私は意見します。


 江戸時代はほぼ完全に資源がリサイクルされた、高度で洗練された持続可能社会の傑作(「イギリスと日本」参照)です。
 一種のモデルとしてきわめて有効で、繰り返し参照されねばならないモデルです。

 しかし、人類が将来、選択して形成していくべき社会モデルとして、致命的欠陥があります。


 それは
 ・人口の一割の武士階級が、都市の官僚として存在。つまり都市が前提の社会であったこと。

 ・農家は、代償なしで収穫物を都市に吸収されたこと。

 ・物質循環を近距離で完結できなかったこと。

 そのため、農地はそのままでは疲弊し、収穫が低下し、年貢が提供できなくなることで生活水準の下降圧力が常にあったこと。

 都市があることで、物質循環は多大の労力が必要となり、それには「人力による」過重な労働が前提となりました。(都市の排泄物を人力で田畑に戻さねばなりません)

 同時に年貢という高額の税金(豊凶を無視した定免法で実効税率20-30%)を効率よく支払うため、換金作物ならぬ換年貢作物「コメ」のモノカルチャー・単品大規模生産が求められ、一種のプランテーション経営が余儀なくされたこと。

 その結果、生産単位としてのイエの機能集団化・会社化が不可欠となりました。
 イエは生産力の効率が常に求められたのです。

 これを実現する「動力」は、人力によるしかありません。
 そのため、つねに最適な人数・年齢構成を各家庭は求められました。家族は社員的な立場を持つことになりました。

 機能優先のためにこそ、血縁を最優先させられず、肉親感情では抵抗があるはずの、養子縁組をダイナミックに使う生産装置になります。

 その集積がムラ秩序であり、各家庭がこの秩序を乱して、ムラの生産性をそこなえば(足をひっぱれば)、ムラから制裁の対象となるのです。(年貢は村がまとめて納入する「村請(むらうけ)」である)

 感情は、搾取する「お上」に従属するためのムラ機能維持のための犠牲にさせられました。
 そこに個人の尊厳や自由はありません。

 都市のために、生産性の高い美しい田園が必要とされ、その田園のために、水子や過酷な生涯の次男次女以下の不幸が「必要」とされたのです。

 不幸の血の叫びには、精神をマヒさせ、無視するしか解決方法は、なかったのです。

 武士は終身雇用で年功序列と知れ渡っていますが、実は農民も終身雇用で、武家の下請け農村共同体社員なのです。

 社員であるがゆえに、家庭を顧みない、サラリーマン戦士の悲哀は、江戸期の農民の場合、武士よりもっと大きかったでしょう。

 これは極論かもしれませんが、権力をもった都市が、人間を肉体的にも、精神的にも、食らい尽くしていた可能性が強いのです。

 だから、江戸時代は破綻なく、数百年の安定した人口の持続的社会を築きえたのですが、これは人類全体からすれば、一地方の短期的な仮の持続性を持てただけの例外に過ぎないのです。
 というより、例外にすべきモデルなのです。

 江戸時代モデルが普遍化すれば(するわけないですが)、救いようのない愚かな選択となるでしょう。


 千年のイエは、個人の尊厳を、エネルギーの所有と、物質の蓄積と循環によって維持するものです。
 中間搾取していく都市や権力を最小限に押さえ込まねばなりません。

 もちろん人口は増やせません。
 でも増やさないための手法は、各種科学的避妊と、精神的価値を肉体的快楽におかず、節制と倫理によって実現する義務があります。

 マルサスの憂鬱を、知性で軽やかに回避するのが、成熟した個人というものでしょう。

 無力な胎児や嬰児にしわよせされた過去は、我々日本人の恥・民族の汚点として繰り返し嫌悪して、絶対回避しなければなりません。

(出生前診断で遺伝子異常が確認された場合、あるいは本人の責任ではない望まれない妊娠の場合の中絶は、肯定せざるをえない。と思います。その場合でも、人間らしく、子供を愛する親として、命をいつくしむ姿勢を捨てる必要はありません。)


2016/05/05 T.Sakurai こどもの日に