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なぜ千年農地なのか



 地球という土地の固まりは、人間が進化して登場する前からありました。

 人間が滅び去ってからも存在し続けます。

 土地を利用するものは、しょせん時を通過するだけの旅人にすぎません。
 人の短い一生の中で「この土地は私のものだ」と宣言したところで、100年後は別人の手に渡っているし、その人もすぐに消え去ります。

 人間が土地を所有する意味は、それによってどれだけの善をつみかさねて、人を愛することに使ったか、その思い出をのこすこと。ぐらいでありましょう。
 内村鑑三の「後世への最大遺物」の考え方はまったくそのとおりと、思います。

もちろん個人以外の、共同体・企業・政府・国家・王が土地を所有したところで、同じことです。
 なにをやっても、永久に占有できるわけがありません。
 どんな制度も、人間の妄想で機能させているのですから、どんな大組織であると僭称しても、かえって個人が持つよりも流動的であっても不思議ではありません。
 
 「千年」という、おおげさな期間のとらえ方は、人間個人が想像できる究極なタイムスケールという以外の意味はありません。
 
 それでも私たちは、永続的に二人の子供を残して、存続していかねばなりません。
 しかし、どこか特定の土地に縛り付けられるわけではありません。
 土地は気候の変化、地形の変化により、使用できなくなったり、使用できるようになったりすることでしょう。
 そのたびに、土地にしがみついて太陽の恵みを期待するしかない私たちは、移住が必要になります。だから、私たちは永久に放浪者なのです。でしかないのです。

 その土地に、その土地が養えるだけの人が住む。
 その中の一人として、私の子供たちが幸せの中に生活しつづければそれでよいのです。

 これ以上のことは、望んではなりません。

2013/6/27 2016/1/10 T.Sakurai


 土地は大切に


 辛酸を重ねた農民はかってこのように言っていた「何があっても土地は売るな」

 たしかにそのとおりかもしれません。
 土地を売ることは、自立の手段を手放して、だれかの寄宿者になるのですから。
 では、土地を買うことはどうなのでしょう。
 自分が買うことで、土地をすべて失う者がいるとしたら、それも許されないことかもしれません。 

 また、農地をつぶして、何かに利用することは許されるのでしょうか?
 その土地がエネルギーとカロリーを生産することで、その生産分を利用して生きていくことのできる人間を減らすことにならないでしょうか?
 農地を失うことで、その土地が将来(理論上は永久)にわたってささえられるはずの家族のつながり(歴史)を奪うことに(潜在的に)ならないでしょうか?

 土地を奪うことは論外でしょう。
 では、「取引・売買」によって広大な土地を所有することも同じ非倫理性を持つとしたら、人間の歴史とはおぞましいものに見えかねません。
 そして実際におぞましいものであると断じてもいいかもしれない可能性があります。

 「何かを買う」ことで、売った人間を破滅させることは許されないし、その逆の「何かを売る」ことで、買った人間を破滅させることも許されない。はずです。
 たとえは不適切でしょうが、麻薬の売買を想像すれば明白です。

 農地の売買、あるいは農地の転用は、「飢えた人間」がいないことが前提であり、かつあくまでも人道的に合理的理由がなければならないし、買えるからといって大規模農地を所有して、恣意的に使うことも、問題があります。

 農地を酷使して、農薬や有害物質を蓄積させて、塩分だらけにして使用できない荒野や砂漠に変貌させ、つまりは破壊して放棄することは・・どう考えればいいのでしょう。


 ・・というより、農地を買った人間は、農地から生産される食料を食べる人間の、生存権という根源的人権を死守する責任が生じると考えるべきではないでしょうか。

 それから人身売買は許されないし、人を奴隷化することも許されない以上、基本的生存を担保する生産手段は、生まれてから死ぬまで、その人間個人に絶対的に所属すべき権利であります。

 自分が所有する「モノ」の防衛は、自己責任です。
 ただし、幼児・老人・障がい者など、あるいは実力がごく限定されているすべての「庶民」とて究極的な防衛も運用もできないので、なにか(少なくとも最小単位は家族)が、その責任を分散担当、あるいは肩代わりして担保しなければなりません。

 国家(とか)が適切に守ってくれるならいいのですが、国家がいつでも機能しているわけではないことは自明です。
 たいていの国家の寿命など、長命の個人より短いのがあたりまえですから・・。

2013/6/26 2016/1/10 T.Sakurai